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「答え」なんか、言えません。

2025年1月6日 「答え」なんか、言えません。

四、生涯最高の「説教」

著者: 南直哉

なぜこの世に生まれてきたのか? 死んだらどうなるのか?――その「答え」を知っているものなどいない。だから苦しい。だから切ない。けれど、問い続けることはできる。考え続けることはできる。

出家から40年。前著『苦しくて切ないすべての人たちへ』につづいて、「恐山の禅僧」が“生老病死”に本音で寄り添う、心の重荷を軽くする後ろ向き人生訓。

 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

 とはいえ、これを書いているのは、旧年の12月下旬である。これから1月上旬まで、私は福井の住職寺で、年始年末の掃除や法要を務める。

 この間、家族も青森で多忙な毎日なので、私は一人で寺に来て、仕事をしているのだ。すると、「師走」と言うぐらいだから、日々暇とは言えないが、夜になって一通りの仕事を終え、ぼんやりする時間があったりすると、歳のせいか、時々不意に昔のことを思い出す。

 今年最後の法話をした日の夜も、その縁か、私の師匠の師匠にあたる老僧の、ある話を思い出した。この老僧は、明治生まれの人で、私は若僧の一時期、侍者として仕えていたのである。

 以前にも書いたことがあるが、老僧はある種の傑物で、戦後間もない頃、東京に出張すると、当時上野駅に沢山いた戦災孤児を見るに見かねて、毎度何人かを自分の寺に連れ帰って、育て始めたのである。

 最初は寺の本堂を子供が駆け回っているような状態だったらしいが、次第に設備も整え、しばらくして、その地域で最初の児童養護施設に認定された。私の師匠はその施設で育った。戦災孤児ではなかったが、戦後まもなくには、どうしても子供を育てきれない親がいたのである(今もなお)。

 私が老僧と出会った時、老僧はすでに80代で、自分の体験を土台にした、極めてユニークな布教の実践によって、宗門の大御所的存在になっていた。そして、ちょうどこの頃、老僧はあるボランティア団体を、一方ならぬ思い入れで応援していたのである。

 それは宗門僧侶が初めて立ち上げた本格的な国際ボランティア団体で、インドシナ半島で当時続いていた戦乱によって、大量に生じた難民を支援していたのである。戦災孤児を見て見ぬふりのできなかった人物が、これを知って知らん顔をするはずもない。

 ある日、師匠から電話がかかってきた。

 「オヤジ(師匠は、本人がいないところでは、老僧をそう呼んだ)が、カンボジアに行く。お前、お供でついて行ってくれ」

 「え、カンボジア?」

 当時のカンボジアは、ようやく内戦が終結し、国土の復興が始まった頃で、このボランティア団体は、特に教育支援を活動の基軸としていて、学校建設に注力していた。そこで老僧は、自分が小学校一校を寄付すると決め、懸命に資金を募り協力したのである。その小学校が遂に完成し、落慶式典に招待されたというわけである。

 カンボジアに行ったのは、真夏ではなかったはずだが、日本から来た身には、おそろしく暑い日が続いた。小学校が建ったのは、首都からだいぶ離れた農村で、我々はいったいいつから使っているのだろうと心配になるような、トラックを改造したバスに乗って、現地に向かった。

 式典の当日も猛暑だった。校舎は壁が明るい色で仕上げられ、それなりの規模で、立派に見えた。校庭も広く取られ、まだ遊具らしいものは何も無いが、地面はきちんと整地されていた。ところが、体育館というか、講堂めいたものが無い。無いから、式典は炎天下の校庭で行われたのである。

 来賓の我々と村の「お偉方」のような人たちには、テントと椅子が用意されていたが、子供たちと親たち、先生らしき大人のほとんどは、すでに熱せられている地面に、ゴザに見える物を敷いて、坐ったり立ったりしていた。日陰を作るような、高さのある木も無い。

 老僧も椅子の前で立ったまま、校庭の様子を見ている。その目が少し険しいように、私には思えた。

 式典は例によって、国歌らしい歌と新しい校歌で始まった。その後、また例によって、村長から始まる「お偉方」の祝辞が延々と続く。私が義務教育の時代に苦り切っていた、拷問に近い時間である。

 その「延々」を見ていた老僧の表情が、はっきり怒気を含み始めた。危険である。老僧は温厚な性格だが、弱い立場の人々に想像力のはたらかない「偉い人」に対しては、決して黙っていなかった。今にも立ちあがって、「いい加減にしろ!」と怒鳴り出すかもしれない。そうなっては大変である。

 どうしようかと気が気ではなくなった時、司会者の通訳が、

 「では、ここで、我々に学校をプレゼントして下さった、日本のお坊様、〇〇老師にお言葉を頂きます」

 すると、老僧は弾かれたように立ち上がった。そのまま司会者まで直行し、マイクをひったくるように取ると、驚くほどの大股で校庭の真ん中に歩み出た。司会者と通訳も、尋常ではない勢いに圧されて顔が強張る。何を言うんだろう? 私の顔も強張っていたに違いない。

 ど真ん中にすっくと立った老僧は、衰えが微塵も無い、よく通る声で話し出した。

 「皆さん、こんにちは。私は日本から来た和尚さんです。みんなに会えて本当にうれしい。残念ですが、私はカンボジアの言葉でお話することができません。ですから、代わりに歌を歌います!」

 通訳が必死で老僧の早口に追いつこうとしたが、老僧は全くの無視だった。そして、日本の童謡のメロディーに、即興で祝いの歌詞をつけて、朗々と歌い出したのである。

 「お偉方」は無論だが、またこの坊さんも退屈な挨拶を…、とその場の全員が思っていたところに、いきなり訳のわからない歌を、坊さんが大声で歌い出して、子供も親も先生たちも、度肝を抜かれて呆気にとられている。

 私も含め周囲がみな驚いて見つめていると、そんなことには一切構わず、老僧は「二番」に入った。すると、子供の何人かが、手をたたき出した。これがあっという間に子供全員に広がり、すぐに親・先生の手拍子となって、「三番」に入ったところで、その場の全員が手拍子を始め、合いの手の掛け声まで飛び出すようになった。

 やんやの喝采の中、アドリブで「三番」まで歌いきった老僧は、息が上がることも無く、

 直ちに言った。

 「みんな、ありがとう! 和尚さんの歌はこれで終わりです。どうかみんな、この学校で、元気に仲良く勉強して下さい。さようなら!」

 通訳がかろうじてこの部分だけ、マイク無しの大声でカンボジア語にした。すると、ドッととばかりの歓声と拍手が鳴り響いた。

 私は、これほど凄みのある「説教」を、これ以前もこれ以後も、一度として見ていない。誰もまねできない老僧の話術は、何度か聞いた法話で、よくわかっていたが、これは次元が違う。どうしても思いを人に伝えるという瀬戸際に、即座にこれができる者が何人いるのか。

 「老師、すごかったですね」

 帰りの「トラック」バスで、私が呟くように言うと、老僧は、

 「子供があんな暑いところで…、儂が言いたかったのは、最後だけだ。そのための歌さ。まあ、土壇場で通訳が間に合ってよかったな、あはははは」

 私も齢66。時々私のする話を褒めてくれる人もいる。それはそれで嬉しいものだ。しかし、あの老僧の「説教」を記憶する限り、私が自分の話に自惚れることは、この先も金輪際、無いだろう。

 

*次回は、2月3日月曜日配信の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

南直哉

禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)などがある。

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