2021年8月26日
第2回 「いのちの現場」はどこにあるのか
人類学者の磯野真穂さんと、(元)歴史学者の與那覇潤さんの対談の第2回。前回は、コロナ対策が進む中で、「共感格差」が拡大しているという指摘がありました。今回は、理系の専門家が主導するコロナ対策は、そもそも本当に「科学的」と言えるのか、人文学の視点から掘り下げて考えます。
※この記事は、2021年7月16日にジュンク堂書店池袋本店にて開催された【與那覇潤書店第3回オンラインイベント】 の対談の一部を再構成し、加筆修正を施したものです。
コロナ禍が生んだ「科学という名の宗教」
與那覇 前半で議論したように、日本のコロナ対策にはパチンコや居酒屋の狙い撃ちなど、少し調べるだけでも「おいおい。実は全然エビデンスなんかない、つまり科学的じゃないじゃん」とわかるものが多い。むしろ政治力の有無や社会的な偏見など、人文系が扱うべき要因によって、実際には対策の方向性が決められてきたわけです。
ところが自然科学の専門家を政府が組織し、いわば理系の研究者のお墨付きをもらう形でいったん「ロンダリング」すると、多くの人が「専門家の先生がこう言っているんだ! それに従う態度こそがエビデンス重視であり、科学的なんだ!」と釣られてしまう。これはどうしてなのでしょうか。
磯野 そもそもエビデンスって、基本的にグラデーションですから、必ずしも「唯一の正解」を導いてくれるものでは決してない。でもエビデンスという用語だけが流行した結果、そうした内実が知られていないのではないでしょうか。
私の知るかぎり、疫学を真摯にやっている方は、疫学の強みと限界をよくご存知ですから「これが、私たちが徹底的に突き詰めた、現時点で到達しうる『暫定的な真実』です。だけど、また変わるかもしれません」といった謙虚な物言いをする方が多いんですよ。
與那覇 そもそも今回の場合、「未知の感染症」として問題が始まったわけだから、自然科学の専門家だってすぐに正解にたどり着けるわけはなくて、「暫定解」を積み重ねながら手探りでやっていかざるを得ない。それって当たり前のことですよね。
磯野 ええ。私が長年、医療の現場で調査してきて実感するのは、ある科学者の人が「これは科学的な見解です」と言っていても、他の科学者に聞いてみると「いや、そこまでは言えない」と言ったりする。だから結局、なにが正しいのかよくわからない状況こそが、現場には常にあるのだということなんです。
コロナ禍でも、テレビやネットで繰り広げられる専門家の議論を見ていると、疫学統計的にどの解析方法がいいのかとか、サンプルが何人いれば正しいのかとか、もはや素人には判断がつかない状態です。結果、素人は空中戦を眺めているような状態になり、できることといえば、「Aという専門家と、Bという専門家、さあ、どっちを信じるか?」みたいな話になってしまう。
にもかかわらず、今回私が気になったのは、自然科学者の一部に「これが正しい答えなんです!」と称して、極端な数字や強硬な対策を出してくる例が結構あったことです。
與那覇 あえて名前は出しませんが(苦笑)、いましたよね。実に変なのは、私たちのほとんどは感染症の「専門家じゃない」わけですけど、それなら本来、「専門家を名乗る人が目の前に現れたとき、その人が本当に『信用できる専門家』なのか?」も判定できないはずじゃないですか。少なくともじっくり考えること抜きには。
にもかかわらず、「さぁ、一切疑いを挟まず、あの人の言うことに従おう! なぜなら専門家の助言に従うのは科学的だから!」のように振る舞ってしまう人が、学者や有識者にも多かった。そうした様子を見ると、本当の意味での科学的な精神は消え去り、むしろ「科学教」という看板を掲げた事実上の宗教が生まれているような気さえします。
磯野 感染症の「専門家じゃない」ということは、「専門家を名乗る人が目の前に現れたとき、その人が本当に『信用できる専門家』なのか?」も判定できないはず。ここ本当に大切なご指摘だと思います。その辺りは人文系の学者の仕事で、與那覇さんが『歴史なき時代に』(朝日新書)でこの辺りの問題を多角的に掘り下げていることは、頼もしく思いました。
緊急事態宣言は「物忌みの儀式」?
與那覇 光栄です。ただ、ここからずっと「ちゃんと戦った俺たち2人は偉い」という方向で話すのも感じが悪いので(笑)、むしろどういった人文学の教養があると、文系の人間は自然科学者に臆せず「一歩踏み出せる」のか。それを考えたいと思うんです。
そうした観点で読みなおすと、磯野さんが2017年に出された『医療者が語る答えなき世界』(ちくま新書)には、「手術と呪術」という章がありますよね。そこにひとつ、大きな手がかりがあるように感じました。
磯野 あの章ですか? 実は刊行した後で、何人かの医師に結構嫌がられた箇所なんですけど(笑)。
與那覇 内容を紹介しますと、病院の手術室では当然のことながら、「近代科学に基づいて衛生対策をしています」という建前になっています。しかし、医療者のあいだで守られている衛生のルールを微細に観察してゆくと、エビデンスに基づく合理的な規則というよりは、むしろマナーやジンクスに近いものだって結構あるということですね。
たとえば手術器具を扱う際に、とにかく「下から3分の2まで」は絶対に触らないようにして、その部分は滅菌済みであると見なす。つまり上から3分の1までなら手で触れたり、なにかに当たったりしてもいいのだけど、そのラインを越えたらちょっとかすっただけでも「汚れた」と見なして、廃棄するルールがあると。
磯野 3分の2というラインに厳密に科学的な根拠があるのかというと、実はそうではないわけです。手で触っていなくても、封を切って外気に触れさせた時点で「何か」は必ず付着しているだろうし、逆にそのラインを0.1ミリ超えて接触したら、その途端にすべてが不潔になるんですかと言われたら、本来はそんなこともないわけなので……。
つまるところは、ある種の「決め」の問題なんですよね。コロナ禍でも、濃厚接触者かどうかの判断をする際に、マスクの有無が基準の一つになっていましたが、これも明確な科学的な根拠を出せるかというと難しいでしょう。マスクをしている人が常に安全なんてありえないはずです。でもとにかく「どこかで線を引かなきゃいけないから、そう決めておくことにします」という話なわけです。
與那覇 基準となる線を設けて、「ここまでは清潔、ここからは不潔」「ここまでは安全、ここからは濃厚接触者」としなくては、何もできない。もちろん、そうしたルールにはガイドラインとしての意味――結果的に安全な医療を提供する上での大きな意義があります。
ところがコロナ禍に際しては、それを「専門家が提言した以上は、科学的に『正しい』絶対の真理であり、決めた一線を動かそうとするやつは非科学的だ!」のように過剰に持ち上げて、異論の封じ込めに使う振る舞いが横行しました。しかし、緊急事態宣言の長期化に及んで、どうも多くの人はそのおかしさに気づき出している印象がありますね。
磯野 そうですか? 意外な感想ですね。どういうところで、そう思うのでしょう。
與那覇 たとえばYahoo! JAPANのサイトでニュースを見ていると、「緊急事態宣言は必要? 不要?」みたいなアンケートをよくやっていますよね。その結果が面白いんです。
宣言の発令ないし延長等が「必要ですか、不要ですか」と訊かれると、ほぼ常に7~8割くらいの回答は「必要」なんです。しかし隣の記事をクリックすると、そこでは「緊急事態宣言に効果はあると思う? ないと思う?」のアンケートをやっていて、そちらでは8~9割が「効果はない」と答えていたりする(笑)。
磯野 言われてみると奇妙ですよね。内心では「効果がない」と思っているのに、なぜみんな「宣言が必要」と答えるのでしょう?
與那覇 私もずっと疑問だったんですけど、先ほどの「手術器具の3分の1までは触れてOK、しかし3分の2ラインは死守」の話を読んで、通じるものを感じたんです。
磯野 ああ、なるほど。仮に科学的な根拠はあいまいだとしても、「どこかで一線を引いてくれ!」という欲求がある。それが「緊急事態宣言」であると。
與那覇 まさにそうで、国民に緊急事態宣言が支持される理由は、実のところ科学とは関係ないんです。多くの人が、実効性なんかないと知っているわけですから。そうではなくて、「はい、ちゃんと一線を引きましたよ!」という儀式を求めているわけなんですよね。
人類学者の磯野さんにお話しするのは釈迦に説法ですが、これって要は民俗学的な「物忌み」の慣行というか、「お葬式から何日間は、参加者もケガレていると見なして生活を制限しましょう。その翌日からは、日常に戻ってOKです」に近い発想じゃないですか。つまり日本の場合、緊急事態宣言は科学ではなく「呪術」としてのみ機能している(苦笑)。
「通過儀礼」を欲しがる社会
磯野 それはコロナ禍への妥当な対策を考えるうえでも、大事なポイントですね。今年3月に登壇した日本内科学会のシンポジウムでは「特効薬はないけれども、治療方法はかなり確立されてきた」という報告を聞きました。つまり、新型コロナが完全に未知の病原体だったのは初期のことで、いまは油断はならないけれども「罹っても治療できる」病気に変わりつつあるわけです。
そうだとすればコロナ禍への対策も、とにかく緊急事態宣言という形で「非日常」を演出することではなく、むしろ可能な範囲で日常の生活に戻りつつ、医療体制を拡充させてゆくことだと思います。しかし、なぜかそこはあまり議論になりません。
與那覇 そうなんですよね。普通に日常を送りつつ「罹っても、ちゃんと治療してもらえる」体制を整えることがベストなのに、なぜか「『今は緊急事態だ』と宣言してくれ!」とする欲求が勝ってしまう。これこそまさに、人類学的な分析対象だと思います。
そこで参考にしたいのは、コロナ禍の少し前に当たる2019年の秋に磯野さんが出された『ダイエット幻想』 (ちくまプリマー新書)です。同書の中では、伝統的な社会に広く見られる「通過儀礼」の1つとして、アフリカのヌアーのものが紹介されます。
磯野 はい。男の子はカミソリで頭にぐるっと一周傷をつけて、人によっては頭蓋骨にまで達するほど皮膚を切られて血だらけになる試練に耐えることで、共同体の中で「成人」として認められる。ヌアーにはそういう儀式があるんですね。
與那覇 なにが「大人たるにふさわしい資格」なのかって、原理的には答えはないですよね。別に20歳に達していなくても、あるいは超ハードな儀礼に耐えなくても、多くの人は生殖能力はあるだろうし、お酒を一口飲むだけで悪酔いするわけでもないでしょう。しかし、まさに答えがないからこそ、どこかで一線を引かないといけない。
同様にコロナ対策として「なにが正解なのか」がわかっていない場面では、「とにかく緊急事態宣言を出せば、『政府は本気を出しました』ということにしましょう」とする発想が求められちゃうわけです。それが一度癖になってしまうと、科学的じゃないとわかってもやめられない。ヌアーの人たちを「カミソリの傷に合理的な根拠はなくて、むしろ副作用が大きく……」と説得したところで、儀礼をやめさせられないのと同じです。
その点で少しいま心配しているのが、ワクチン接種です。今回の新しいワクチンのメカニズムについて、科学的に理解している人はごく一握りでしょう。むしろ圧倒的多数は単なる「通過儀礼」として接種していて、「厳しい副反応に私は耐えた! だから私はコロナ克服に協力するよき市民であり、日常に戻る資格を得た!」みたいになっている(笑)。
磯野 なるほど! 対策をしたか、していないかの境界をはっきり引くことを通過儀礼に準えてお考えなのですね。誤解のないように言っておくと、私自身はワクチン接種は大事だと思っていて、コロナワクチンもすでに打ちましたし、コロナ禍以前から毎年インフルエンザの予防接種も受けてきました。運動生理学や医療人類学を研究してきたこともあって、原則としては私は「科学を信頼する」タイプだと思っています。
ただそれでも気になるのは、2000年以降の日本社会はワクチンが引き起こしうる副反応に過敏と言っていいほどの反応をしていたことです。例えば日本脳炎ワクチンもHPVワクチンも、因果関係ははっきりとはわからない重篤な身体症状が報告数は大変少数であるにもかかわらず問題視され、国による積極的勧奨がストップし、HPVワクチンはいまだその状態が続いています。これを見る限り、ワクチンに対するゼロリスク志向がかなり強いといえます。
にもかかわらずコロナワクチンは、多くの接種者が39度以上の熱が出る
與那覇 やっぱりもはや科学じゃなくて、コロナワクチンが「呪術」のアイテムになっているんじゃないでしょうか(笑)。みんなが打つ「前と後」では違うんだと、そういう形で一線を引かないと、社会全体が日常に戻れなくなっています。
磯野 ワクチンが効果的という集合的な傾向に嘘はないと思います。ですが私たち一人一人はその効果を体で確かめることはできません。だって打たなくてもならない人、打っても罹患する人、打たなくても無症状の人、打っても重症化する人も一定数存在するから。
集合としての効果を「体験」することが無理である以上、言い換えると「この私」が可能性の中のどこに落ち込むかわからない以上、「この私」にとってのワクチンの効果は、「ワクチンを打っていたから大丈夫だろう/だったのだろう」と信じるよりほかありません。その面で呪術的な側面があるといえます。実際私は、「インフルの予防注射打ってもインフルかかるじゃん」と揶揄されつつ、「いや私はワクチンの効果を信じている!」と主張して接種を受けに行っていました(笑)。
「いのちの現場」は病院だけなのか?
磯野 コロナ禍では世の中に流通する言論が、驚くほど医学一辺倒に傾いてしまいました。そうなった理由には、医学関係者が専門知識を有しているということだけではなくて、「私たちは今、最前線でがんばっているんだ」と言えてしまったのが大きいと思います。
與那覇 「いま医療現場は逼迫していて、大変なんだ! 黙って俺たちの指示に従って、感染者数を減らせ!」みたいなやつですよね。
磯野 ええ。実際にコロナ第一波の当時、私が批判される際に最も言われたのは、「現場を知らない」と「勉強不足」でした。
要するに「あなたは現場も知らなければ、医療の専門家でも、感染症の専門家でも、疫学の専門家でもない。そういうあなたが言っている現実についての理解や解釈は誤っていますから、まずは勉強してください」という言い方をされるわけです。
與那覇 これまた呪術的な話になりますけど、「現場」という用語はしばしば、「水戸黄門の印籠」になってしまう。あるいは「バルス」かもしれませんが(笑)、それさえ振りかざせば異論をシャットアウトして、ゲームを終わらせられる魔法の言葉になりがちです。
磯野 そうなんです。もちろん患者さんを受け入れているみなさんは本当に日々頑張ってくださっているのだと思います。それは間違いないでしょう。しかし私がいつも違和感を覚えるのは、かれらの「現場」は世界の全てではないということ。
もう1つは、ICU(集中治療室)の報道などで、よく「いのちの最前線」とか「いのちの現場」という言い方がなされることです。でも、「いのちの現場」は病院だけではないと思うんですよ。
與那覇 まさに。病院の外にだって、たとえばお店が自粛で閉店に追い込まれて資金繰りも苦しく、うつになりかけていて自殺さえ頭にちらつくと、そうした「現場」がいっぱいある。彼らだってまさしくいま、「いのちの最前線」へと追いやられているわけです。
磯野 「命」というものが医療化・数値化、あるいは政治化された結果、いつの間にか「そうした経路に乗らない命は、もう命としてケアしないでいい。単に補償金を配って、お金の問題として処理すればいい」といった選別が行われてしまっているんですね。
だから2020年4月のバズフィードの記事では、「命と経済」という比較は間違っていると書きました。「命と経済」って言えば、そりゃみんな命が大事だと言うでしょう。でも、医療現場以外の人びとの生活は「命でなく経済なんだ」と括ってしまうこと自体がおかしいのであって、自粛によって問われているのは「命と命」なんだと指摘したんです。
與那覇 どんな職種にだって、そこで働く人の尊厳という「命」の側面と、損得勘定として成り立つかという「経済」の側面の両方がある。本来、あたりまえのことですよね。
磯野 ええ。医療機関だって当然、存続していくためにどう稼ぐかは考えていますし、居酒屋と利用客のあいだにも、「相手の命をケアし、ケアされあう」関係は働いています。
その点でいうと「コロナを利用して儲けた職種もある」といった批判を、最近はちらほら目にしますよね。私も知り合いにIT関係の方がいて、実際にリモート需要で会社として業績は上がっている。ところが彼らの現場がハッピーかというとそうでもなくて、むしろハードワークになりすぎたり、リモートワークをし続けることの負荷から離職者が続出中だそうです。当然、辞めずに留まる人の負荷はもっと増えていくから、心身を壊してしまうケースも多い。
それなのに医療関係者の場合とは違って、「みなさん、SE(システムエンジニア)の現場はいまパンク寸前なんです。だから、夜9時以降はインターネットの利用を自粛しましょう」とは、誰も言わないじゃないですか。よく、ベッドがあればいいわけじゃない、そこには医者も看護師も必要なんだという意見がありますよね。それと一緒で、私たちがテクノロジーをバンバン使うためには、その需要に応えるため、システムを作る人が必要なわけです。ところがかれらの奮闘や疲弊はメディアには流れません。
與那覇 たしかに! 「コロナで過剰労働になってしまった職場」という点では同一なのに、変な話ですよね。ここにもやはり、職業で異なる「共感格差」があると。
磯野 ええ。感染症学の専門家の視点では「とにかく感染につながる行為は控えて」となるし、医療現場の視点からは「感染者数を減らしてくれ! 仕事が回らないよ」となる。もちろん専門家の視点は尊重されるべきですし、現場の悲鳴も届けられるべきと思います。しかし彼らの価値が唯一の基準となり、一方的に「あれは社会に必要、これは不要不急」のように切り分けたら、それ以外の視点を持つ人たちの命を踏みにじることになるわけです。
これは本来、暴挙というほかはないことですよね。そういう時こそ人文学を学んできた人は自らの視点に立って、「いや、それは違うよ」と声をあげるべきではないでしょうか。
與那覇 まさしくおっしゃる通りで、コロナ以外の問題についても同様ですけど、もし特定分野の専門家だけが「専制政治」を始めるなら、他の分野の学者がきっちり歯止めをかけなくてはいけない。そうした矜持を誰もが、取り戻していかなくてはいけませんね。
(おわり)
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磯野真穂
いその・まほ 1976年、長野県生まれ。独立人類学者。専門は文化人類学・医療人類学。博士(文学)。国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年より独立。著書に『なぜふつうに食べられないのか――拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界――「いのちの守り人」の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想――やせること、愛されること』(ちくまプリマ―新書)、宮野真生子との共著に『急に具合が悪くなる』(晶文社)がある。(オフィシャルサイト:www.mahoisono.com)
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與那覇潤
1979年、神奈川県生まれ。評論家(元・歴史学者)。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学者時代の専門は日本近現代史。地方公立大学准教授として教鞭をとった後、双極性障害にともなう重度のうつにより退職。2018年に自身の病気と離職の体験を綴った『知性は死なない』が話題となる。著書に『中国化する日本』、『日本人はなぜ存在するか』、『歴史なき時代に』、『平成史』ほか多数。2020年、『心を病んだらいけないの?』(斎藤環氏との共著)で第19回小林秀雄賞受賞。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 磯野真穂
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いその・まほ 1976年、長野県生まれ。独立人類学者。専門は文化人類学・医療人類学。博士(文学)。国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年より独立。著書に『なぜふつうに食べられないのか――拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界――「いのちの守り人」の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想――やせること、愛されること』(ちくまプリマ―新書)、宮野真生子との共著に『急に具合が悪くなる』(晶文社)がある。(オフィシャルサイト:www.mahoisono.com)
- 與那覇潤
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1979年、神奈川県生まれ。評論家(元・歴史学者)。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学者時代の専門は日本近現代史。地方公立大学准教授として教鞭をとった後、双極性障害にともなう重度のうつにより退職。2018年に自身の病気と離職の体験を綴った『知性は死なない』が話題となる。著書に『中国化する日本』、『日本人はなぜ存在するか』、『歴史なき時代に』、『平成史』ほか多数。2020年、『心を病んだらいけないの?』(斎藤環氏との共著)で第19回小林秀雄賞受賞。
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