千葉大学助教授となり、文学部棟5Fに18平方メートルの研究室を作り上げ、その中にプレハブの鳥小屋も建てた。卒論生もついた。言うことなしである。そこにさらに良い話が入ってきた。当時、教養部を廃止し大学1年から専門課程を学ぶような大学改革が進んでいた。そのため、教養部の教員が少しずつ学部に所属するようになった。結果として、教養部の建物に空きができた。そこに移住しないかと言うのである。これまでは18平方メートルですべてをやっていたが、今度は自分の居室として18平方メートルが使え、実験室として36平方メートルが使えるのである。こんなうまい話があるものか。教養部の建物には夜な夜な幽霊が出たり、隣室に変人が住んでいたりするのか。ままよ、幽霊が出ようが変人がいようが構わない。俺は教養部の建物に引っ越すことにした。
言っておくが、俺は大学の教養部を廃止することには反対であった。大学生になってまで高校の延長みたいな講義は無意味である、と当時言っていた者もいたが、俺は逆に、大学生になってまで教養のない学生が多すぎるのだから、教養教育をしっかりやるべきだと考えていた。考えていたが、行動しなかったので考えていなかったのと同じである。まあともあれ、俺は大学改革に反対ではあったが、しかしその改革のそのおかげで居室に加えて実験室を持つことができるようになったのだ。清濁併せ呑むのは得意だ。
教養部の建物に越してみると、夜中に幽霊が出ることはなかったが、近所に変人はいた。しかしこれは、大学であればどこにでも近所に変人はいるものなのである。そして俺も隣人からすれば、変人の部類に入るのであろう。居室と実験室兼飼育室が徒歩5分ほど離れてしまったのは問題であったが(何しろそれまでは居室=飼育室=実験室だったのだ)、面積が3倍になったのだから、何も文句はない。
実験室にした部屋は非常に長いこと使われていなかったと見えて、生物多様性にあふれていた。いろいろな昆虫やクモたちに立ち退いてもらい、床にワックスをかけ、壁にペンキを塗った。これらはみな初代と2代目の学生たちが手伝ってくれた。大学の研究室に入って最初の仕事がペンキ塗りだったのは、彼らの良い思い出になっているだろう。俺はポジティブシンキングなのだ。
ひととおりきれいにしたところで、文学部棟の居室のプレハブを解体し、実験室に移動し、再び組み立てた。鳥たちはあまり深く考えずぴーひゃら鳴いていた。少々日当たりが悪くなったので、鳥小屋には野菜を育てるライトをつけてやった。居室にも本棚と机とファイルキャビネットを動かし、快適な暮らしが始まった。鳥の世話も学生が持ち回りでやってくれるようになり、俺は少し大学教員らしくなった。ここで一生研究しようと思っていた。
そして1年ほどすぎたある日、俺の面接を担当してくれた土屋俊先生から、「さきがけ研究(科学技術振興機構の若手研究者育成制度)ってのがあるんだけどさ、応募してみない?」と言われた。なんだかよくわからないが、その制度で研究を進めている面々を見ると、いろいろな学問分野の若手有名人ばかりだった。俺は若手ではあったが無名人だったので、自信はなかったが、「鳥の歌の生成文法」をテーマに申請書を出してみたところ、なんと採択された。俺は千葉大で最初の「さきがけ研究者」になったのだ。
さきがけの研究費で最初に作ったのは、防音壁である。プレハブだとさすがに音が漏れて、鳥の歌をきれいに録音できない。また、鳥の数も種類も増えてきて、その頃にはさながら千葉大花鳥園のようになっていた。実験室の前には池があり、カエルとボウフラが養殖されて いた。ケロケロ、ピーピーとても賑やかだ。そこで、36平方メートルの部屋を12平方メートルと24平方メートルに防音壁で仕切り、狭いほうを飼育室に、広いほうを実験室にすることにした。それまでのプレハブ飼育室は2畳、約3平方メートルだったので、4倍の広さになった。飼育室の鳥の声は実験室には漏れず、正確な録音ができるようになった。
そうこうしているうちに、俺の居室の電話に留守電が入っていた。なんと、当時の学長、丸山工作先生からであった。先生はヘビースモーカーで、留守電に吹き込んでいる間もたばこを吸っているらしく、「学長のーースパー丸山ですスパー」という調子の留守電で何度も聞かないと意味が分からなかったのだが、とにかく俺がさきがけ研究をとったので助手をつけてやるという話、そして今度新築する理学部棟に俺の実験室を作ってやるという話であった。丸山先生大好き。なんだこの大盤振る舞いは。
そういうわけで、俺は千葉大に総計200平方メートルほどの実験室を持ち、うち36平方メートルを鳥小屋として使い、そのうち鳥だけではなくハダカデバネズミまで飼うようになった。2畳、3平方メートルのプレハブから始まった俺の鳥小屋は、千葉大最初の4年間で36平方メートルにまで広がった。12倍だ。まるで鳥小屋わらしべ長者である。当時の大学の自由な雰囲気、当時周りにいた先生方の理解、そして当時の学生たちの情熱と悪乗のたまものである。今思い出してみても、なんだあの日々はと思うばかりに輝いている。
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岡ノ谷一夫
帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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