(前回までのあらすじ)
 「チャーリー」こと勝田直志さんは、コザの有名なタコス専門店の創業者。奄美の喜界島出身で、沖縄戦の生き残りでもある。昭和19年の秋、20歳の勝田さんは現役入隊し、野戦重砲兵第23連隊に配属された。

 米軍の沖縄上陸を、勝田さんは見ていた。
 1945年3月23日早朝、艦載機延べ355機近くによる沖縄本島地区への空襲が始まった。26日、米軍の第77歩兵師団が慶良間(けらま)列島に上陸し、ほぼ一日で制圧。勝田さんはその時、前田高地の観測所にいた。双眼鏡で覗くと、慶良間が燃えていた。沖縄本島からはなすすべもない。
 31日、慶良間から艦隊が沖縄本島へと向かってくるのが見えたそうだ。「水平線が見えないほどだった」とその光景を見た人たちは口をそろえる。
 4月1日は快晴の日曜日。午前5時半、上陸前の爆撃が始まる。米軍の戦艦や砲艦など219隻が艦砲射撃を開始、7時45分からは艦載機も加わって、海岸に爆撃や機銃掃射を繰り返した。続いて第一波の上陸用舟艇と水陸両用車が海岸から約4kmに集結し、午前8時、嘉手納海岸に向けて前進を始めた。
 勝田さんはこの時も前田の観測所にいた。「それ、見ていました。何もすることがないですからね。もう、これはどうにもならんという、ただそれしか思えない。勝つとか負けるとかじゃないですよ」。
 米軍では、日本軍の迎撃で8割が死傷すると試算していた。前夜、将兵は自暴自棄になり、当日は待機中に恐怖した、と米軍側の多くの体験記が記す。日本軍の無抵抗はエイプリルフールか罠ではないかと第一波の上陸部隊は疑い、後続部隊は報告を信じなかった。やがて大はしゃぎで「ピクニックのように上陸した」とも「最高のイースターサンデーだった」とも言われる。

米軍の沖縄上陸。沖に大型の上陸用舟艇が見える。提供:沖縄県公文書館


 それは日本軍の作戦だった。沖縄防衛作戦を立案した八原博通ら首脳部は首里で、日本軍のバンザイ突撃に怯えながら上陸する米軍の様子を見ていた。

 ある者は談笑し、また他の者は煙草をふかしながら、悠々敵の必死の上陸作戦を眺めている。(中略)今ほとんど日本軍の抵抗を受けず、続々上陸中である敵の指揮官や兵士たちはどんな気持ちでいるだろう。彼らの心理を推測し、ひそかに皮肉な微笑をさえ浮かべている。(八原博通『沖縄決戦――高級参謀の手記』中公文庫、4頁)

 上陸の水際撃破は犠牲が大きい。太平洋の島々での教訓を活かし、沖縄守備軍は首里北方の高地に陣地帯を布き、米軍の南下を待ち伏せて効率よく戦う作戦だった。米軍は上陸準備のため艦砲だけでも10万発以上を浪費したと記録される。一方、日本軍は陣地暴露を防ぐため、1発も発砲しないよう厳命されていた。
 しかし、末端兵士には司令部の深謀遠慮など知らされない。布陣の失敗と武器の性能によって反撃できない、と兵士たちは悔しく思っていたようだ。観測所から見ていた勝田さんにも、もどかしくて悔しくてならない経験だったらしい。初めて会った時、勝田さんは勢い込んで話した。

 我々の野戦重砲は、有効距離が8000mしかないんですよ。当時のものは本当にねぇ……。アメリカが無血上陸して、3日、4日目に日本は撃ち始めたんです。それがようやく北谷(ちゃたん)の近くになってから。北谷は首里からだいたい8000mですよね。それからアメリカはどんどん攻めてきて、今の宜野湾市の新城(あらぐすく)という部落、あの辺に戦車が来た時に撃ち始めた。結局、我々の大砲の性能で……

 よほど無念だったらしく、この話は何度も聞かされる。

 

 陸からはただ眺めるしかない米軍の艦隊に向け、夜ごと日本軍の特攻機が飛来した。日没後から夜明け前にかけ、夜陰に乗じて突入する。そのたびに米艦隊の対空砲火が一斉に砲撃を開始し、ドロドロと轟音が響く。噴水のように打ち上げられる曳光弾の中、機体が落ちるのが見えたという。

 一番可哀想と思ったのは、特攻隊ですね。ホワイトビーチの上空まで来たら必ずサーチライトに囲まれて、身動きできないんですからね。もう落ちるしかない。……当時は「どっちみち死ぬんだから」と思って行くんだろうけど。でも、突っ込むならまだいいですよ。突っ込む前からぼんぼん撃たれたら、落ちるより仕方ない。ああ、実に可哀想だなぁ、と思って……

 勝田さんは戦闘初期の話になると、必ずこの「特攻隊は可哀想だった」を繰り返す。「日本の軍隊は屍を引き上げるとか、やってないでしょ。落ちたものは落ちたままで。戦死した人もそのまま置き去りですよね」としみじみ話したこともある。
 今も沖縄近海には多くの飛行機と船、何万もの戦没者が沈んでいる。
 2012年春、護国神社の神職である夫のもとに、ダイビングの団体から慰霊祭の方法について相談が持ち込まれ、夫が祭主として出向いた。
 最近「恋の島」として観光開発が進む古宇利(こうり)島。ダイビングの人気スポットとして、海底に沈んだまま朽ちたアメリカの軍艦が知られていた。ある時、今まで見えなかった甲板部分に日本の特攻機が載っているのが見えた。その機体番号などを元に、いつ誰が乗っていたのか調べて判明したという。
 4月6日、日本軍の総攻撃「菊水一号作戦」で九州から出撃した特攻機5機が、古宇利島沖で戦艦エモンズに命中。船は沈まなかったが使用不能になり、翌日、特攻機ごと米軍により沈められた。
 水深40m前後では引き揚げようもない。ダイバーたちは手弁当で洋上慰霊祭を企画、遺族も招いて小さな慰霊祭が行われた。海岸では日の丸と星条旗が並べられ、日米双方の戦死者に祈りがささげられた。

2012年4月6日、海岸での慰霊祭。提供:沖縄県護国神社


 沖縄戦に投入された陸海軍の特攻機は2000機以上。だが、戦果は定かでない。墜落したり撃墜されたりした機体の行方も突き止められない。
 沖縄の海は透明で美しい。淡い水色と群青色の2色に分かれて見える。水色は珊瑚礁が台状になった浅瀬。一直線の白波が隔てる外海は、深さ6000mもの琉球海溝だ。あの深い青い闇の中に、何万もの人と何千もの飛行機や船が沈んでいる。人類が火星を探索できる時代になっても、深海の探索は困難だ。
 遊覧船や離島便で珊瑚礁の端まで来るといつも、心の中で手を合わせる。

 

 前々回の連載で少し触れた「特攻花(とっこうばな)」について、カメラマンの河野隆行さんという方からご指摘をいただいた。
 喜界島に海軍の不時着飛行場があり、九州から来た航空兵が持ち込んだ花が「特攻花」と呼ばれて今も咲いている、という話である。実はこの「特攻花」伝承は、最近になって広まった新しい特攻隊神話らしい。
 何よりの証拠は、種類が違うということだ。喜界島の「特攻花」はテンニンギク(写真左)で、九州南部の「特攻花」はオオキンケイギク(写真右)。当時の状況や証言からしても、花が特攻機で運ばれたと考えるのは無理があるそうだ。

喜界島の「特攻花」テンニンギク。
九州南部の「特攻花」オオキンケイギク。

 こうしたロマンチックな伝承が急速に伝播するところに、「航空特攻」、特に知覧基地の「神話」化が見て取れる。神話には起源も正しさも問われない、むしろ問われてはならない。沖縄に来た特攻機はゼロ戦ばかりではないし、知覧から来たとも限らない。花を植えたわけでもない。
 実際の沖縄戦には、航空特攻隊よりはるかに多くの小型舟艇と歩兵による「特攻隊」がいた。簡易な作りの特攻舟艇は、200人ほどの部隊がいくつも船舶特攻や逆上陸作戦に投入された。そして歩兵は「一人十殺一戦車」を合言葉に、木箱でできた急造爆雷を背負って生身のまま戦車に向かった。その数は把握できないほど多い。彼らは名前すら残っていない。

つづく