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ふしぎな中国語――日本語からその謎を解く

昔の中国語の発音

 私の研究室があるお茶の水女子大学の建物は、だいぶ老朽化が進んでいる。特に授業の行われる教室が並ぶ3階はなぜか吹きさらしになっており、ひときわ傷みが激しい。初めて赴任してきたときには、「ここを開けておくと冷蔵庫になります」「ハクビシンが入ってきます」という張り紙も目に入り、軍艦島の廃墟に来たのかと思った(なお、教室の中だけは改修してあるからきれいだ)。

 ところで、私が現在入っている部屋の前任者の前任者は、(らい)惟勤(つとむ)先生だったと聞いた。頼先生は『日本外史』などで知られる江戸後期の大学者・頼山陽の直系の子孫である。すでに亡くなられて久しいが、YouTubeに孟子の素読を行う音源が上がっている。本来、素読とはこのように節をつけて読むものだったことがわかる。

 その頼先生が専門としていたのが音韻学で、私も大学生のときにご著書『説文入門』『中国古典を読むために―中国語学史講義』を読んで勉強した記憶がある(現在でも手に入る。特に後者はおススメである)。

 中国語の音韻学では、歴史的な漢字音がどのようなものだったのか、どのように変化したのかなどを扱う。現代の発音ならいざしらず、録音のない昔の時代の中国語音がなぜわかるのだろうか。ざっくりいえば、まず「韻書」とよばれる辞書のようなものと、発音を示す「韻図」という資料を利用できる。また、日本語や朝鮮語、ベトナム語の漢字音も古い漢字音を知るための参考になる。日本語の音読みは、昔の漢字音を当時の日本語にうつしたものだからである。

 逆に言うと、日本語の音読みは古代の中国語音をある程度反映している。このため、中国語をある程度勉強すると、日本語の漢字音と現代中国語の発音に対応関係が見いだせることがしばしばある。音読みで同じ発音の漢字は現代中国語でも同じであることも少なくないのだ。

 ということで、今回は日本語の音読みと現代中国語音の対応関係を紹介しよう。

(1)気、奇、機、記、家、加…

 これらを日本語で読むと、「ki ki ki ki ka ka」になる。現代中国語のピンインではqi qi ji ji jia jia である。対応しているのがわかるだろうか。中国語ではもともとkだったものがq(チ)またはji(ジ)になっているのだ。この変化が起こったのは、清のはじめころ、すなわち400年くらいまえのことと推定されているから、(中国的には)比較的最近起こった変化だ。

 ちなみに、なんでそんなことがわかるのかというと、『西儒耳目資』という、イエズス会の宣教師であったニコラス・トリゴーが当時の中国語の音韻をローマ字で書いた本があるからだ。1626年に出た『西儒耳目資』ではまだ「記」はkiと書かれているため、それよりのちにjiに変化したことがわかるのである。

 「家」「加」はka kia jiaと変化したと考えられている。「カ」が「ジャ」になるのはそれほど珍しい変化ではない。例えばフランス語では「庭」のことをjardin(ジャーダンのような音)というが、語源としては英語のgardenと同じなので、「ガとジャ」で対応関係にある。

 「カナダ」は中国語でも“加拿大”と書くので、現代語では「ジャーナーダー」という音になってしまう。この表記を生み出した方言での「加」の音は「ジャ」ではなく「カ」だったのだろう。

(2)海、漢、寒…

 音読みでは「kai kan kan」であるが、現代中国語では「hai han han」になっている。それぞれ、khと対応していることがわかる。漢字音が伝わってきたころの古代日本語にはまだハヒフヘホの音がなかった(パピプペポ、あるいはファフィフフェフォだった)ので、比較的発音の近いカ行で写しているのである。hの音は、kやgと発音の仕方が近い。本来hの音なのに、gに移される例としては、ロシア語のハリー・ポッターが思い浮かぶ。ロシア語では、ハリー・ポッターは「ガリー・ポッテル」と表記されている。寿司と一緒にでてきそうだ。

(3)先、洗

 どちらも音読みでは「セン」。「先」のほうは、現代語でもxian(シエン)なので、似ている。「洗」は部品も「先」だし、xianと読みたいところだが、xiと読む。歴史的変化の中で中国語では「先」と「洗」は別音になってしまったのだが、日本語の音読みは部品が共通しているので両方「セン」と読むことが定着している。

(4)微、文、問

 音読みでは「ビ、ブン、モン」だから、子音はbかmだ。現代中国語ではそれぞれwei wen wenと、すべてwになっている。bとmは唇をきちんと閉じて発する音だが、この閉じ方を少し適当にするとwになる。

(5)四、子

 音読みではどちらも「シ」だから、ローマ字で書けばsi。「四」はピンインだとsi、「子」はziなので、見た目は「シー」「ジー」みたいに見える。が、残念なことに「スー」「ズー」と読むので、初学者が間違えてしまう。これももともとの中国語音でも「シ」「チ」のような音だったのが、宋代か元代ころに音が変わってしまったらしい。

(6)各 割 蛤

 音読みでは「カク カツ コウ(歴史的仮名遣いでは「カフ」)」、と、それぞれ違うが、現代中国語ではすべてgeで、声調以外は同じになっている。もともとの発音では各kak、割kat、蛤kapのような音で、語末の子音がそれぞれ音読みに反映されている。このようにかつての中国語では末尾にk,t,pの子音がつくことがあったが、普通話(標準中国語)ではすべて失われている(なお、広東語などの方言ではまだ残存している)。

 現代中国語と日本語の音読みを対照させてみると、他にも例えば「野ya、邪zya、借syaku、夜ya」はそれぞれ「ie xie jie ie」となっているから、「ヤ」になっているところがieに変わっていることがわかったり、「落、作、索、洛、駱…」などが「luo zuo suo luo luo」となっているように、音読みでakになっているところがuoに変わっていたりすることに気がつくだろう。暗記する際には、こうした類似点も利用したいところだ。

 聞いたところによると、頼惟勤先生は本当は数学が好きだったのだが、漢学の家系だったので仕方なく漢学を専門にしていたらしい。漢学の中では音韻学がシステマチックで数学に似ている、とかつておっしゃっていたという。

 なお、今いる建物は築50年で建て替えるつもりだったらしいが、昨今、国立大学はどこもお金が足りないので補強してあと50年使うつもりだとのこと。しばらく「伝統」とともに仕事をすることになりそうだ。

中国語は不思議

2022/11/24発売

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
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それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

橋本陽介

1982年埼玉県生まれ。お茶の水女子大学基幹研究院助教。慶應義塾志木高等学校卒業、慶應義塾大学大学院文学研究科中国文学専攻博士課程単位取得。博士(文学)。専門は中国語を中心とした文体論、テクスト言語学。著書に、『日本語の謎を解く―最新言語学Q&A―』(新潮選書)、『中国語実況講義』(東方書店)、『「文」とは何か 愉しい日本語文法のはなし』(光文社新書)、『中国語における「流水文」の研究 「一つの文」とは何か』(東方書店)など。

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