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村井さんちの生活

2018年8月13日 村井さんちの生活

心臓へたっちゃってますけど大丈夫 その6

―You can't have a rainbow without a little rain.―

著者: 村井理子

DAY 12 術後八日目

 ペースメーカーに繋がれていた青いコードの束がついに抜かれ、体外式ペースメーカーが外された。お腹から飛び出していたコードはとても邪魔だったので、ほっとした。「心臓に引っかけてあるんですよね~」と、若干うれしそうに先生が説明していたもので、抜かれた時の、なんとも言えないプチプチ感…。コードの先端が心臓から外れた(ひっこ抜けた)時の、心臓が引っ張られるような、あのわずかな抵抗と衝撃。「オレはいつもここにいる。それを決して忘れるな」と心臓に言われているような気分だった。ホラー? 

 体外式ペースメーカーが外れたことで自由度はぐっと上がり、病院内であればどこに行ってもいいと許可が出た。「そうだ、屋上のレストランに行ってもいいっすよ。なんでも食べていいっすから!」と近藤先生は明るく言っていたが、実際に行ってみると(行ったんかい)、レストラン内はいつもほぼ満員だった。壁一面の大きな窓から見える景色は雄大で、この施設が病院内にあるとは到底思えない。あっけらかんと、あまりにも明るい。

 燦々と太陽が差し込む病棟内でも、所々に暗い穴のような空間が存在している。なぜかそこにだけ人の気配を感じられず、太陽の光も届かない。そんな暗い空気が溜まる場所を見つけるたびに、私は少し不安になった。そこから、「ずっとここにいてもいいんだよ」と誰かの囁きが聞こえてくるようだった。レストラン横のテラスで青空を眺めながら、ふと、私はこれから先、外の世界に適応していくことができるのだろうかと考えた。

DAY 13 術後九日目

「仕事してるんですか?」と先生方によく聞かれるようになった。私がパソコンを開いているからだ。ノートパソコンを開いていれば仕事をしているように見えるかもしれないが、実際に見ているのは海外ドラマである。

 「いえいえ、仕事なんて」とか、「仕事って言っても、ノートパソコンだけだと限界ありますし…」とかなんとか、ごにょごにょ言ってごまかす。

 私にはもう、一冊の本を最後まで訳す体力はないのかもしれないと考えはじめていた。そもそも私は、翻訳という、長丁場で辛い仕事に向いていたのだろうかと、今更言ってどうするという疑問で心が埋め尽くされてしまった。毎日、何をするでもなくベッドに座り、窓から外を眺めているだけで時間が過ぎていく。本を読む気力も失われつつあった。雲と空の切れ間をじっと見ていると、考えなくてもいいことを考えてしまう。だいたい、私がここに存在しているという証拠はあるのだろうか。すべては壮大な夢の中のできごとなのでは…? と、答えの出ないことを延々と考える。そのうえ、体が楽になればなるほど、困難に立ち向かうのは二度とゴメンだという気持ちになる。私はもっと楽に生きていい。もう何もしなくてもいいはずだ。あんなに苦しい仕事なんて、もう無理、絶対に無理。私は病気なんだから、すべてにおいてギブアップでOK! なにせ心臓手術だよ!? 大病しちゃったんだよ!?

 完全なる開き直りのスタートであった。

DAY 14 術後十日目

 体調、すこぶる良し。

 この日、リハビリルームで珍しく女性に出会った。白髪の上品な人で、目が合うとすぐに話しかけられた。「女の人にはじめて会ったわ。それもあなた、まだ若いじゃないの」と言い、私に横に座るよう促した。私は素直に彼女の横に座った。

 「もうリハビリは嫌」と彼女は涙ぐんで言った。きれいに整えられた白髪は緩やかに波打って、レンタルパジャマ姿であっても、普段のきちんとした暮らしが垣間見えるようだった。メガネを外し、両手で顔を覆って、「もう帰りたい」と彼女は泣いた。

 私はそれが、病室に帰りたいという意味だと勘違いして、「帰っていいと思いますよ。無理しないほうがいいと思います」と、答えた。彼女の胸元に貼られた大きなガーゼを見ながら、たぶん手術直後で不安定になっているのだろうと思った。「看護師さんに言えばいいんじゃないかな。帰っていいと思いますけど…」と、私は周囲を見回して看護師さんを探しながら付け加えた。

 「帰りたい。でも、やっぱり帰りたくない。娘が、なんでこんなになるまで我慢したんやって怒るのよ。なんでもっと早くに言わなかったのって。もっと早くに言えば手術なんてしなくて済んだって怒ってくる。でも、じゃあ誰が家のなかのことをするの? そうでしょ?」

 「そうですね。我慢してしまったんですよね。大丈夫ですよ、娘さんも本気で言っているわけじゃないから」と、私は会ったばかりの彼女を慰め、ああ、彼女は家に帰りたいと言っていたのだと気づいた。

 「手術が終わったら、全部元通りになるって言うけど、元通りになんてなるわけないやないの。私たちからしたら、全部最初っからやり直し。そうでしょ? あなたもそう思うでしょ?」

 私は曖昧に頷くことしかできなかった。

 私は…家に帰りたいのだろうか…。

DAY 15 術後十一日目

「君、いつから会社に復帰するの?」と執刀医の浅井先生が私に聞いた。私は「退院したら、仕事にはすぐに復帰しようかなって思ってます」と答えた。浅井先生の後ろで近藤先生が、「村井さんは翻訳をやってらして、会社勤めじゃないんですよ」と小さい声で言っていた。浅井先生は全然聞いていなかった。

 「うん、順調だ。もう少し体重が減ってもいいところだけれど、まあ、ゆっくりいきましょう」と笑うと、病室を去って行った。近藤先生はいつものように、片手をひょいと上げて浅井先生の後ろを歩いて行った。

 予定の時間にリハビリルームに行くと、前日に出会った白髪の女性がいた。私を見てにっこりと笑い、明らかに昨日よりも顔のむくみが減っていて、輪郭の美しい人だったことに気づく。胸元のガーゼがなくなっていた。

 「今日はとてもお元気そうですね」と私が声をかけると、ぱっと表情を明るくして、「そうかしら?」と言った。「なんだかお顔もすっきりされて、とってもいい感じですよ」と言うと、うれしそうに笑っていた。

 「あなた、ゆうべ廊下を歩いていたでしょ? 声をかけようと思ったんだけど、スタスタ急いで歩いて行っちゃうから、間に合わなかった」と彼女は言った。デイルームに彼女と娘さんが座り、楽しそうに話していたことに、私も気づいていた。昼間、娘が酷いことを言うと泣いていた彼女は、娘さんに甘えるような笑顔を見せていた。私はそんな二人が羨ましく、いたたまれなくなって、自販機に行ったにもかかわらず、何も買わずに立ち去ったのだ。私の両親はもうこの世にはいない。7歳で手術をしたときは二人がずっと付き添ってくれていたけれど、47歳の今は、私は一人きりでここにいる。

DAY 16 術後十二日目

「さて、消化試合となってまいりました」と近藤先生は言った。

 「消化試合」

 「術後の経過は順調ですが、ちょっと血液検査で気になることがありまして」

 「おっと」

 「血糖値です」

 「でた、成人病予備軍」

 「ちょっと高いです」

 「うわぁ…」

 「まずはダイエット」

 「ダイエット」

 「それから食生活の改善ですね。退院後の生活について、指導を受けてもらいます。これからは自分で管理して、健康を維持して頂かないといけません。まあ、車検に出したと思っていただければ」

 「車検」

 「ほら、まだまだ書かなくちゃいけないでしょ?」と、近藤先生はキーボードを打つように、両手の指をパラパラと動かして見せた。

DAY 17 術後十三日目

「村井さん、退院の日ってどなたか迎えに来られます?」と担当看護師の西岡さんに確認された。

 「いえ、一人で退院します」と元気に答えると、若干引かれたようだったが、「あ、了解です」と彼女はあっさりと言ってくれた。何か事情があると思われたかもしれない。事情は特になくて、私が「一人で入院、一人で退院」にこだわっている、ちょっと変な人というだけのことだ。

 午後に近藤先生がやってきて、「村井さん、もうそろそろ退院ですけど…」と言うので、「一人で退院します」と先手を打つと、「あ、一人でちゃっちゃと退院します?」と、何か愉快な動物でも見てしまったかのように、うれしそうに言った。この日以降、近藤先生は「退院」という単語の前に「ちゃっちゃと」をつけるようになった。

 そろそろ退院である。計画していたとおり、一階の宅配業者の出張オフィスから大きな段ボールをもらってきて、荷物を詰めはじめることにした。退院前に、病室にあふれてきた書籍や雑誌などをすべて自宅に送ってしまう計画だった。そうすれば、退院当日は、ほぼ手ぶらでスキップしながら病院を後に出来る。そして、駅前の王将で餃子を食べて帰ろうと並々ならぬ決意を固めた。

DAY 18 術後十四日目

 経過が順調なため、看護師さんもあまり病室に来なくなった。検査も殆どないので、朝イチからヒマである。

 深刻な病状の患者さんも少なくない心臓血管外科病棟であっても、週末は少しだけリラックスした空気が流れるように思えた。デイルームのテレビに映る番組も、ニュースではなく吉本新喜劇だったりする。お見舞いに来る人がどっと増えて、デイルームから控えめな笑い声が聞こえてくる。

 午前中に、浅井先生と近藤先生が病室にやってきた。浅井先生は私に「君はこれから、もっと大胆に生きていくんだよ」と言っていた。「今まで、とても苦しくて、たくさん我慢してきたのだと思う。でも、もう大丈夫。これからは仕事も、遊びも、おおいにがんばって、積極的に生きていって欲しい」。近藤先生は、ウンウンと頷きながら、なんとなく笑顔だった。

 私はこの時はじめて、ああ、今まで辛くて出来なかったあれもこれも、もしかしたら病気が原因だったのかもしれないと納得でき、同時に「早く気づけよ」と、自分に激しく腹が立ったのだった。

 午後、デイルームまでジュースを買いに行く途中、回診中の浅井先生と再びすれ違った。先生は、「村井理子君! 何か質問とか心配ごとはない? 退院しても大丈夫? しっかり暮らしていくんだよ! しっかりと生きていくんだよ!」と再び言ってくれた。後ろで近藤先生が「フフフ」と笑っていた。

DAY 19 術後十五日目

 リハビリルームで白髪の女性に再会する。彼女は私から少し遠く離れたベンチで血圧を測っていたのだが、私を見つけると笑顔で手を振った。私も笑顔で手を振り返した。「私、明日退院よ!」と彼女はうれしそうに言った。「おめでとうございます! よかったですね!」と私は返した。

 「また会えるかしら」

 「会えますよ。心臓リハビリには、しばらく通われるんですよね?」

 「うん、そうするわ。家にいても寝てしまうだけやから、退院してもここに来て、ちゃんとリハビリしようって思う」

 「そうですか。じゃあ、またここでお話できますね」

 「ねえ、あなた、出身は関西じゃないわよね?」

 「静岡です」

 「やっぱり! 私は愛媛!」

 「そうだったんですね。ウフフ」

 「あなたも元気でいてね。私もがんばるから」

 「はい。がんばります。おかあさんも元気でいて下さい」

 私は彼女に手を振りながらリハビリルームを後にした。彼女との再会は、未だ叶っていない。

DAY 20 退院

 朝早くから荷物を段ボールに詰め込んで、病院一階の宅配業者の出張オフィスにせっせと運んだ。病室の中はほぼ空の状態で、衣類とiPad、ケータイ、財布ぐらいしか残さなかった。これで、バッグひとつで退院が可能だ。長く滞在した病室を去るのは名残惜しかった。なんなら、もう一週間ぐらいここにいてもいいなと思いつつ、部屋の写真を一枚だけ撮影した。

 
 最後の朝食が終わると、浅井先生と近藤先生が病室にやってきた。浅井先生は、「ついに退院だね、おめでとう。元気で暮らしていくんだよ。もう大丈夫だから」と言ってくれた。そして去り際に、思い出したように言った。

 「ああ、そういえば昨日、やっと読み終えたよ、カズオ・イシグロの『The Remains of the Day』。素晴らしい一冊だった。君も、お仕事がんばってね」 白衣を翻して去って行く浅井先生の後ろ姿を見ながら、「仕事がんばる!」と決意を固める単純な私なのであった。

 少ししてから、近藤先生が一人で病室に戻ってきてくれた。

 「それでは村井さん、退院です」

 「先生、何から何まで本当にお世話になりました。ありがとうございました」

 「新刊のチェックしておきますんで。ネットで確認しておきますから!」

 「アハハハ」

 「それじゃ!」 いつものように、片手を上げて、近藤先生は去って行った。

 担当看護師の西岡さんが、最後のスケジュールを手に病室にやってきた。A4の紙に印刷されたスケジュール欄は空白だったけれど、その下に手書きで「退院おめでとうございます!」と大きく書かれていた。

 退院に必要なすべての書類が整い、私はトートバッグひとつで退院の時を迎えた。私服に着替え、静かな病棟内を歩いてスタッフステーションの前を通ると、西岡さんが手を洗っていた。きっと、私が歩いてやってくるのを待ってくれていたのだと思う。

 「ありがとうございました。帰ります」と言うと、西岡さんはにっこりと笑って、「おめでとうございます。お元気で!」と言ってくれた。私は一礼すると、心臓血管外科病棟の自動ドアを抜け、エレベーターに乗り込み、病棟を出た。

 

 通い詰めたコンビニとタリーズコーヒーの前を通って、病院の外に出る。バスのロータリーは混雑していた。入院した日とまるで変わらない、忙しい病院の日常がそこにあった。病院建物を、もう一度振り返って見る。はじめて来た日と同じだ。

 
 変わったのは、私だ。病院二階の心臓血管外科外来までの階段を昇るのに苦労していた私が、息切れすることもなく、こうやって一人で退院することができた。年のはじめに突然入院し、手術が決まり、そして終わるまで、約90日の私の闘病が、ついに最後を迎えた瞬間だった。

 私は沸き上がってくる笑いを堪えつつ、一枚だけ病院の写真を撮影して、足取りも軽くタクシーに乗り込んだ。

(心臓へたっちゃってますけど大丈夫編 おわり)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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