5月上旬。ワクチン接種のお知らせが父のもとに届いた。ああ、ようやく。3月下旬あたりから毎日尋ねていたのだが、「来てない」の一点張りだった。同居していないので、本人に尋ねるしか私には手がない。だが、一緒に暮らしていた頃に父が小まめに郵便ポストを覗いていた記憶はない。本当に来ていないのか、心配で仕方がなかった。
いま考えれば、父が住む地域の自治体ウェブサイトを私がチェックして、お知らせから接種までの流れを把握しておけばよかったのだ。しかし、私はそれをしなかった。忙しいのもあったが、のらりくらりしがちな父に、自分のことを自分で考え、自分で対応してほしいという欲が私にはあった。この期に及んで、83歳にもなる父親が「ちゃんとする」ことへの期待がまだ捨てられないのだから、これは私の甘えだ。反省。
父は若い頃に結核を患い、大きな手術をして片方の肺が半分ない。基礎疾患はないが、コロナウイルスに感染したら一発で重篤な状態になるに違いないのだ。だから、娘の私は父にワクチンを受けて欲しかった。公衆衛生の側面から考えても、国民の7割がワクチン接種を済ませないと、元の生活には戻れない。
しかし、お知らせが来る前も、来てからも、父の態度はハッキリしなかった。接種すると言う日もあれば、しないと言う日もある。不安があるのだろう。気持ちはわかる。テレビのせいもある。父が観るでもなく観ているワイドショーでは連日、副反応の恐ろしさが強調され伝えられているように思う。交通事故に遭うよりずっと低い確率だが、健康被害の問題になると、そう合理的には考えられないのが人というものだ。政府のプロパガンダをする必要はないが、だからこそ感情を刺激するような情報の取り扱いには注意してもらいたい。番組視聴者層の老人にとって、生きると死ぬを隔てる被膜は想像以上に薄い。次から次へと出てくる健康法に飛びつくのは、単にヒマだからではない。死ぬことのリアリティが鮮烈なのだ。
私はワクチン接種の重要性を、噛んで含めるように伝えた。と同時に、最終的には父の命の線引きは父が自分ですることだと醒めてもいた。しかし、誰それがこう言っていたという、揮発性の高い理由で決めて欲しくはなかった。
お知らせには、電話予約開始日が記されていると父が言う。「よく知ってるとは思うけれど……」と前置きし、電話がなかなか通じないであろうこと、そこであきらめてはいけないことを私は伝えた。代わりにやってあげたいのだが、仕事があるので難しい。正直、私のほうは半ばあきらめていた。一発で電話が通じるわけがないし、父が繰り返しかけるとも思えない。予約日前日に改めて連絡し、「やるだけやってみて」と伝えて電話を切った。
予約日当日、確認の連絡をしたが返事がない。予約の仕方がわからないなら調べるからとLINEをし、折り返しの電話に仰天した。「電話したら、まずは基礎疾患がある馴染みの患者さんに打つから、それ以外の人はそのあと。いつになるかはわからないと言われた」と言うのだ。父よ、いったいどこに電話をしたのだ?
久しぶりにイラッときた。よくよく尋ねると、父は一度か二度かかったことのある、近所の街医者に予約の電話をしたというのだ。あまりに想定外の答えにしばし呆ける。なぜ、そうなるのだ。接種の指定医だとしても、基礎疾患がないからすぐに受けられないことはわかっているだろうに。
声を荒らげてはいけないと自分を制しながら、事前に届いたお知らせに書かれた番号にかけないと、予約はできないと父に伝える。父は少し大げさに驚いて、「そっかぁ、俺はボケちゃったんだなぁ」などと言う。
さあ、ここで問題です。父は本当にボケてしまったのでしょうか――私の答えはNOだ。お知らせを真剣に読んでいなかった(読めなかった)のもあるだろうが、ワクチン接種への抵抗感が想像以上にあるのだろう。無意識なのか意識的なのかわからないが、娘の懇願と自身の抵抗の妥協点が、街医者に電話をして断られるという寸劇に着地したのだと思う。さあ、困った。
予約のための電話番号を、私が先に調べて伝えておけばよかった。自分の不手際と父のかわし方に腹が立ち、やはり少しだけ声を荒らげてしまった。その後何度か電話がきたが、無視を決め込む。
ほどなくして、またLINEがきた。「集団接種の受付は次回が5月24日から。近所の指定医は受付日が未定」。自分で調べたことには感心するが、この期に及んでまだ指定医の話を出してくるのだから、人が多く集まるところに行くのがかなり不安なようだ。
可哀相なことをしたという気持ちと、ふざけるのもいい加減にしろという気持ちが綯い交ぜになる。今回は、やや後者が勝ってしまった。私は「お父さんの命なので好きにしてください」とだけ書いて送った。それ自体に嘘はない。
予約なんて最初から半ばあきらめていたのに、私の怒りは収まらなかった。予約ができなかったことより、いい加減にかわされたことに腹が立ったのだ。いっつもこうだ! と、子どもじみた感情が蓋をしていた心の泉からこんこんと湧いてくる。こういうところが親子は難しい。大物アーティストとイベンター、テストドライバーとメカニックの関係をキープできていたら、こうはならなかった。
怒った私などお構いなしなのか、父はいつも通り食事の写真を送ってくる。普段と変わらぬ様子を装っているようでもあるし、こちらの機嫌を窺っているようでもある。私は上野動物園の「かわいそうな象」を思い出した。空腹のため、餌を求めて自発的に曲芸をやるようになった象の話。
予約開始日の2日後、かわいそうな象が想定外の自発性を発揮した。LINEを開くと「自得体(ママ)の集団接種の予約が取れました。2日違いで混乱なく予約できました」とあった。「自得体」というのは自衛隊のタイプミスだろう。誰かに助けてもらったのかもしれないが、父が大規模集団接種の予約を自ら取ったのだ。ハレルヤ! 素晴らしい。やればできるではないか。
と浮かれたのも束の間、翌日には「やはりワクチン断る? 思案中」とのLINE。そのあとすぐ、食事の写真とメニュー内容が送られてくる。今夜は出来合いの天ぷら、ポテトサラダ、昆布、白菜の漬物、ご飯。内容を褒めたあと、「不安があるならキャンセルしても大丈夫だよ。信頼できると思った製薬会社のワクチンが受けられるまで待ってもいいし」と返す。
翌日。体調がすぐれないとのことで、夕食は遠隔Uber Eatsで中華を頼んだ。餃子とチャーハン。餃子は大きくてひとつでおなかがいっぱいになってしまったらしい。翌々日、父が好きなレストランのレトルトカレーをもらったので送る。心配していると口で言うだけでなく、形で示すのに宅配便は功を奏する。受け取りの連絡の返信に、ワクチン接種は怖くないという信頼のおける記事を添付した。
この頃、インドで流行している変異株のニュースがメディアを賑わすようになった。父に電話をし、ワクチン接種をキャンセルしてもかまわないが、コロナにかかったら即入院することになるだろうし、退院するまで会えないことを伝えた。悪いと思ったが、半ば脅しである。それから数日は、ワクチン接種の話題は出さなかった。あとは父が決めることだと私は自分に言い聞かせた。
接種の前日、父からLINE。開くと「ワクチンは明日です。勇気を出して行ってきます」とあった。即座に「えらい!」と返し、接種になにが必要かを調べて伝える。ここまで来たら逃げ道をふさがねば。必要書類を忘れて受けられなかった、ということがないように。もう私にできることはそれだけだ。あとは、父の体調が変化しないこと、気が変わらないことを天に祈る。
当日。5月にしては暑さの厳しい日だったが、父はちゃんとひとりで大手町まで出かけ、ワクチンを接種してくれた。私の胸は感謝の気持ちでいっぱいになった。ここまで素直に感謝するのはいつぶりだろう。不安もあったろうに、よく決断してくれた。
ワクチン接種当日は元気だったが、翌日は副反応で全身が痛んだらしい。だるさもあいまって、1日中寝ていた。可哀相に。労いながら、吐き気や頭痛、熱がないかを確認する。ひとり暮らしなのだから、急激な体調の変化には注意が必要だ。食事の写真を見る限り、食欲は落ちていないようなのでホッと胸をなでおろす。
普段は夕飯の写真がその日の最後の連絡になる。しかし、この日は父が床に就く前にもう一度こちらから電話を掛けた。寝る前にいつも飲んでいる蕁麻疹の薬を飲もうかどうしようかと悩んでいたので、今夜は念のためやめておいてと伝えた。ここまで事前に気が回らなかったのが悔やまれる。私の使命のひとつは、父を安心させることなのだから。
ワクチン接種翌々日。副反応は薄れ、体調も悪くないとの連絡。ただし、蕁麻疹は出てしまったらしい。「ママに会いたい」と気弱なことを書いて寄こしてきたので、「今日もしっかり食べてね」と曖昧な返事をしておいた。「そうだね」と言ってしまうと、父も私もメソメソしてしまいそうだったから。こういう時、母が生きていたらお互いどんなに心強かっただろう。
一度目のワクチンを接種し、罹患の不安が少しやわらいだのだろう。父は夜に散歩をするようになった。コロナ禍で足腰が壊滅的に弱くなっていたので、これは朗報だ。短時間でも運動すれば健康的にお腹が空くようになるし、ちゃんと食べればそれが血肉になる。
だが、これですべてがうまくいくとは思っていなかった。なにせ、ワクチン接種には2回目がある。まったく同じプロットの寸劇を、もう一度やる覚悟が私にはあった。
1週間後、父から電話がきた。
「お父さん、2回目はやめておこうと思う。二度目は副反応が強いと聞くし、よく聞いているラジオのパーソナリティさんもまだ打ってないし、怖い怖いと言っているし」
私の頭のなかで、ブドウ色をしたビロードの幕が一気に上がる。さあ、第二幕、スタート!
(つづく)
(「波」2021年7月号より転載)
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ジェーン・スー
1973年、東京生まれの日本人。作詞家、コラムニスト、ラジオパーソナリティ。TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」のMCを務める。『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』(幻冬舎文庫)で第31回講談社エッセイ賞を受賞。著書に『私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな』(ポプラ文庫)、『生きるとか死ぬとか父親とか』(新潮文庫)、『おつかれ、今日の私。』(マガジンハウス)、『闘いの庭 咲く女 彼女がそこにいる理由』(文藝春秋)など。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- ジェーン・スー
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1973年、東京生まれの日本人。作詞家、コラムニスト、ラジオパーソナリティ。TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」のMCを務める。『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』(幻冬舎文庫)で第31回講談社エッセイ賞を受賞。著書に『私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな』(ポプラ文庫)、『生きるとか死ぬとか父親とか』(新潮文庫)、『おつかれ、今日の私。』(マガジンハウス)、『闘いの庭 咲く女 彼女がそこにいる理由』(文藝春秋)など。
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