「カンボジア人の多くは、精神的に病んでいるはずだ」
働きながら7年かけて大学を卒業後、オーストラリア人が経営していたファッションデザイン会社に就職したバナリーは、「なぜカンボジアでは、外国人やNGOの人しか工芸ビジネスをしないのか」と考えるようになった。20年近く前に、カンボジアでこんな発想をしたことがすごいと私は思う。
バナリーが大学生になる頃には、カンボジアには、さまざまな分野で世界中から支援の手が差し伸べられていた。外国から寄付してもらうことや支援してもらうことに慣れてしまったカンボジアで、「このままではいけない!」と、自分の足で立ち上がろうと思い立ったパワーは、尊敬に値する。
60代前半のバナリーの母親は中国からの移民2世で、今でも漢字を少しだけ理解できる。彼女の両親は貿易ビジネスで成功し、一家は裕福な生活をしていたようだが、ポル・ポト政権によって財産はすべて没収され、両親は殺害された。当時10代後半だったバナリーの母親は強制的に、10歳も年上で、クメール人であるバナリーの父親と結婚させられたという。ポル・ポト政権下では、恋愛はご法度で、勝手に結婚することも許されていなかった。
母親はそんな自分の運命を受け入れられず、バナリーの弟が高校を卒業したのを機に、もう20年以上、夫であるバナリーの父親とは別居し、顔を合わせることさえもイヤなのだという。バナリー一家は父親と同居しているので、バナリーが母親と会う時には家の外で会うか、父親が外出している時に母親を家に招いている。
またバナリーの夫コサルは、元青年兵だ。私は、長い銃を構えているものの、あどけなさが残るコサルの写真を見せてもらったことがある。10代半ばだったコサルは、ヘン・サムリン政権側の警備を担う兵として、タイ国境に逃げ込んだポル・ポト派を監視していたという。
母親は、コサルの妹を出産した後に体調を崩して間もなく病死し、内戦下に自分のことで子どもに危害が加わることを恐れた父親とは生き別れになっていた。小学生のコサルは、祖母が蒸したとうもろこしや餅を何キロも歩いて売りにいく毎日を過ごしたという。前を歩いている人が突然射殺されて倒れたり、村の池には遺体が浮かんでいる光景もよく見たりしたそうだ。
コサルには弟と妹がいるが、下の妹は一度も学校教育を受けたことがないので、40歳を過ぎた現在でも、英語はもちろん、クメール語の読み書きはできない。三人きょうだいの中で、長男であるコサルだけが教育を受けた代償として、コサルは弟や妹の面倒を一生涯みるつもりだという。自分が今あるのは、犠牲になった妹や弟のおかげだから、と。
11月の祝日を利用した日本への旅行にも、コサルは、弟とその妻、妹(2度の離婚をして、現在はシングル)、バナリーの母親も誘い、その旅費や滞在費をすべて負担していた。コサルは弟や妹に毎月10万円ほど送金をしており、バナリーは「彼らの支援をするのはいいけれど、毎月多額の送金をしていたら、弟や妹は労働意欲を失うのに」と、しばしば夫への不満を口にしている。
コサルは「カンボジア人の多くは、精神的に病んでいるはずだ。過去を思い出さないようにしているだけで、あんな経験をしたら、誰だって発狂しそうになる」と言う。そんなつらい身の上話を、日本で聞かせてもらえたことは、私にとっては大きな収穫だった。
カンボジア人が立ち上がるために
バナリーの話に戻ろう。
バナリーは、自分と同じように地方に住む貧困家庭の収入になるような仕事を提供するためにも、ポル・ポト政権下で消滅したカンボジアシルクの復興に乗り出した。まずはカイコの餌になる桑の木を育てる農家に掛け合い、また、なけなしのお金で買ったミシンで縫製のできる人を雇うところからスタートした。
いまでは、国内200人以上が何らかの形でバナリーのプロジェクトに関わり、収入を得られるようになった。ここ数年では、カンボジアで活動するドイツのNGO団体からトップ5デザイナーに選出されたり、優れたアセアンの女性社会起業家の称号を与えられたりするなど、彼女の功績が認められてきている。
プノンペンにある彼女の工房には、カンボジアシルクでドレスをオーダーしにくるフランス人やオーストラリア人など、英語を流ちょうに話すバナリーを信頼する顧客が多い。
バナリーは、カンボジアを支援する外国のNGOにも積極的に商品を売り込み、フランスで開催されたファッションショーや、ニューヨークで開催されたカンボジア芸術祭での衣装デザインなども担当している。日本にも彼女の活動を支援する団体があり、その団体の招きで、これまでも数回日本に来たことがある。
私は、バンデスとは違う意味ですごいカンボジア人女性と、またしても出会ったのだった。
バナリーはカンボジアシルクの復興に尽力しているだけでなく、赤ん坊を抱えていたり、HIV陽性などで働きに行けない女性にも、収入の足しになる作業を発注している。
縫製技術が高くない人たちのために、プノンペンにある古着屋さんで日本の浴衣地を買い、レストランで使うナプキンを作らせていることを知った私は、日本舞踊の先生にかけ合い、「送料を負担するので、処分する着物や浴衣をカンボジアに寄付してほしい」と依頼した。以来、私は何度かに分けて、自宅に届いた着物をバナリーに運んでいる。
あるとき、日本の着物をリサイクルして、貧困女性の職業支援をするというバナリーと私のアイデアを、どこからか聞きつけたプノンペン在住のフランス人デザイナーから、「自分も、ビンテージの日本の着物が欲しい」と、突然、私に連絡があった。欧米人からすれば、日本の着物もカンボジアのシルクも同じアジアの芸術としてうつるのだろう。
そうはいっても私は着物販売業者ではないし、見ず知らずの彼のビジネスのために、私が協力する理由もないので、「協力することはできない」と、伝えた。私がバナリーの応援を微力ながらしていこうと思っているのは、彼女の願いが、カンボジア人が自分の国をよくしようと立ち上がることだからなのだ。
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小谷みどり
こたに・みどり 1969年大阪生まれ。奈良女子大学大学院修了。第一生命経済研究所主席研究員を経て2019年よりシニア生活文化研究所所長。専門は死生学、生活設計論、葬送関連。大学で講師・客員教授を務めるほか、「終活」に関する講演多数。11年に夫を突然死で亡くしており、立教セカンドステージ大学では配偶者に先立たれた受講生と「没イチ会」を結成。著書に『ひとり終活』(小学館新書)、『〈ひとり死〉時代のお葬式とお墓 』(岩波新書)、『没イチ パートナーを亡くしてからの生き方』(新潮社)など。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 小谷みどり
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こたに・みどり 1969年大阪生まれ。奈良女子大学大学院修了。第一生命経済研究所主席研究員を経て2019年よりシニア生活文化研究所所長。専門は死生学、生活設計論、葬送関連。大学で講師・客員教授を務めるほか、「終活」に関する講演多数。11年に夫を突然死で亡くしており、立教セカンドステージ大学では配偶者に先立たれた受講生と「没イチ会」を結成。著書に『ひとり終活』(小学館新書)、『〈ひとり死〉時代のお葬式とお墓 』(岩波新書)、『没イチ パートナーを亡くしてからの生き方』(新潮社)など。
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