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マイ・フェア・ダディ! 介護未満の父に娘ができること

 ある日のこと。珍しく、朝から父が電話を掛けてきた。出ると、やけに怯えている。聞けば、玄関に知らない人の靴があると言うではないか。もちろん、来客はない。

 父の記憶力がいい加減なのはいまに始まったことではなく、結果的には思い違いだったり、忘れていただけだったりすることが多い。しかし、そういう時の父はだいたい怒っている。あいつがアレを盗んだとか、誰かがコレを捨ててしまったとか、全部が他人のせいなのだ。これは認知症ではなく、性格の問題。

 同じことができる時とできない時がある、物忘れはあるが理解力には問題がない、などの症状で知られるまだら認知症、つまり本格的な認知症の手前の症状がいつ現れるかと気がかりだったが、父は60代からずっと先述の通りなので、見分けがつかないかもしれないと思っていた。だが、今回の父は「怯え」という、過去にない状態にあった。

「霊がいるんだと思う」と弱々しい声で父が言った。こりゃびっくりだ。心霊の類は一切信じない人だったし、実家で同居していた頃に不審な物音がしても「お化けか泥棒、どっちかね?」なんて呑気なことを言う人だったのに。

 とりあえず靴の写真を撮って送れと伝えると、靴の写真だけ撮れない、とまるで霊障のようなことを言う。しかし、これを鵜呑みにしてはいけない。それなら靴以外の写真でいいから撮ってと頼むと、それも撮れないという。単にスマホの不具合だ。

 らちがあかないので、一度電話を切ってLINEのビデオ通話を試みた。憔悴した顔の父がスマホの画面に写る。知らない人の靴があるなら、ベランダかトイレや風呂場に知らない人がいるのかもしれないから見に行ってと伝えると、すでに確認済みで誰もいないとの答えだった。ならばと父に玄関まで行ってもらい、靴をスマホのカメラで写してもらう。なるほど、私の記憶にもない靴だ。最近の幽霊はNIKEを履くのか。

 自分が履くとブカブカだと父が言うので、ひとまず靴に塩でも振って玄関の外においておけばと提案し、ビデオ通話を切った。怯えだけでも減少させられればと思ったのだ。こちとらあと5 分でラジオの生放送が始まる身だ。いつまでも構ってはいられない。長年の経験から導き出した予想では、靴はそこまでブカブカではなく、昔の靴を玄関に出しておいてすっかり忘れてしまったのだろうと思った。

 一日経過し、父はすっかり落ち着いた。友人にも何人か電話をしたらしく、そんなことはあるはずがないと(なだ)められたらしい。気持ちが悪いなら捨ててしまったほうが良い。靴なんて、何足もあるのだから。

 父は落ち着きを取り戻したが、私には不安が残った。いい加減な記憶と不条理な怒りは父の十八番だと思っていたが、記憶違いと「怯え」がくっつく日が来るとはまったく想像していなかったのだ。

 怯えがつのれば精神が蝕まれるし、下手をしたら体調を崩すきっかけにもなりかねない。すぐに手を打てる策があるわけではないが、地域にどんな介護サービスがあるのか、ちゃんと確認するのには良い機会だ。健康的な生活を送ることばかりに気をとられていて、いざという時のことを私はなにも調べていなかった。

 手始めに、父が住むA区の地域包括支援センターをインターネットで検索する。老人の介護や支援にまつわる相談を受け付ける地域包括支援センターは区役所内にあるものだとばかり思っていたが、どうやら違うらしい。A区は広いので、地区によってセンターが細かく分かれていた。

 父が住む地区を担当する地域包括支援センターは、民間のデイケア施設(宿泊がないタイプ)に設置されていた。なるほど、委託業務なのか。

 該当地区のセンターに電話を掛けて話を聞いてみると、介護保険を使って介護サービスを受けるには、まず要介護認定の申請が必要だと言われた。申請書を提出すると、認定調査員が自宅などを訪問し、本人の認定調査が行われる。主治医の意見書も必要で、そのあとコンピューターによる一次判定と専門家による二次判定が行われ、ようやく介護や支援が必要なレベルが決まるのだそうだ。いわゆる「要介護4」とか「要支援2」とかいうアレのことだろう。

 A区では、区、地域包括支援センター、ケアマネジャー、介護サービス提供事業者がそれぞれ独立しており、連携を取って機能しているようだった。そんなことすら知らなかった。なんとなく、全部同じところにあるのだと思っていた。区役所に相談にいけばケアマネジャーが決まり、「このサービスが使えますよ」と教えてもらえるのだろう程度にしか考えていなかった。

 なにもわかっていない私を不憫に思ったのか、電話対応をしてくれた方が介護保険のしおりを郵送してくれることになった。届いた冊子を見てみると、わかりやすく記そうという努力が最大限なされた、しかし一目ではなにが書いてあるのか、少なくとも私にはまるでわからないものだった。行政が悪いのでも、デザイナーが悪いのでも、システムが不親切なのでもなく、私があまりにも不慣れだから頭に入ってこないのだろう。ことが起こってから行動したのではまったく間に合わないことだけは、はっきりと理解できたのが不幸中の幸いだった。

 長年の女友達に、介護保険の達人がいる。母親が怪我をして入院することになって初めて、ひとりでは生活が困難なくらい父親の認知症が進んでいることがわかり、慌てて両者の介護サービスを整えた猛者だ。彼女に時間を作ってもらい、話を聞くことにした。結果、私の認識が甘すぎたことが明確になった。

 彼女の場合、母親が入院して数日後に実家を訪ねたところ、家は雑然としており、洗濯も炊事も手付かずの状態で、すべての部屋の電気がつけっぱなしだった。電話では「大丈夫」と言っていた父親の言葉はあてにならないことが、一目瞭然だったという。

 突如一人暮らしになった不安とプレッシャーもあったのか、父親の状態は「物忘れ」というレベルではなくなっていた。とてもではないが、母親が退院するまで一人暮らしはさせられない。特に火を使うのはかなり危ない。今日明日にはどうにかせねばならぬ状況が、突然彼女を襲ってきたのだ。

 しかし、こうなったからと言って、すぐにどこかの介護施設に入居できるわけではない。彼女は母親が入院する病院の相談員に話を聞いてもらい、「持病の検査入院」というかたちで、ひとまず父を入院させた。なんという高等テクニック。

 1週間の入院のあいだに地域包括支援センターへ要介護認定を申請。申請と同時にショートステイ(短期入所生活介護)先を探してもらい、入居を申し込む。まだ介護認定は受けていなかったが、空きがあれば百パーセント自費なら入居できるのと、認定が下りたあとに遡って介護保険を適用することもできるとわかったからだ。しかし、どのくらい戻ってくるかは認定の度合いによる。

 ショートステイ先が決まり、父親が病院から退院。次の作業は、父親が入居するまでに、すべての荷物に名前を記すこと。踵のあるスリッパは持ち込みOKとかNGとか、いろいろ指定があったらしい。これがかなり大変だった。

 ショートステイ先には最大で2週間と少ししか滞在できなかったため、地域包括支援センターの担当者と相談して次の滞在先を探す。思い返すと、結構な綱渡りだったという。介護認定が下りるまではケアマネジャーはつかないが、ついてからは今後の方針などはすべてケアマネジャーと話し合って決めることができる。それまでは地域包括支援センターと連携をとるしかない。

 認定調査の結果が出るまでに要した期間は、約1か月。ご多分に洩れず、彼女の父親も面談の際は普段とは打って変わってシャキッと対応してしまったらしく、そんなこともあろうかと、彼女は父親の日常のエピソード(できなかったことや、普段の様子)を記した紙を用意して調査員に渡した。どれくらい審査に影響したかはわからないが、やっておいてよかったとのこと。

 父親は要介護2と認定された。しかし、ショートステイ中にもどんどんと症状が悪化したため、認定を更新する申請を提出。結果、要介護3になった。賢明な彼女は、母親が退院する前に母親の要介護認定も申請した。両親ともに認定されれば、使えるサービスが増えるからだ。

 私など、彼女から話を聞いているだけで疲労してしまったが、「この社会は意外とちゃんとしているとわかって感動した」と彼女は目を輝かせて言った。ひとまず介護認定を受けて軌道に乗れば、様々な提案は地域包括支援センターやケアマネジャーがしてくれるそうで、無年金の老人でも路頭に迷うようなことがないシステムにはなっているそうだ。父親を施設に入れたことを後ろめたく感じた彼女を察して、施設長は「もう、介護は家族がやるものではないですから」と言葉を掛けてくれたという。しかし、その情報にたどり着けるか否かが、介護者と被介護者の運命を分ける。嫌な言葉だが、「情報弱者」は損をするのが現状だろう。

 介護認定や介護保険を利用しての長期滞在型施設への入居など、様々なことが会議で決まるのが印象的だったと彼女は言った。まるで天国に行く前の神様会議のようだと私は思った。さて、我が父の場合はどうなるのだろう。

 彼女の話を聞いたあとに冊子を再読すると、なるほど書いてあることがグンとわかるようになっていた。それによると、生活に不安を感じた老人は、日常生活に必要な機能が低下していないかを判断する25の質問に答える生活機能チェックシートなるものをもらえるらしい。生活機能の低下が認められた場合には地域包括支援センターの職員が無料で介護予防ケアプランを組んでくれて、介護予防や生活支援のサービス事業を利用できる。まだ自立した生活が送れると判断されても、安価や無料で一般介護予防事業は利用できるらしい。いわゆる体操教室や食生活指導など。

 まずはかかりつけ医に頼んで認知症の症状が出ていないかチェックすることを、友人からは勧められた。さて、この誘いに父が乗ってくれるだろうか。

 (つづく)

(「波」2022年1月号より転載)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

ジェーン・スー

1973年、東京生まれの日本人。作詞家、コラムニスト、ラジオパーソナリティ。TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」のMCを務める。『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』(幻冬舎文庫)で第31回講談社エッセイ賞を受賞。著書に『私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな』(ポプラ文庫)、『生きるとか死ぬとか父親とか』(新潮文庫)、『おつかれ、今日の私。』(マガジンハウス)、『闘いの庭 咲く女 彼女がそこにいる理由』(文藝春秋)など。

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