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考える四季

 今の職場に来て間もなくだったと思う。何か他の話をしている際、同僚からぽつりと「僕たちは、ライ麦畑のキャッチャーだからねえ」と言われたことがあるのを覚えている。自分のしている仕事にいったいどういう意味があるのか。そういったことを考えなくてはならない折には、今でもその言葉の含蓄について考える。

 ライ麦畑のキャッチャーと言えばもちろんサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』である。見通しの悪いライ麦畑で遊ぶ子どもたちが、崖から落ちないようにじっと見守っている「キャッチャー」。しかしまたどうしてそんなものに自らをなぞらえるのか。


 「日本政治思想史」という学問を専攻している。この「日本政治思想史」は政治学の一分野であるので、同僚には政治学者が多い。そしてわれわれの政治学科は法学部の中に属している。ということで同僚には法学者も多い。

 なぜ、法学部の中に政治学が属しているのか。日本の大学では割合に多いパターンなのだが、それも考えて見れば不思議なことである。法学部に通っている学生に「法律家を目指しているの?」と尋ねることは別におかしくない。なるほどそういう学生もいるだろう。だが、政治学科の学生には政治家を目指している学生はまずいない。法律学は法律の専門家のための技術という側面を持つのに対し、通常、政治学は政治の専門家になるための技術を教えるものではないのである。

 では、両者に共通点がないのかと言えば、そうではない。両者はともに「この世」のことがらに関わるあれこれを扱う。「あの世」のことがらやあるいは宇宙について扱う学問とはその意味では一線を画している。また、どちらも人の人生においてどちらかといえば目的となるよりも手段であることが多いものについて扱う。その意味では文学や芸術について扱う学問ともこれまた一線を画している。たとえば、友達や家族とお気に入りの映画や文学について語りあう時間は、それ自体がそれぞれの人生の思い出のアルバムの一ページに残すに足る体験でありうるだろう。だが、法律や政治に関わる時間がそういうものであることは稀である。「文学に触れてみよう」「芸術に触れてみよう」と言う親も、「政治に触れてみよう」と子どもに言うことはあまりないだろう。ましてや「法に触れてみよう」とはまず言うまい。法律や政治に関わる時間はそれ自体が人生の思い出の一ページであるというよりは、そうした思い出の一ページを守るために必要となる時間であることが多いのである。誰もが好き好んで考えたいものではないけれど、誰かが考えなくては自分もみんなも困ることになることがら。そうしたものを扱うという意味では、両者はともにいわば「大人の学問」なのだと言ってもよいだろう。

 ところで、筆者が教えているのは政治学のなかでも「思想」史である。だが、この「大人の学問」のなかに「思想」とか「哲学」の入りこむ余地はあまりないように見えないだろうか。実際、そういう部分がある。確かに大人になるということは「現実」の強さやしたたかさを思い知る過程であるだろう。それは別に挫折や変節とは限るまい。「世の中の仕組み」、その中に分け入り、そうした「仕組み」の動かし方に習熟すればするほど、かつては「汚い大人たち」の悪だくみの産物としか見えなかったものについて、「なるほどそうだったのか」とそれなりに納得するということもあるであろう。そして確かに政治学を学ぶことは、青臭い理想や抽象的な正義からはなかなか見えてこない「世の中の仕組み」のひだに分け入りそこに含まれる「それなりの理屈」について知ることなのである。

 だが他方、本当の大人は「思想」や「哲学」を決して馬鹿にはしないであろう。現実の機微に含まれる「それなりの理屈」も究極的には、「思想」や「哲学」に支えられていなければ意外と脆いものである。本当の大人はそのことを経験上よく知っている。それだけではない。「思想」や「哲学」の孕む怖さや恐ろしさについても感じているからである。

 そう、それは危険なのだ。「思想」や「哲学」は、普段は目立たないが、条件さえそろえば爆発的に広がる熱病のウイルスにも似ている。若い頃には重症化しなくても、青年期をこえて罹患すると命に関わることがあるというところなども。中年まで目の前の実務のことだけ考えてきた人が、突然「思想」や「哲学」に目覚めるとろくな事にはならない…そうしたことは大人であるからこそ分かることである。たぶん「思想」や「哲学」はその危険性ゆえに、若い頃に教室で予防的に接種しておくべきなにものかなのである。

 法学部と呼ばれる場所には、「なんとなくつぶしがききそうだから」という理由で進学してしまったという学生も多い(かくいう私にも覚えがある)。そんな学生が「世の中の仕組み」の「それなりの理屈」に飽き足らないものを感じ、「思想」や「哲学」の妖しい魅力にひかれて足を踏み出そうとするとき、「キャッチャー」として控えていること。それがたぶんわれわれの役回りの一つなのである(冒頭の同僚の専門はそういえば法哲学であった)。一見すると味気なくも見える現実や実務の世界の背後に、深遠な奥行きが広がっていることを示すと同時に、そうした深淵をめぐる思考が時に個人の人生や社会に時に危険をもたらすことをも教えること。もちろん、その危険を承知と言って踏み込んでくる若者には「本当に分かっているのかい?」と内心思いつつ、「やれやれ」と肩をすくめて「どうぞご自由に」と言うしかない。その中に、もしかしたら次の「キャッチャー」もいるかもしれないのだから。そう、かつての私のように。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

河野有理

こうのゆうり 1979年生まれ。東京大学法学部卒業、同大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。日本政治思想史専攻。現在、首都大学東京法学部教授。主な著書に『明六雑誌の政治思想』(東京大学出版会、2011年)、『田口卯吉の夢』(慶應義塾大学出版会、2013年)、『近代日本政治思想史』(編、ナカニシヤ出版、2014年)、『偽史の政治学』(白水社、2016年)、『日本の夜の公共圏:スナック研究序説』(共著、白水社、2017年)がある。


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