この夏、メッケル憩室炎症という奇病で短期の入院をした。そのさい、場合によっては手術が必要になるかもしれないと、いろいろ検査をうけた。そこに眼の検査がはいっていたのです。
――ああ、白内障ですね。緑内障の気配もあるから、退院したら眼科で見てもらってください。
白内障はともかく、緑内障とあっさりいわれてちょっとあわてた。緑内障ときくと、ただちに失明を考えてしまう。そんな時代おくれの偏見が私にも多少あったのでね。
そこで退院のしばらくのち、インターネットでしらべて、ここならと思えるアイ・クリニックが近くにあるのをみつけた。さっそくでかけて検査してもらうと、緑内障はないけれども、水晶体の濁り(つまり白内障)がすすんでいるので、できるだけ早く手術したほうがいいでしょう、とのこと。放置しておくと失明しかねないのは緑内障だけじゃないですよ、白内障だっておなじなんですから――。
で、その場で2週間後に手術ときまったはいいが、白内障にせよ緑内障にせよ、眼の手術とは具体的にどういうものなのか、まるで見当がつかない。
もちろん私もそうだけれど、私の年代の映画好きなら、眼の手術ときくと、反射的に、ルイス・ブニュエルが若いころ、友人のダリといっしょにつくったシュルレアリスム映画『アンダルシアの犬』を思い浮かべるにちがいない。スクリーン一杯に見ひらいた眼球をとつぜん剃刀がヨコに切り裂くという例のやつね。切り口からどろりと粘液があふれでたりする。じぶんの眼であれをやられるのをじぶんで見ているなんて、おっかなくて想像もしたくないよ。
――そこんとこ、どうなんでしょう?
おそるおそる眼科医にたずねると、いや手術中は強烈な白色光が正面からあたるから、まぶしくてなにも見えませんよ、という答えが即座に戻ってきた。そのしっかりと明るい声をきいて、ひとまず安心した。――のではあるが、その一方で、もうひとつ別の不安が生じた。手術のあと、ほんとに読み書きがいまよりも楽になるのかしら。へたをすると新しい障害をかかえこんでしまうかもしれないぞとか、その手の不安ですね。
――外界の事物が透明な水晶体をとおして網膜に像をむすび、その動きを脳がたえまなく認知しつづける。
ざっといえば、それが「見る」ということらしい。その水晶体レンズが年を経るにつれて濁りをまし、80代にはいると、程度の差こそあれ、100%の人間が白内障を病むことになる。そこで、その濁ったレンズをシリコンかアクリル製の透明な人工レンズに置きかえる。それはいいのだが、ピントを自動的に調整してくれる生の水晶体とちがい、人工のレンズでは焦点が「遠・近・中」のうちのひとつに固定されて、まったく融通がきかない。
たとえばですよ――。
もともと私は視力1.5の遠視なので、読んだり書いたりは度のつよい読書用眼鏡(老眼鏡)にたよってきた。それでもテレビや映画は衰弱した裸眼でもなんとか見ることができた。では、そういう人間はどのレンズをえらべばいいのか。読み書きを重視して「近」をえらべば、テレビや映画どころか、ただの町歩きにも眼鏡(おそらく「中・遠」ふたつの)が必要になるだろう。だとすればあいだをとって「中」は? とうぜん「近」の眼鏡がいるだろうし、おそらくは複数の「遠」も。
こうした単焦点レンズだけでなく、いまは多焦点レンズというものもある。ただし単焦点なら右目と左目あわせて4万円以下ですむが、多焦点は保険外なので80万円以上かかってしまう。そんなもの、ほどなくおさらばするにきまっている年金老人がえらぶわけないじゃないの。
などとあれこれ考えたすえに、ここはやはり読み書き中心の「近」でいくしかないかと、いったんは決心したのです。でも結局は、
――生まれついての遠視人間がふいに強度の近視人間に変身するみたいなものですから、あまり過激な選択は避けたほうがいいかもしれませんよ。
という医師の助言にしたがって、土壇場で「中」をえらぶことになった。あとになって後悔するかもしれないけれども、それはまァ、覚悟の上。まちがっても一生、まちがわなくても一生。しょせん、われわれの人生なんてそういうふうにしかできていないのだから。
そう腹をくくって4日後、予定どおり左目の手術がまずおこなわれた。
待合室で15分おきに5種の点眼(散瞳剤・抗菌剤など)を4回うけたのち、上半身を簡単な上っ張りに着替えて手術室にはいり、リクライニングの椅子に仰向けに坐らされる。いや、そのまえに「トイレをすませておいてください」といわれたんだっけ。私だけでなく、ほかの患者たち(全員が老人)もおなじ指令をうけていたみたい。そりゃそうだ、なんにせよ老人というのは例外なく排尿が不如意なのだから。
かくして点眼による局所麻酔から手術がはじまったのであるが、左目以外は顔一面カバーで覆われ、むきだしのまま固定された左眼にだけつよい光線があたるので、たまに光が弱くなったとき、こちらをのぞく医師の顔や動く腕がチラッと見えるぐらいで、そこでなにが進行しているのか、まぶしい光のカーテンに阻まれて一切わからない。
そこで以下は、手術後にみつけた『「白内障手術」で絶対に後悔しないための本』(藤本雅彦著)という最新の新書によってしるすと、
1.角膜にメスの刃先で2~3ミリの小さな切れ目をつくり、挿入した管の先端にとりつけた超音波チップ(超音波を発振する部品)で水晶体をこまかく砕いて乳化し、それを吸いとる。
2.砕いた水晶体のあった空間にあらためて粘り気のある液体を注入し、折りたたんだ人工レンズを挿入する。そのまま静かに開いたレンズの位置や眼圧を調節し、きずぐちが閉じていることを確認する。
実際はもっと繊細な作業がいくつも組み合わされているようだが、いまの白内障手術は、おおまかにいって、この2段階(超音波乳化吸引術+眼内レンズ挿入術)からなるといっていいらしい。
一方、吸引され挿入される私の側はといえば、開始直後に眼のはしがチクッと痛んだような気がしたことと、たえず眼のまえで明滅している3つの錠剤状のものの正体(光源?)がつかめず、なんとなく不安な気分をいだかされたまま、15分ほどであっけなく終わってしまった。
そのあと左目に大きな眼帯をテープで貼られ、待合室にもどって看護師さんに術後の生活指南をうけ、きょうの手術料金(1万6900円)を支払い、タクシーを呼んでもらって帰宅した。風呂にはいったり酒を飲んだりしなければ、なにをしてもいいというので、読みかけの高畑勲『漫画映画の志』を読みつぎ、テレビを見、調子にのってパソコンでこの原稿を書きはじめたのが10月7日。それから3週間後の28日に、のこった右目の手術ということになるはず。なので、そのあいだにちょっと横道して――。
*
予期せぬ手術につられて思いだしたが、じつはひと昔まえ、まだ働きざかりだったころの私には、
――もし目が見えなくなったらどうしよう。それともうひとつ、足がよわって歩けなくなったら。目と足。そのふたつを奪われたら、おれなんかもう、どう生きていけばいいかもわからんよ。
けっこう本気でそう考えていた一時期があるのです。『歩く書物』とか『歩くひとりもの』といった本をだすような人間で、歩いて人と会うのが仕事のすべてみたいなものだったし、本を読むことと映画を見ることが幼いころからの最大のたのしみだったのでね。
でも、あえていえば目が見えなくなるほうがこわかったかな。だって、いい齢になって急に視力を失ったら、ちょっとした散歩すら気ままにできなくなるじゃないですか。
そんなしだいで、目が見えない人たちが日々、じっさいにどう暮らしているのか、いつしかそのことに関心をもつようになった。直接のきっかけは、たぶん、シンガーソングライターの長谷川きよしが『話の特集』に連載していたテレビ評に接したこと。なにしろかれはそこで、じぶんが全盲であることにはふれず、「きのう見たドラマでさ」などと平然と発言していたのだから。
――ふうん、目が見えなくてもテレビを見ることはできるのか。でもそれは、目が見える私の「見る」とはどこかでちがうはずだ。だとしたらどうちがうのだろう。
それが知りたくて、池袋の小ホールに盲目の青年たちが演じる芝居を見にいったりしているうちに、たまたま高杉一郎の『盲目の詩人エロシェンコ』という評伝と出会った。
ワシリー・エロシェンコとは、ロシア革命後に祖国をはなれ、アジア各地をバラライカを背に放浪していたエスペランティストの詩人で、日本では新宿中村屋の女主人、相馬黒光の手厚い庇護をうけていた。そのエロシェンコが1921年に日本を追われて北京に逃れ、魯迅の家に寄宿して、北京大学でエスペラント語をおしえていたことがある。
ここでいそいでいいわけしておくと、たしかに所持していたはずの高杉氏の著書が、いまさがすと、なぜかどこにも見あたらんのですよ。やむなく以下は、おもにこの本にたよって書いた「見えないものを見る」というじぶんのエッセイを再利用させてもらうことにした。1996年、岩波書店の『図書』に掲載された文章で、ちょうど私が「もし目が見えなくなったら」とあれこれ考えていたころに書いたものです。
それによると、エロシェンコは滞日中に小さな劇団に参加していたほどの演劇好きだったので、中国の新しい演劇運動にもつよい関心をもち、学生たちが演じる舞台を熱心に見てまわった。しかし、かれらの舞台は盲目の詩人をひどく失望させた。あるとき、北京大学の実験劇社が演じるトルストイの『闇の力』を見たあと、ついに我慢しきれなくなったかれは「中国にはいい演劇がない」と、はげしい批判の文章を書く。
――新しい演劇をこころざす者までが旧劇の悪習になじんで、男の学生が女に扮して平然としている。精神力を欠いた白痴。真偽の区別もつかない退化した子ども。演劇がなく音楽のない国はさびしい。あたかも砂漠にいるがごとくである(要約)――。
この批評「北京大学の学生演劇と燕京女学校の学生演劇を見て」を魯迅が翻訳して『晨報副刊』という雑誌にのせた。学生たちは頭にきたらしい。さっそくリーダー格の青年が「不敢盲従」と題する反駁文を発表したが、それはエロシェンコの批判に正面から応じるものではなく、「目も見えないやつになにがわかるか」といったあてこすりが随所にちりばめられていたので、こんどは魯迅が怒った。
「私は敢えて、これらのひとびとにツバを吐きかける。古い道徳と、あたらしい不道徳のなかに成長し、新芸術の名をかりて、その本来の古い不道徳を発揮する青年たちの顔にツバを吐きかける」
このはげしい応酬にはじつは長く痛切なつづきがあるのだが、いまは略します。ともかく問題が問題なので、当時の私はなによりも、ここにエロシェンコがしるしていた、
大学生諸君が、良くない劇でも良くしてしまうことができる種々の方法を知らないらしいことです。劇場の装置やライトの類についてはしばらくおき、なかで一番大切なことといえば、劇に劇らしい情緒をもたせることであります。
(「北京大学の学生演劇と燕京女学校の学生演劇を見て」)
という一節、なかんずく「劇場の装置やライトの類についてはしばらくおき」という一行に注意をひかれた。あの怒れる学生もおそらくそうだったんじゃないかな。私同様、かれもこの一行を「それでも私の見えない目には舞台が見えていた」と暗にのべたものと解釈し、ただし私とちがって、それを盲目詩人のみえすいたハッタリとみなして、文中の「盲」「観」「看」といった文字にことごとくカッコをつけ、かれの批判を意味のないものにしてしまおうとしたのだと思う。
では、あのときエロシェンコの「見えない目」には本当に学生たちの舞台が見えていたのだろうか。
さきにのべたごとく、もし「外界の事物が水晶体レンズをとおして網膜に像をむすび、その動きを脳が認知しつづける」ことだけが「見る」の意味なのだとすれば、エロシェンコの目にかれらの舞台は見えていなかった。それは事実だろう。しかし、もし「見る」の意味をさらに拡げて考えてみたらどうか。
……俳優たちが動きながら発する声、さまざまな音とその反響、開幕と同時に舞台から流れてくるつめたい風、かすかな匂い、動きの気配、人ごみの熱気など、それらすべてのものがひきがねとなって、目の見えない人びとのうちに特定の聴覚的空間、嗅覚的空間がかたちづくられ、それが日常の、よくきたえられた触覚や運動感覚にささえられて、われわれ晴眼者のもつ視覚的空間にかなり近い、あるいは、それに優に匹敵する(ただし通常の視覚的空間とは別種の)密度をそなえたものになりえていたとしたらどうだろう。そこにもまた「見る」としかいいようのない経験が成立していることはたしかなように私にはおもえるのだが。
私たち(晴眼者)が見ている空間を見る力はエロシェンコのような人たち(全盲の人)にはない。その一方で、かれらが全身で感じている空間をいきいきと感じとる力は私たちにはない。とすれば、もし仮に、あのとき北京の学生たちが、じぶんたちとは異質のこうした力(ほかに適切なことばがないので、やむなく「見る」とよんでいる)への想像力をはたらかせることができていたとしたらどうか。
そしてもうひとつ、もし仮にエロシェンコがロシアや日本での体験をものさしに、北京の学生たちを近代化におくれをとった「白痴」とか「退化した子ども」と、頭からきめつけてしまうような傲慢さをじぶんでコントロールできていたとしたら――。
魯迅もふくめて、おそらく、あのような悲惨な応酬は避けられていただろう。でも1920年代の困難な時代を切羽つまって生きていたかれらに、あとからきた私たちがそこまでの寛容をもとめるのはむずかしい。だいいち、頭ではあれこれ考えても、私たちがいま生きている社会の肩幅だって、そんなえらそうなことを堂々といえるまでには広くなっていないのだから。
――と、長谷川きよしのテレビ評にはじまった疑問に、私はそんなあたりでいちおうの結着をつけ、あとはさしたる成熟もせず、気がつくと、いつのまにか、どろりと濁った水晶体とよろよろ足の老人になりおおせていたのです。
*
ただし今回の手術では、最初にのべたような漠然たる不安こそあれ、以前、「もし目がつぶれたらどうしよう」と心配していたわりには、とくにつよいおそれを感じることはなかった。
ひとつには白内障手術の経験者が身近に何人もいて、眼の手術といっても、いまはもうさしたる危険はないということがわかってきたせいがある。なにしろ、前出の『「白内障手術」で絶対に後悔しないための本』によれば、「白内障手術の技術が飛躍的に進歩した」結果、1992年には30万弱しかなかった手術件数が、いまは140万にまでふえているというのですから。
この「飛躍的な進歩」とは、いうまでもなく、さきほどの「超音波乳化吸引術+眼内レンズ挿入術」を意味している。
もっと具体的にいうと、1949年にイギリスで生まれた眼内レンズが、ようやく日本でも使われるようになったのが1980年代――。
それ以前は濁った水晶体をまるごと摘出し、その代わりに「牛乳瓶の底のような」「分厚い凸レンズの眼鏡」をかける必要があったらしい。じっさい、1972年に左目を手術した「埴谷(雄高)さんの眼鏡の左には、度の強い凸型のレンズが入っていた」と、吉行淳之介が「目玉」という短篇で証言している。
その後、1977年に、白内障をこじらせた吉行が人工水晶体のうわさを耳にし、行きつけの眼鏡屋の主人にきくと、「やはり、まだのようですね。この前、手術を受けたかたのことを聞きましたが、失明したそうです」という答えがかえってきた。しかもレンズだけではない。たとえば「麻酔にしても、鉤状に曲った大きな針を、下瞼のあたりに射して深く入れる。目玉と注射という取り合せは、考えただけでかなりこたえる(原文では傍点)」と吉行はしるしている。
そうしたおびえをいだきながらも、ついに右目が見えなくなった吉行が、決心して「新しい手術」をうけたのが1984年――。
手術の日、手術室から病室に戻ってくると、大きく腫れて垂れ下っていた右瞼が、三時間ほど経って開きはじめた。(略)
右目を閉じて左だけで見たり、その反対のことをしてみる。手術した右目の視野は、すこし青白い。左目のほうで見ると、あたたかい淡い黄色で、人間の眼をとおした景色のような気がする。
プラスチック製の水晶体を通した視界は、無機質な感じになるものだろうか。そんなことを考えたりしたが、長年使ってきた左の目玉は汚れているので、淡い黄色の視界になるという。
手術は成功して、私の右目は「光覚」から、一挙に視力一・〇まで戻った。
丁度、還暦になった年の末のことである。
この記述によると、当時の白内障手術はまだ医師たちの手で、メスや鈎状の針などの器具を使っておこなわれ、回復までにしばらく入院が必要だったらしいことがわかる。
そして、それから10年ほどたった1992年に、アメリカで開発された超音波乳化吸引術が、人工レンズとともに公的保険の対象として認可され、2008年には手術の核心部分(水晶体の粉砕から人工レンズの取りつけまで)を超音波のレーザー照射によって処理できるようになった。
したがって吉行淳之介は、人工レンズ以後、超音波以前のほんの短い過渡期に、あわただしく手術をうけたことになる。
そして埴谷雄高の手術はそれ以前。ただし、どうも失敗したらしく、術後もはげしい痛みにみまわれつづけ、のちに吉行の体験談に刺激されて新手法による再手術(1987年)をこころみ、ようやくそれに成功した。その一方で、70年代に埴谷と同様の旧式手術をうけたフランス文学者の新庄嘉章は、ざつな処置によって右目の視力を失ったという(ただし大岡昇平が吉行に先んじて、76年と78年――つまり埴谷の最初の手術の数年後に左右2度の手術に成功している。今回はしらべる余裕がなかったが、吉行が人工水晶体の噂をきいたのが77年だというから、もしかしたら、もう新式レンズになっていたのかもしれない)。
それから早くも40年ほどの時間がたち、その間に器具や技術も大幅に洗練されて、いまや、とくに痛みを感じたり、まぶたが腫れたりすることもなく、いわんや入院の必要すらなく、私でいえば、わずか15分の手術が終わった5時間後には自宅でこの原稿を書きはじめていた。もちろんつきそいも不要。健保のおかげで費用もほとんどかからなかったしね。
しかし私より年長の、吉行や埴谷や大岡の世代の人びとにとっての白内障は、結核とまではいわずとも、ときに失明のおそれさえある危険な病だったのである。とすれば、いまは忘れているけれども、私がその危険をなかばわがことのように感じていた可能性だって、すくなからずある。いまそこにある危機――「もし目が見えなくなったらどうしよう」などと私が心配したのも、いくぶんかは、そのせいがあったのではないだろうか。
――と、ここまで書いたのが一昨日の10月26日で、その翌々日、予定されていた右目の手術をぶじにすませた。もちろんそれはめでたいのですよ。ただ困ったことがひとつ。このさき私は原稿のつづきをどうやって書けばいいのだろうか。
前回は左目の水晶体を人工レンズに入れかえても、右目はもとのままだったから、それまでの眼鏡でさしたる不具合もなく読み書きできた。だけど今回は右目もだからね。もはや古い眼鏡にたよることはできない。しかも新しい単焦点レンズに老いた視神経システムが慣れて、視力が安定するまでにはかなりの時間を要するらしい。その上で眼鏡用の処方箋をもらい、発注した新しい眼鏡ができてくるまで、短くても1か月はかかりそう。
しかたない、「そのあいだは読書用の安眼鏡でいいかしら?」と医師に相談すると、「そうしてください。百均でもかまいませんよ」とのこと。ところが近所の百円ショップは規模が小さくて眼鏡をおいてない。それでもやっと駅前の眼鏡店で私が必要とする視度の読書用眼鏡をみつけることができた。いまはその3400円の安眼鏡で書きはじめたところ。
それにしても、こんどじぶんで白内障手術を体験してみて、はじめてわかった。くりかえしていうけど埴谷雄高も大岡昇平も吉行淳之介も、われわれの先人たちはなんとも大変だったのだね。おなじく白内障といっても、私の場合とは話がまるでちがう。なにしろかれらは、失明のおそれや術中術後の苦痛や入院を強いられるだけでなく、百均も手軽で安価な老眼鏡もない時代に生きていたのだから。いまの私でさえジタバタしてるのに、手術のあと、あの人たちはいったいどうやって原稿を書いていたのだろう。
藤本雅彦『「白内障手術」で絶対に後悔しないための本』幻冬舎MC、2019年
高杉一郎『盲目の詩人エロシェンコ』新潮社「一時間文庫」、1956年
津野海太郎「見えないものを見る」『図書』1996年3月号
エロシェンコ「北京大学の学生演劇と燕京女学校の学生演劇を見て」(『ワシリイ・エロシェンコ作品集2』高杉一郎編、みすず書房、1974年)
吉行淳之介『目玉』新潮社、1989年→新潮文庫、1993年
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津野海太郎
つのかいたろう 1938年福岡生まれ。評論家。早稲田大学卒業後、劇団「黒テント」演出、晶文社取締役、『季刊・本とコンピュータ』総合編集長、和光大学教授・図書館長などを歴任。著書に『滑稽な巨人 坪内逍遙の夢』(新田次郎文学賞)、『ジェローム・ロビンスが死んだ』(芸術選奨文部科学大臣賞)、『花森安治伝』、『百歳までの読書術』、『読書と日本人』ほか。
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はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
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手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 津野海太郎
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つのかいたろう 1938年福岡生まれ。評論家。早稲田大学卒業後、劇団「黒テント」演出、晶文社取締役、『季刊・本とコンピュータ』総合編集長、和光大学教授・図書館長などを歴任。著書に『滑稽な巨人 坪内逍遙の夢』(新田次郎文学賞)、『ジェローム・ロビンスが死んだ』(芸術選奨文部科学大臣賞)、『花森安治伝』、『百歳までの読書術』、『読書と日本人』ほか。
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