シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

小さい午餐

 2度目のラーメン屋に入った。
 おいしいよと人から聞いた店で、前回は休日に夫と子供と3人で来た。座った子供はすぐ手をのばして卓上の薬味入れの壺の蓋をいじり始めた。私はやめるよう言った。中身がなにか知りたかったらお母さんが見せるから自分で触らんで。それ割れるけ。倒れたら大変じゃけ。少し前、別のラーメン屋で子供が座敷席の卓上にあったラー油壺を倒し、中身を全部机と畳の上にこぼしたことがあった。店員さんは親切に拭いてくれ、また我々も持参のティッシュ等で拭ったのだが唐辛子やニンニク片のたくさん混じった粘度のある赤黒いラー油は簡単に取れるものではなく、謝る我々に店員さんは笑顔で「片づけておきますのであちらのお席にお替わりくださいね」私の言葉が聞こえているのか聞こえていても脳まで到達していないのか、子供はまた蓋をいじり陶器が高く鳴った。夫は壁に貼られたメニューを見ている。カチャン、カッチャン、私は再び子供を叱った。覚えずかなり激しい声が出た。子供が泣き出した。夫は子供を抱き上げそんな叱り方をすることはないだろうと言った。「こんなことで」だってこないだも…ラー油の…「それはそれだしこれはこれだよ、子供にそんなのわかんないよ」そうだけど。そのタイミングで店員さんが注文を取りに来た。夫は決めてあったらしい自分のものを頼むと私に自分のと子供のとを頼むよう言った。私はまだメニューを見ていない。この店にはそもそも紙のメニューはなく全ての情報は壁に貼ってある。様々な味があるようだ。そして、ただの「ラーメン」というメニューはないようで、なんとかだし(さんまとかほたてとか)のなに味(醤油とか塩とか)という注文をせねばならないようで、だしと味の順列組み合わせ、私は泣いている子供にどれがいいか尋ねた。ええとね、だしがね、さんまと、ほたてとえびと…子供はさらに泣いた。じゃあね、塩か醤油か。塩か醤油だったら、どっち? 子供は泣き続けた。夫は、「そんなこと今こんなに泣いてるのに答えられるわけないでしょう」私はじゃあ、と、メモを構えて待っている店員さんに夫と同じものをあと2つ、と頼んだ。夫が、えっ、と声を上げた。「せっかく3人で来ているのに同じ味頼むの? こんなに味があるのに」子供はまだ泣いている。店員さんはいいですか、これで、というような顔で私を見、私は頷いた。店員さんが立ち去った。夫が、子供と外に出ているからと言った。「ラーメン来たら呼んで」引き戸を引いて出て行った2人、泣き声が聞こえなくなり静まり返った店内、ラーメンが別の客に出される音、カウンターの上の白い小さい薬味壺や調味料入れや箸立て、2人連れ3人連れの客もいたのに誰もしゃべらなかった。どれくらい経ったか店員さんが子供用の器とフォークとスプーンを持ってきてカウンターに置いた。フォークとスプーンにはクマがついていた。「あの、ラーメンも、もうすぐ」私は店の外にいた2人を呼び戻した。子供は泣き止み笑顔が見えていた。元は夫婦で子供を挟んで座っていたのだが、子供は私の隣に座るのは嫌だと言った。「ママあっちへ行って!」私は夫と席を替わり子供が私のいた席に移動し夫が真ん中に座った。席替えをしながら夫は子供の言うことを本気にしなくてもと言った。私の隣になった若い男性2人連れの片方がラーメンを食べながら「当然だろ」と小声で言った。それは会話の一部だったのかもしれないがその前に彼らの間におそらく会話はなくその後もなく、ただぐつぐつという低い笑い声だけが聞こえた。放り出された一言の行き先は私であるような気がした。子供は夫が小さい器にラーメンを盛っている間にまた薬味壺をいじりだした。夫は静かにそれはたまねぎ、それは辛いやつだよと子供に教えている。いいお父さん、私はなんだか涙が出てきて泣きながらラーメンを食べた。味なんてわからない。熱くて麺だということしかわからない。私が泣いているのに気づいた夫は驚いたように一瞬静止し、こちらにティッシュを何枚かよこした。子供はしきりに汁を飲み夫がおいしい? と尋ねるとうんと答えもっとスープちょうだいと言った。隣の若い男たちが店を出、私は騒いで申し訳ありませんでしたと言いながら会計をした。店員さんは子供に飴をくれた。
 という経緯があった店を再訪したいと思う人思わない人すべきではないという人さまざまいるだろうがおいしいよと聞いていた味が全くわからなかったのが今となっては不本意だ。子供をきつく叱ったのは私が悪いかもしれないしそれについては反省しているし、お店にも店に居合わせた方々に対しても申し訳なく思うがでも、子供がなにをした時どれくらいで叱るのが適切かなんていう数値はないわけで、また、こちらの精神状況もあちらの精神状況も日々刻々と変化する。体罰や、やみくもに四六時中怒鳴りまくっていたらそりゃあいけないが、あの日は、双方のナニが悪かったのだ。ちゃんと今度はなに味だかわかりたい。前回食べたのがなにか記憶にないので夫に尋ねるとまぐろだしの醤油味だ、とのことで、おいしかったかと尋ねるとおいしかったと言う。「結構魚の味がしたよ」どうしてまぐろにしたの? 「さんまだしのラーメンは他の店で食べたことあったし、えびとか貝類はなんか想像がつく気もして」
 壁に向かうカウンター席と、調理台を囲むカウンターの席でテーブル席はない。店内は前回の記憶より一回り大きい気がした。なんというか、前回はもう、四畳半くらいのスペースに人がぎちぎちに混み合って黙って座っていたような気がしていたがゆとりがある。ちょうど客が出た直後らしく、調理台を囲む方、出入り口を背にした席にすぐ座れた。席を指示してくれた店員さんは確か前回もこの人だったなという女性だった。彼女の顔を見た途端申し訳なく恥ずかしくなったが、向こうは私のことは覚えていないようだった。調理台の方のカウンターはL字型になっていて、ただ、調理台には稼働中のコンロなどはなく、調理はここから見て正面奥にある厨房で行われているようだった。奥に、男性が一人麺を茹でるあるいはスープを見る格好にやや前かがみに立っている。記憶の通り、紙のメニューはなくすべての情報は壁に貼ってある。ラーメンはさんま、ほたて、えび、あさり、まぐろ、とあってそれぞれに塩と醤油、あとはつけ麺と思しき表示、麺の量についての表示、トッピング、季節限定のだし、などが並んでおり、トッピングにはわんたん、もやしの大盛り、煮卵、チャーシューなどが並んでいる。ご飯には『売り切れ』の札がついている。まだランチタイム中なのに売り切れとは、相当ご飯の注文があったのだろう。私は食べたはずなのに味を覚えていない「まぐろだしの醤油味」を注文した。まぐろの醤油ですね、と復唱しながら店員さんは伝票に書きこんだ。伝票は昔ながらの手書きだった。厨房はそんなに広く見えないが、あそこにこれだけの種類のだしがそれぞれ鍋に入っているのだろうか。大変そうだ。それとも、同じスープに違う魚の粉を入れる的な方法で味をつけるのだろうか。紺色の、タクシー運転手っぽい服装の男性が終盤に差し掛かったらしい角度に丼を持ってラーメンを食べている。間に1席空けて高校の制服を着た男の子が3人並んでいるのは今日は半ドン(とはもう言わないのだろうか、午後休)か、定期試験かなにかか。四角い大きな斜めがけスポーツバッグが床に置いてある。最近の学生さんは荷物が大きい。卓上には件の薬味壺、胡椒と唐辛子の小瓶、ハンドル式すりごま器、薄皮の剥かれた生ニンニクと伏せた陶器の小皿が並んでいる。小皿を一つとって表を向けると、そこに小さい金属のおろし金がついている。壺の中身は刻んだ玉ねぎらしきもの、生だろうか…私だって裏や中身が見たくなる。そりゃ子供はもっと見たいだろう。それはわかっている。とはいえ見てもいいけどこぼすなよ、落として割るなよだって難しい指示だ。いろいろ考えていると唯一の正解は子供を連れて外に出ない、になってしまう気がするがそれはしかし、やっぱり絶対に間違っている。子連れはファミレスやフードコートに行けと言うのも一理あるがでも、この店だって子供用のクマつき食器が用意してある以上幼い子供が来ること自体は拒否されていないわけだし…引き戸が開く音がして、外の空気が入ってきて、若い、大学生くらいに見える男女が角を挟んで私の隣に座った。やや灰色がかった色の長めボブの女の子は真珠色の薄い上着を肩をずらすようにふわっとまとっている。男の子は黒い髪を濡れたように光らせ畝が立ったような形に整えている。そして、それぞれスマホを手に構えながら、前来た時うちなに食べたっけ、と女の子が男の子に言った。「さんまじゃね?」「さんまじゃないよ」「じゃあなに」「忘れた。自分の、覚えとる?」「えーと、多分ほたて。じゃあ俺今日もほたてする。あ、ご飯も」「ご飯売り切れって書いてある」「まじか」「あ、イエ」出てきた女性の店員さんが言った。「今、もうすぐ、炊けますんでご飯、大丈夫です」「じゃあご飯と、あと麺大盛りで」「私はさんまの、醤油で」「ほたての方は醤油にしますか塩ですか?」「あ、じゃあ、えーと醤油、うん、や、やっぱり塩で」「ほたての塩大盛りとさんまの醤油とご飯ですね」女性が厨房に注文を伝え、男女はそれぞれスマホに目を落とした。女の子のスマホの背面が光っていた。角の取れるかたちに磨いた大きな不定形の色ガラスがびっしり並んでいるようなデザインで、そこに添えられた女の子の爪はちんまり短くてなにも塗られてないような色をしている。女の子がふと顔をあげてメニューの壁を見、「あーうち、もやし大盛りにすればよかった」とつぶやいた。「やさい」「え、すればいいじゃん。まだ間に合うしょ」「えー?」「すいませーん、えーと、ラーメン、大盛りじゃない方、もやし大盛りできますか」「できますよー」「お願いしまーす」「かしこまりましたー」「ありがとう」「ほん」「そいえばさ」「なん」「こないださ。ぬんちょんの披露宴、あったって知っとるやろ」「おー」二人は基本的にはスマホに目を落としつつ、指も動かしつつ、しかし時折交わす目線でちゃんと二人の間をつなぎつつ会話を続けた。「さくらこちゃんと一緒に行ったん、うちの運転で」「おー。駐車場あったん?」「うん。で、したら途中、さくらこちゃん、コンビニ寄れりー? って」「よれりーって」「で、まあ、寄った」「うん」「したらさ。金ないって、ATM」「うん」「ご祝儀よ?」「え?」「ご祝儀。ATMで、当日」「ほーん」「ありえんくない?」「んあ?」「だって新札じゃなくない?」私もそれはありえない、と思ったが男の子はあまりありえないと思っていない風に「あー?」と言うと首をこきこき左右に動かした。「ご祝儀、新札じゃん。ピン札。うち結構前、わざわざ昼休み銀行行って替えてもらってきとったし、さんまんえん。やのにさくらこちゃん、当日コンビニよ? 銀行やっとらんし」「あー、ね」「で、うちさすがにそれは、って、やいやコンビニはどうよ? って言ったけど、そんなんしらんしーて」「ふんふん」「ご祝儀袋あるんって聞いたらそれはあるって」「あるよね」「でも、出て来たお札、くっしゃくしゃ。全然、きれいじゃない万札、3枚」「あー」「うち、お金戻してもっかい出してみ? って、ほら、時々きれいなお札出るときあるじゃん」「あるっけ」「少しはさ。ましかなって。もう銀行無理やったらアイロンかけるとかさ、最悪。その日の朝よ? つうかさくらこちゃん実家住みやけん、親に言ったら新札くらい、出てこん? 普通」「ふーん」それは多分家によるだろうが、出てこないこともないかもしれない。「うちがひとりでからヒーってしとるのにさくらこちゃん普通に、そのくっしゃくしゃ、顔の向きどっちやっけ諭吉ーとかへらへらしてから。いや上? 諭吉が上? 裏? つっていやいやいや諭吉の顔とかより新札じゃないとって言っても、そんな誰も気にせんよーって。いや気にするじゃろ。あのこあーゆーとこ、ありえん」「そーかー」女の子が男の子の方を見て「え? 自分も知らんのもしかして。披露宴に持ってくお金、新札じゃないといけんのよ」「やー、知っとるけどまあ」「うそやろ」「いや知っとるし」私も、彼は知らなかったんじゃないかな、と思った。正直、ピン札だろうとどうだろうとどうでもいいとは私も思うがどうでもいいのだとばかり言うわけにもいかないところはある。冠婚葬祭…店員さんが私の前にラーメンを置いた。ありがとうございます。私は箸を取った。厨房に戻りかけた店員さんに男の子が「すいません、えーと、ホタテの大盛り、味玉追加まだいけますか」「はい」「自分もいる? たまご」たずねられた女の子はいらーん、と首を振った。薄茶色く濁ったスープの中央にもやし、チャーシューや煮豚ではなく豚肉の薄切りが何枚かもやしの傍に載っている。あとはネギ、卵やメンマはなし、全体的に柔らかい見た目の一杯だった。見覚えがない。本当に初めて見る、肉がチャーシュー的なものではないという特徴的な事項さえ覚えていなかった。一口麺を掘り起こすと細めの、固すぎも柔らかすぎもしない素直な麺、もやしは細くて白い、ネギは青い、スープをすすると意外なほどはっきり魚の味がした。魚の骨とかアラ由来ではなさそうな、かつおだしっぽい感じ、それがかつおじゃなくてまぐろなのだから、まぐろ節というものか。おいしい、初めてじゃないけど初めてだ、と思いつつ、かすかに鼻の奥がツンとする。脳が記憶していないことを鼻腔だか味蕾だかが記憶していて、一緒に前回の記憶というか感情を再生しているような、そんなことは今せんでいい。中華というか和食的な、でもやっぱりラーメンでもあって、麺も肉もあっさり柔らかい。おいしいか不味いかで言ったら絶対においしい。白いご飯とも合うだろう。「ニンニクいれるん?」女の子の声がした。「いれるし」もやしを噛みつつ顔をあげると男の子がニンニクをすりおろしているらしく、手元は見えないが彼の上半身の右側が細かく揺れていた。揺れながら男の子が「いれんの?」「手、臭くなるし」「すってあげるよ」「まじ。ありがとう」「最初からじゃなくて、これ、途中でいれようやァ。したら味変わるけ」「いいねいいね」この優しい味に確かにニンニクは合うかもしれない。私はすりごま器を手にとってぐるぐる回して器に入れた。香ばしい匂いがした。次は唐辛子らしい赤い調味料を振り入れた。辛味はさほどでもないが、振り入れてから麺を噛んでみるとカレーっぽいような、一味とか七味ではない外国のスパイスの香りがして意外だった。元は優しめで、そこにあれこれ入れて味を作るべきラーメンらしい。そこに、だしと味の順列組み合わせ、全貌は相当回数通わねばわからないだろう。それか、その前に運命の組み合わせに出会ってこれだこの味となるのか。男女のところにもラーメンが来た。茶碗に入ったご飯も来た。二人はしばらくそのままで食べ、途中「そろそろやん?」と言いながらニンニクを入れ、「さいこう」「さいこう」と言い合いつつほたてとさんまのスープを交換していた。「やっぱり入れたほうがうまい」「ほうじゃね」私は、鼻の奥がやっぱりどうにもつんとして、しかしここで泣いたらおかしな人だと思いながら鼻をかんだ。店を出ると風が強かった。おいしかった。もしかしたらとてもおいしかった。私も子供を叱りたくなんてない。泣かせたくないし、そしてできれば自分だって泣きたくない。

庭

小山田浩子

2018/03/31発売

それぞれに無限の輝きを放つ、15の小さな場所。芥川賞受賞後初著書となる作品集。

この記事をシェアする

ランキング

MAIL MAGAZINE

「考える人」から生まれた本

もっとみる

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき
  •  

考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

小山田浩子

1983年広島県生まれ。2010年「工場」で新潮新人賞を受賞してデビュー。2013年、同作を収録した単行本『工場』が三島由紀夫賞候補となる。同書で織田作之助賞受賞。2014年「」で第150回芥川龍之介賞受賞。他の著書に『』『小島』『パイプの中のかえる』など。

連載一覧

対談・インタビュー一覧


ランキング

イベント

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき

  • ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら