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最後の読書

2020年3月30日 最後の読書

30 落ち着かない日々

著者: 津野海太郎

考える人から生まれた本『最後の読書』が、読売文学賞〔随筆・紀行賞〕を受賞しました。

 この年始めに、ほかの人はどうあれ、私にとっては依然として若いままのふたりの友人―坪内祐三の急死と黒川創の「大佛次郎賞」受賞というできごとが、たてつづけに生じた。おまけに私の「読売文学賞」受賞までがかさなり、なにかと落ち着かない日々がつづくことになった。それだけにここで書くかどうか迷ったのだが、まったく触れずにいるのもわざとらしい。そこで思いきって、この落ち着かない日々のことを日記ふうに書いておくことにした。日記にあらず。「ふう」です。その点は、まえもっておことわりしておきます。

1月22日(水)

 「とつぜんですけど、坪内さんがなくなったそうです」
 しばらくまえに毎日新聞出版に移った編集者・宮里潤氏からそう電話のあったのが9日まえの1月13日の夜―。
 「坪内さんって、おいおい、もしかして祐三?」
 「ええ。きのう急に倒れて病院に運び込まれたらしいんですがね…」
 宮里さんは私がやめたあとの晶文社に入社、のちに本の雑誌社に移り、そこで私の『百歳までの読書術』という本を担当してくれた。それですぐ教えてくれたのだろうが、そう聞いても、すぐには信じられない。だって、かれはたしか私の20歳下だぜ。まだ60代になったばかりじゃないの。
 しかも茫然とさせられた理由はそれだけではなかった。
 昨秋、ことし2月刊行予定の大河久典編『おーい六さん 中川六平遺稿追悼集』という本(その後、2月20日に刊行)に短い文章を寄せた。そのゲラが年末に届き、そこに私の文章のひとつ前にくる坪内さんの追悼文が、おまけのように付されていたのだ。六平さんは1997年に晶文社からでた坪内さんの最初の本『ストリートワイズ』の編集者で、大河氏はそのしばらくのちに晶文社に入社し、聞くところでは、宮里さんと入れちがいに退社して、筑摩書房に移ったらしい。すると六平さんの後輩か。なにしろ私は、じぶんが現場をはなれたあとの晶文社のことは、ほとんどなにも知らんのですよ。
 坪内さんの追悼文をざっと紹介させてもらうと、それまで鶴見俊輔になんとなく批判的だった山口昌男と、かれに師事する坪内さんの2人が、鶴見に近しい六平さんとのつきあいをつうじて、気がつくと鶴見が好きになっていたという内容で、山口氏が2013年3月になくなり、その葬儀で並んで骨を拾った六平の骨を、わずか半年後にじぶんひとりで拾うことになるとは、という嘆きでしめくくられる。

『おーい六さん 中川六平遺稿追悼集』大河久典編集・発行

 このゲラを年をこして返送した直後に、こんどは当の坪内祐三逝去(心不全)の知らせに接したのだから、もはや茫然とするしかなかったのです。
 そういえば私が坪内さんと知りあったのも中川六平をつうじてだったな。鶴見さんの語りによる自伝『期待と回想』をだすため、『朝日ジャーナル』の客員編集者だった六平さんを晶文社に引っぱってきたのが1996年。かれと話していると、うんざりするほどの頻度で坪内祐三の名がでてきた。そんなに好きなら、じぶんでかれの本をつくってみたら―。おそらくそんななりゆきで、はじめて坪内さんと会うことになったのだろう。
 そして最後に会ったのが、こちらはハッキリしている。昨2019年の春から初夏にかけて、世田谷美術館で、故小野二郎の活動を中心に「ある編集者のユートピア」という大きな展覧会がひらかれた。モリス研究者の小野は1960年に発足した晶文社の創業編集者でもあったから、かれにつづく2人目の編集者だった私も会期中に呼ばれて話をした。
 それが6月1日のこと。マイクを手に半円形をした小ぶりな階段席を見ると、その上方に、高橋悠治・八巻美恵夫妻とならんで坪内祐三・佐久間文子夫妻が坐り、ニヤニヤとこちらを見ていた。どちらのご夫婦も世田谷在住で三軒茶屋の居酒屋仲間(たぶん)。高橋・八巻組とは、80年代の「水牛楽団・水牛通信」以来の仲で、佐久間さんには彼女の朝日新聞文化部時代に、しばしばお世話になった。
 ―おやおや、みなさんおそろいで、私のボケぶりを冷やかしにきたのかね。
 でもね、こっちだってそれなりの準備はしてあるのよ。老来とみに固有名詞を忘れ、普通名詞を忘れ、話のすじみちまで忘れて、話す途中で立ち往生する場面が増えてきた。そこで近年は、たまに講演を頼まれると、話し相手をひとり用意していただき、ボケ老人の脳に、ときどきカツを入れてもらうようにしている。で、このときも世田谷美術館の矢野進氏に話し相手をお願いし、なんとかぶじに話し終えることができたのだが―。
 講演のあと、恒例の質疑応答の時間になって、まっさきに手を上げたのが坪内祐三である。なにしろ名だたるゴシップ好きだからね、このときも晶文社がらみの人間関係にかかわる噂の真偽を問うといった、こちらには答えようのない微妙な質問だった。
 「まァ話してもいいけど、やめておくよ。あなたに話すとわるい噂が拡散しちゃいそうだから」
 そうごまかし、坪内さんも深追いせず、そのまま笑って坐ってくれた。あとは渋谷駅のそばの焼鳥屋におおぜいで行き、がやがや飲み食いして、それが坪内さんとの最後の出会いということになった。
 坪内さんの葬儀は1月23日(つまり明日)の午前9時から、京王新線の幡ヶ谷駅にちかい代々幡斎場でおこなわれる。老人がこの時間に、浦和から新宿経由の幡ヶ谷まで電車で行くのはつらい。そこで葬儀前日(今日)の夕刻、おなじ斎場でひらかれる通夜の席にでかけることにした。
 改札をでて、いっしょに電車を降りた喪服の男たちのあとをついて斎場に向かう。けっこう遠い。おまけに斎場に着いても、すぐには場内に入れてもらえない。受付で署名し、また外にだされると、すでに百人以上もいたろうか、コンクリートの外廊に焼香する人びとの長い行列ができていて、その最後尾まで弱った脚で歩いていかねばならない。
 ―まいったな。寒いしさ、知ってるやつがひとりもいないよ。
 それでも、なんとか宮里さんの顔をみつけ、目で合図して列の最後につく。なのに、いつまでたっても開場の気配がない。やむなく冷たいコンクリートの上で立ったまま待ちつづけるうちに、頭の芯がなんだか白っぽく、脚の感覚までが頼りなくなってきた。以前どこかで読んだ竹内好の葬儀の模様が、半ボケ状態の私の頭をチラッとよぎる。竹内と同年代の中国文学者・増田渉が弔辞を読んでいて心臓発作で倒れ、親友のあとを追うように死んだ。なぜか見たこともないその光景が見えたような気がして、こりゃやばいぞ、と思った。
 じつは竹内の死の前年、もうひとりの親友だった武田泰淳が死に、その葬儀委員長として弔辞を読んだ竹内が、そのすぐあとに食道癌を宣告されている。この武田→竹内→増田とつづく親友たちの死が、山口→中川→坪内という友人たちの死のリレーにかさなり、「ここでおれが倒れたら、なおさら妙な話になってしまうぞ」と、いささかあわてたらしいや。
 けっきょく、「ちょっと気分がわるいから」と宮里さんに告げ、来た道をのろのろ戻って、駅前のコーヒー・ショップで30分ほど休み、そのまま帰ってきてしまった。タクシーじゃないですよ。もちろん電車で。坪内さんも佐久間さんも、ごめんな。

坪内祐三『ストリートワイズ』晶文社

1月29日(水)

 今年はじめに黒川創が『鶴見俊輔伝』で朝日新聞社の「大佛次郎賞」を受けることになり、その授賞式が今日の午後、帝国ホテルでおこなわれた。
 年齢が年齢だし、よほどの事情がないかぎり、冠婚葬祭のたぐいは遠慮させてもらうことにしている。でもこんどだけは、なんのかんのいわずに出席するぞ。そう決めていたら、ふいに坪内祐三がいなくなり、その葬儀が―まいったね、黒川創の授賞式のたった一週間まえかよ。
 坪内さんは61歳。黒川さんが58歳―。
 もういちどいえば、おふたりとも私にとっては古くからの「若い友人」である。その「むねん」と「めでたい」がかさなって、おまけに大佛賞の3週間後にはおなじ帝国ホテルでの私の「読売文学賞」授賞式が待っている。あれこれ考え、うまく気持ちのバランスがとれない。そのせいもあって坪内さんの通夜で、あやうく倒れそうになったのかもしれない。
 ―すると黒川さんとの関係は?
 ええ、だからこちらも古いのですよ。たしか1969年か70年、大きなテントに芝居(佐藤信作・演出の『阿部定の犬』)を仕込んで全国を旅してまわろうと、その準備のために何日か京都に滞在した。「出雲の阿国」が京都にのぼって最初に踊ったのが下鴨の河原と地元の人からきいていたので、どうせなら、こっちもおなじ場所でと考えてね。
 いまはもうないけれども、そのころは同志社大学のそばに「ほんやら洞」という「ベ平連」系の喫茶店があり、そこを連絡所がわりに使わせてもらうことにした。で、ある午後、そこで話していたら、ひとりの少年が店の奥に立って、やけに反抗的な目つきでこちらを見ている。それで私がちょっと怪訝な顔をしたのだろう。「かれね、北沢恒彦さんの息子」と一緒にいた人がおしえてくれた。
 北沢さんは、そのときは名前も知らなかったが、京都市の中小企業指導所に勤務する一方、京都における「思想の科学研究会」や「ベ平連」の活動をささえる中心人物でもあった。のちに晶文社で『自分の町で生きるには』『五条坂陶工物語』(藤平長一との共著)という二冊の本をださせてもらうことになる。作家・秦恒平の兄ということは、のちに泰さんにきいて知った。その北沢さんの息子が先の少年、すなわち今日(こんにち)の黒川創で、当時はかれもやっと十代になるやならずだったんじゃないかな。
 ただし、じっさいに黒川さんと話すようになったのは、かれが同志社大をでて上京し、かなりの時間がたったあとのことだった。黒川さんの最初の本『〈竜童組〉創世記』が亜紀書房からでたのが1985年だから、おそらくそのしばらくまえ。つぎの宇崎竜童との共著『電話で75000秒』はその3年後に晶文社からでた。―おや、いまウィキペディアをのぞいて思いだしたぞ。ちくま文庫版『〈竜童組〉創世記』の解説は私が書いていたのですな。すっかり忘れてましたよ。

黒川創『〈竜童組〉創世記』ちくま文庫

 と遠い昔の回想はここまで。いそいで現在にもどると―。
 黒川さんの『鶴見俊輔伝』と私の『最後の読書』は、おなじ2017年に、前者は『新潮』、後者は Web「考える人」で連載がはじまり、翌18年の11月に、おなじ新潮社からならんで刊行された。
 さらにいえば、私の連載はある小冊子にうけた衝撃からはじまっている。その小冊子、すなわち鶴見俊輔の『もうろく帖』は、黒川さんが家族(妻と妹)とともにいとなむ極小出版社「SURE」から刊行されたものだった。黒川さんと私、そのふたりの本がおなじ時期に、それぞれ、まったく予期していなかった賞をうけることになった。「こんどだけは出席するか」と私が決めたのには、そうした事情もあったのです。
 それにしても、すこしおくれて会場の大広間に着いて、あっけにとられた。最近の大佛次郎賞の受賞式は、ずいぶんと大がかりなものになっているのですな。
 いまから三十年まえ、とまたしても昔話になるが、1990年に宮下志朗氏の『本の都市リヨン』がおなじ大佛次郎賞をうけた。その授賞式が、当時は有楽町の日劇のそばにあった朝日新聞社の旧社屋―たしかその7階か8階の「レストラン・アラスカ」であり、私も発行元の晶文社の一員として出席した。
 でも、いまにくらべると出席者はきわめて少なかったな。そうねえ、せいぜい7、80人ぐらい? 最初に選考委員を代表して丸谷才一さんが挨拶をした。ところが後方で、グラスを手にした中年男たちの歓談が絶えず、業を煮やした丸谷さんがとつぜん話すのをやめ、「そこの連中、でていけ!」とどなった。大佛次郎賞といっても、当時はまだ、そんなていどのラフなものだったのです。
 しかし、いまはちがう。大佛次郎賞や論壇賞だけでなく、朝日賞、朝日スポーツ賞など、いくつかの賞の合同授賞式というせいもあって、歌舞伎劇場みたいな舞台に大きな金屏風、400人ほどの客席の最前列に受賞者夫妻と選考委員が坐り、紹介があると立ち上がって満場の客に一礼する。7人の受賞者が順々に舞台に上がって賞をうけると、そのたびにスターウォーズみたいな音楽が鳴ったりとかね。なんというか、どこか「紅白歌合戦」のような感じでありましたよ。
 いうまでもなく私には昔のやり方のほうが肌に合う。でも、せっかく来たからにはと、このところ絶えていた社交をささやかに楽しませてもらった。久しく会うことのなかった、黒川さん一家にしたしい旧知のフランス文学者・海老坂武さんとも立ち話ができたしね。
 1993年に私が『歩くひとりもの』という本をだしたとき、その7年まえに『シングル・ライフ』という本をだした4歳上の海老坂さんと某所で対談し、氏のきびしい独身論に私の軟弱な独身論が噛み合わず、しらけた気分がただよった。とうぜん海老坂さんの本はよく売れ、私の本はさして売れなかった。そしてしばらくのちに私は結婚し、海老坂さんはいまも結婚しないまま。あのあと海老坂さんと顔を合わせるのは、もしかしたら、これがはじめてなのではあるまいか。生き方のちがう、でも敬すべき先輩という気持ちは30年たっても消えていない。東大野球部の伝説的な名遊撃手で、いまも朝起きるとバリバリ腹筋をきたえ、フランス日常料理の達人でもある。そんな快老人に私などがかなうわけないじゃないの。
 ふと横を見ると、亡き北沢恒彦氏の葬儀のさいにつくったという礼服をピシッと着た黒川さんが、かれのお母さんの着物を身にまとった瀧口夕美さんと並んで立っていた。あたりを幼い娘が駆けまわっている。かれらがいとなむ「編集グループ SURE」の活動は、この先もしばらくつづいていくだろう。おそらくはかなりの持ち出しでね。そんな時期に、いい賞をうけてよかった。心底、そう思いましたよ。

2月1日(土)

 今年のはじめ、読売新聞の文化部から電話がきて、私の『最後の読書』が本年度の読売文学賞(随筆・紀行部門)で受賞と決まったと告げられた。
 ―あれ、花森さんとおなじ賞、おなじ部門じゃないの。
 とっさにそう思った。花森さんとは花森安治。大日本帝国敗戦の3年後、1948年に『美しい暮らしの手帖』(のち『暮らしの手帖』)という型やぶりのグラビア雑誌を創刊して、それを発行部数百万をこえる大雑誌にそだてあげ、1978年に没するまで、まるまる30年間を同誌の独裁的な編集長として活躍しつづけた人物である。
 私は子どものころから同誌にしたしんで育ったので、この父親の世代にあたるスーパー編集者の伝記にとりくみ、数年まえ、やはり新潮社から刊行することができた。
 そのさいにしらべて知ったのだが、重度の心筋梗塞であやうく死にかけた花森が、1971年に、じぶんの雑誌に書いた文章から「これだけは」と思うものを厳選し、『一銭五厘の旗』という17年ぶりの自著にまとめた。そして、その本が翌72年、井伏鱒二の『早稲田の森』とともに第23回読売文学賞(随筆・紀行部門)をうける。「この受賞を花森は手放しでよろこんだ」と、私はその『花森安治伝―日本の暮しをかえた男』にしるしている。

 授賞式にも、その後、九段のグランドパレスでひらかれた祝賀会にも、ネクタイはしめず、ふだんどおりのマクレガーの白いジャンパーで出席し、佐野繁次郎、藤山愛一郎、沢村貞子、池島信平の祝辞にこたえて、「ボクは生まれてこのかた賞というものはもらったことがなかった。勲章はもらいました。コンペイトウという勲八等瑞宝章。石を投げればコンペイトウに当たるというくらい多い賞で…」とあいさつした。

 花森の「手放しのよろこび」についてはのちに余裕があれば触れるとして、私が受賞を告げる電話に接してとっさに思い浮かべたのは、どちらかといえば、この「ネクタイはしめず、ふだんどおりのマクレガーの白いジャンパーで」のほうだったと思う。
 というのも、私は20代のころ、友人に借りたネクタイをしめてかれの結婚式の司会をつとめ、それを唯一の例外として、以来、ネクタイというものを一度もしめたことがないのです。ネクタイどころか、まともなスーツすら持っていない。人生の大半を、ジーンズを基本に、そこに適当なシャツやセーターやジャケットを組み合わせ、ようは実用本位の普段着(=仕事着)だけですごしてきた。
 おわかりでしょう。そういう人間にとっていちばん困るのが冠婚葬祭なのです。
 着ていくものがないから、おのずから、そうした場にでかけていくのが億劫になる。どうしても出席せざるをえない場合は、しかたなく、それなりの工夫をこらす。たとえば正式な葬祭はさけ、普段着や仕事着でもなんとかなる通夜に行くとかね。各種パーティーのたぐいは、よほどのことがなければ欠席させてもらう。歳をとるにつれて、ますますそうなった。
 そして、そんなふうに生きてきた八十翁が、とつぜん「お受けいただけますか?」と電話で問われ、反射的に「はい、よろしく」と答えてしまった。
 いまにして思うと、そう答えると同時に、「こんどはただの出席者ではないぞ。あんた、いい歳をして、なにを着ていくつもりだよ」と自問し、あわせて、あの花森さんの白いジャンパーを思い浮かべた。いや、花森さんだけではないぞ。冠婚葬祭、そのすべてをジャンパーで通した『ジャンパーを着て四十年』の著者、今和次郎のような人もいる。軟弱とはいえ、私もまたかれらの流れにつらなるひとりであったのだなと、いまさらながらに思いさだめたのだろう。
 花森さんがジャンパーなら、こちらはジーンズ。おなじネクタイ嫌いの仕事着派が、半世紀にちかい時間をへだてて、おなじ文学賞をうける。ただし、おしゃれな花森さんはマクレガー印のジャンパーをしっかり着用していた。だとしたら、せめて私もジーンズ・ショップのぶら下がりではないものをと、地元の伊勢丹でイタリア製の高級ジーンズを買ってきた。けっこうな値段だったけどね、ま、たまにはいいんじゃないの、とじぶんでじぶんを説得してさ。
 さいわい読売文学賞の授賞式は、おなじ帝国ホテルの大広間といっても、大佛次郎賞のときよりはひとまわり小さく、ショーアップの度合いもじみに抑えられていた。さすがに私以外の受賞者はきちんとした服装だったけれども、選考委員やほかの出席者には、ジーンズとまではいわずとも、普段着のまま疲れた顔をして仕事場から駆けつけたといった感じの人たちが、すくなからずいたようである。
 この賞では、受賞者がリストをつくって事前に提出しておくと、友人や家族を30人、招待できる。私の場合、せっかくの機会だからと、いまを逃せばもう会うことはないかもしれない同年輩の人たちの名を何人か、リストのあたまにあげておいた。いちおう「ムリはしないでください」と電話やメールでことわってね。
 で、案の定、ことし92歳になる小沢信男さんを筆頭に、来ない、というより行きたいけど行けないのよ、という人が多かった。昨年、小豆島から高松に転居した平野甲賀は体調不全だし、花森安治のひとり娘の土井藍生さんも足を痛め、ひとりで出歩きするのがむずかしいらしい。風邪気味で新型コロナウイルスが怖いという人も3人いたしね。
 それだけに元気な高橋悠治が美恵さんといっしょに来てくれたのはうれしかった。うれしいだけでなく意外でもあった。なにしろかれは、賞金700万円(?)という大きな音楽賞の受賞さえ坦々と蹴とばしてしまうような人物なのだから。じぶんは蹴とばしたけど、おなじ行為を友人にもとめることはしない。祝いの席にも気軽にでかけてゆく。で、そこにまた「ニヤリ」といった皮肉な感じがただよったりとかさ。そのあたりが、葬式だけでなく祝いの席も苦手とえらそうに公言していた人間にとっては、ことのほか楽しく感じられるのです。
 そういえば難病をかかえた松田哲夫も、はるばる吉祥寺から杖をついて来てくれたっけ。そして、この国での電子本出版の先駆けともいうべき「ボイジャー」の萩野正昭も。おかげで、前世紀末に『季刊・本とコンピュータ』を創刊した三人が、四半世紀ぶりに顔を合わせることができた。
 でもそこに、昨年、世田谷美術館の階段席に悠治夫妻と並んで坐っていた坪内祐三のすがたはなかった。かれら夫妻の名をリストに加える寸前に、あわただしくいなくなってしまったのだから、これはとうぜん。坪内さんだけではない。これまでも多くの友人たちが、つぎつぎに消えていった。60年代に晶文社や六月劇場をいっしょにはじめた連中など、ほぼ全滅にちかい。若い人の受賞とはちがう。老人の受賞とは、いやもおうもし、そういうものであるしかないのです。
 かといって、うれしくないわけではない。もちろんうれしい。でもじぶんというより、まわりの人たちがよろこんでくれるのを見ているほうが、もっとうれしい。その人たちのあいだに身をおいて、酒もほとんど飲まず、すみっこでニコニコしている。いるはずなのにいない連中の息づかいをすぐそばに感じながらね。

黒川創『鶴見俊輔伝』新潮社
津野海太郎『最後の読書』新潮社

『おーい六さん 中川六平遺稿追悼集』大河久典編集・発行、2020年
坪内祐三『ストリートワイズ』晶文社、1997年→講談社文庫、2009年
黒川創『鶴見俊輔伝』新潮社、2018年
津野海太郎『最後の読書』新潮社、2018年

最後の読書

2018/11/30発売

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

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津野海太郎

つのかいたろう 1938年福岡生まれ。評論家。早稲田大学卒業後、劇団「黒テント」演出、晶文社取締役、『季刊・本とコンピュータ』総合編集長、和光大学教授・図書館長などを歴任。著書に『滑稽な巨人 坪内逍遙の夢』(新田次郎文学賞)、『ジェローム・ロビンスが死んだ』(芸術選奨文部科学大臣賞)、『花森安治伝』、『百歳までの読書術』、『読書と日本人』ほか。

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