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マイ・フェア・ダディ! 介護未満の父に娘ができること

 介護経験がある女友達に、玄関の見知らぬ靴に怯えた父のことを相談したら、かかりつけ医に認知症の症状が出ていないかをチェックしてもらう案を提案されたのが先月のこと。しかし、すぐに実行に移すのは難しかった。

 霊の靴だと言い張って怯えていた父はあっさり靴を捨て、怯えも靴とともに消えた。父の日常生活は通常運転に戻り、私は「病院でチェックを」と言い出すタイミングを失った。

 ここで今までのように「じゃあ、いいか」と放り投げるのは違う気がしていた。父の健康状態に大きな変化はないが、私も気づかないところでゆるやかに、できることが減っていっているのではないか? という疑念があった。あるならば、知っておきたい。

 老人の健康管理に、「フレイル」という概念がある。英語の「Frailty(もろさ)」が語源だそうで、東京都医師会のウェブサイトには、「人は年を取ると段々と体の力が弱くなり、外出する機会が減り、病気にならないまでも手助けや介護が必要となってきます。このように心と体の働きが弱くなってきた状態をフレイル(虚弱)と呼びます」とあった。

 加齢にともない、人の健康状態は変化する。東京大学高齢社会総合研究機構の飯島勝矢教授が作成した図によれば、生活習慣病に注意しながら生活していけばよい健康な状態から、介護予防策が必要になるプレ・フレイル、自立支援に向けたケア(リハビリテーションなど)が必要なフレイルを経て、要介護になる。フレイルは、健康と要介護の中間の状態を表すのだ。

 フレイルには三つの面がある。一つ目は身体的虚弱、二つ目は心と認知の虚弱、三つ目は閉じこもりや孤食など社会性の虚弱。なるほど、よく考えられているなと思った。というのも、その三つは私が知る限り相関関係にあり、どれかひとつにガタがくると、残りの二つも自動的に弱ってくるのだ。三つのバランスがなにより肝心。

 「老人 健康チェック」で検索すると、フレイル状態か否かを確認するチェックシートがインターネット上にいくつも存在した。そうだ、まずはこれを父にやってもらえばいい。自分でやれと言ってもやらないだろうから、家を訪ねて私が質問することにした。

 私が使用したのは、公益財団法人・長寿科学振興財団が作成した、25の質問。体重減少、主観的疲労感、日常生活活動量の減少、身体能力(歩行速度)の減弱、筋力(握力)の低下をチェックするものだ。運動機能、栄養、口腔機能、生活機能、閉じこもり、認知症、鬱の状態・傾向がわかる。

 最初の問いは、「バスや電車で一人で外出していますか?」だった。間違いなくイエス。しかし、父は答えるのに少し時間を要した。これは想定外。1問目からヒヤッとする。だが、「質問に答える」という作業が久しぶりだっただけなのか、問いを重ねていくうちに答えるスピードはどんどん上がっていった。また、質問を始める前に少しだけ認められた顔面の歪みは、答えているうちに表情筋が活発に動いたせいか、25問が終わるころには直っていた。

 さて、答えを細かく見ていこう。運動に関する質問のうち、フレイル傾向の答えは5問中2問。少ないと思ったが、パーセンテージで考えれば40パーセント。約半分だ。「過去1年に転倒したことがあるか」の答えがイエスだったので尋ねると、室内で転んだという。サルコペニアかもしれない。

 サルコペニアについては、健康長寿ネットというサイトの文言を一部改めつつ引用させてもらう。曰く、

 「65歳を超えると3人に1人が、年に1回以上転倒するという統計があります。転倒は特に75歳から急激に上昇し、この転倒が増加する75歳ごろより、足の付け根の骨折(大腿骨頸部骨折)も急激に増えてきます。転倒は、コードや段差につまずくなどの『偶発の環境要因』が30パーセントほど関係していますが、17パーセントほどは『歩行やバランス障害、筋力低下』といった身体虚弱が原因となっています。したがって、転倒は『骨折』や『外傷性脳出血』などの原因にもなりますが、『筋力低下』や『バランス障害』などの結果、転倒が生じるとも言えます。サルコペニアとは『加齢に伴って生じる骨格筋量と骨格筋力の低下』と定義されています。さらに、『身体能力』の低下を含めて三段階に区分すると、単なる『筋肉量』の低下だけのプレサルコペニア、『筋肉量』の低下に『筋力』または歩行速度などの『身体能力』の低下がみられるサルコペニア、そして、『筋肉量』も『筋力』も『身体能力』も低下した重症サルコペニアになります」

 老人ケアはまるで受験勉強だ。覚えなければいけない言葉が多い。父はまさに『偶発の環境要因』でコケる。脱ぎ履きを含めてスリッパを履いているときが多いのだそうだ。加齢により、脳の指令通りにつま先が動かないのだろう。単なる歩行とはまた別の問題。コケにくいスリッパを探すことにする。

 質問の答えに戻ろう。栄養に関するもので不安な回答はゼロだった。口腔に関するものは3問中2問がフレイル寄りの答え。「半年前に比べて固いものが食べにくくなったか」がイエスだった。おせんべいや豆菓子のことかと思ったら、水加減を間違えて固く炊いてしまったごはんが食べにくくなったという。固いものが食べにくいというより、嚥下の問題かもしれない。尋ねてみないとわからないものだ。水分にむせるなどの誤嚥はなし。「季節を問わず、朝起きると口の乾きが気になるか」はイエス。ここも要注意。口腔に問題が出てくると、自動的に栄養がとりにくくなっていくから。

 閉じこもりに関する質問は、外出の頻度を尋ねるもの。2問ともフレイルを示す答えだったが、これはコロナ禍が大きな原因だ。オミクロンのせいで、再び父の外出頻度が下がってしまったのだ。

 コロナの前まで、父は最低でも週に一度は外出していた。70歳くらいまで車にばかり乗っていたのに足腰に致命的なガタがきていないのは、そのおかげと言える。それからコロナ禍が始まり、感染を避けるための自発的ひきこもり期を経て、ここ数か月はようやく再び外出できるようになっていたのに。いまでは二週に一度の外出だという。これに関しては父なりに対策を講じていたので、後述する。

 認知症に関する質問は3問。「物忘れがあったり、周りの人から同じことを繰り返し聞くと言われたりするか」、「自分で電話番号を調べて電話がかけられるか」、「今日が何月何日かわからないことがあるか」。父の答えは最後の1問だけイエス。私もわからないことがあるので、あまり深刻にとらえなくても良さそう。

 うつに関する問いは五問あったが、どれもフレイルには該当しなかった。「自分が役に立つ人間だとは思えない」という質問には、即座に「ノー!」と答えたので笑ってしまった。笑いはしたが、事実、父は誰かの役に立っている。それも毎日。「誰か」と言ったが、相手は人間ではない。文鳥のピーコだ。

 文鳥を飼いだしたときはどうなることかと思った。結果、予想以上にピーコの存在が父の健康を保つのに役立っている。まず、誰とも会わない日でもピーコに話しかけてばかりいるので、発話が疎かにならずに済んでいる。次に、水や餌を替えるルーティーンが、ある種の仕事として父の生きがいになっている。最後に、自分以外の若々しく愛おしい命と共に暮らすことで、気が滅入ることがない。ピーコは父が大好きで、鳥とは言え誰かに必要とされている状態が恒常的にあることが、父の精神を健やかに保っていることに間違いはない。

 転倒に関しては心配が残るが、足腰の動き自体については、以前より調子が良いと言う。父の日だか誕生日だかにプレゼントした、ふくらはぎを鍛えるEMS機器は毎日やっているそうで、それ以外にも油圧式のステッパーを始めたらしい。最初は踏み込むのも難しかったが、続けているうちに支えを持たなくてもできるようになったそうだ。

 「やってみせて」と頼むと、小鼻を膨らませて自慢げにデモンストレーションをしてくれた。確かに、支えを持たずにグングンとステッパーを踏み込んでおり頼もしい。これは足腰だけでなく体幹も鍛えられるので非常に良い。危ないのでそばに椅子を必ず置いて欲しいと頼んだものの、外出頻度が減ってもこれを続けてくれれば、杖を使うのはまだ先のことになりそうだ。ホッと胸を撫でおろす。

 食事内容に関しては、毎食写真を送ってもらっているので心配はない。お世話をしてくれる人(父のプライベートな関係!)がいないときは、冷蔵庫から食べるものが入ったタッパーを自分で出し、レンジでチン。大好きな牛肉の薄切りを焼き、お米も毎晩自分で炊いている。食べ終わったら流しに食器を下げ、翌日もひとりのときは自分で食器を洗うそうだ。

 食事に関しての留意点はひとつだけあった。写真を見る限りバランスは良いが、食べられる量が少しずつ減っているのだ。外出先で会食をするときには驚くほどよく食べる父ながら、孤食となるとそうもいかないようだ。出掛けない日は特におなかも空かないだろうし。

 本人は外食時の食欲を強く記憶しているので、食事量が減ってきているという自覚はない。コロナ禍で外出の頻度が下がれば、自動的に「よく食べる機会」も減るので、ちょっと対策を練らねば。電話やLINEで「食べて!」と言っても、うるさいなあとなるだけなのは経験済み。お菓子を送ると食べはするが、その分食事の量が減るので意味がない。

 その他では、ハウスキーピングの人をお願いするのはやめてしまったが、居室に大きな乱れはない。床がちょっとベタついていたので、ウェットシートで床を拭く器具を送ることにする。

 さて、25問に答えた結果は如何に。最後に出てきた「生活機能状態を見る」のボタンを押すと、白衣をまとったにこやかな女医のイラストが画面に現れた。

 「あなたの生活機能は低下している恐れがあります。市区町村では介護予防のために様々なサービスを用意しております。いちど介護予防窓口に相談されることをおすすめします」

 やった! 思わず心でガッツポーズをとる。不謹慎だが、この文言のおかげで「娘が無駄に不安を感じ、検査を強制された」とならずに済む。かかりつけ医での認知症チェックと、できることなら先月調べた介護予防窓口での診断も、いまのうちにやってしまいたい。 

 

(つづく)

(「波」2022年2月号より転載)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

ジェーン・スー

1973年、東京生まれの日本人。作詞家、コラムニスト、ラジオパーソナリティ。TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」のMCを務める。『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』(幻冬舎文庫)で第31回講談社エッセイ賞を受賞。著書に『私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな』(ポプラ文庫)、『生きるとか死ぬとか父親とか』(新潮文庫)、『おつかれ、今日の私。』(マガジンハウス)、『闘いの庭 咲く女 彼女がそこにいる理由』(文藝春秋)など。

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