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最後の読書

2020年5月8日 最後の読書

31 かれが最後に書いた本(つづき)

著者: 津野海太郎

考える人から生まれた本『最後の読書』が、読売文学賞〔随筆・紀行賞〕を受賞しました。

(「29 かれが最後に書いた本」へ)

 2019年11月、岩波書店から加藤典洋の『大きな字で書くこと』という本がでた。同社のPR誌『図書』と「信濃毎日新聞」で、ほぼ同時期に並行して執筆されていたコラムを一冊にまとめたもので、結局、この瀟洒な本が加藤さんにとっての「最後に書いた本」ということになった。先行した『図書』で、2017年1月号から開始された1頁コラムの通しタイトルが「大きな字で書くこと」だったのです。
 『図書』のコラムは、毎号、かかさず読んでいた。でも、1年ほどおくれて2018年4月に開始された「信濃毎日」のほうは読んでいない。前者の最終回は2019年7月号で、後者がおなじ年の3月。その未読の連載のおわりで、加藤さんは「いまは、病気をして、社会から隔絶され、人間にとって、何が一番大切なことなのか、というようなことを、考える」とのべ、それをこうしめくくっていた。

 自分のなかに、もう一人の自分を飼うこと。ふつう生活している場所のほかに、もう一つ、違う感情で過ごす場所をもつこと。それがどんづまりのなかでも、自分のなかの感情の対流、対話の場を生み、考えるということを可能にする。
 それは、むろん、よく生きることのためにも必要なことである。

 その2か月後、5月16日に加藤さんは急性骨髄性白血病でなくなる。享年71。そう、やはりこれが、かれののこした「最後に書いた本」だったのです。

加藤典洋『大きな字で書くこと』岩波書店

 ――自分のなかに、もう一人の自分を飼うこと。
 その具体例として、かれはここで、都会と田舎を往来しながら「身体を手放さずに物事を考える大事さ」を説く「虫マニア」の友人たち――池田清彦や養老孟司の暮らし方をあげている。思うに、社会から隔絶された病室でこうしるした加藤さんのうちには、したしい友人たちとちがって、おれはまだ「自分のなかに、もう一人の自分〔いわば虫マニアとしての自分〕を飼う」ことに習熟していない。それがざんねん。そんな思いが、なにがしか、あったのでしょうな。
 ざんねんというのは、「書く人」としての加藤さんが、すでに理系の友人たちとは別のやり方で、この目標(「もう一つ、違う感情で過ごす場所をもつこと」)に向かって歩きだしていたからです。池田や養老にとっての「虫」は、加藤にとっての「字」――すなわち、じぶんの文章のスタイル(文体)を意図的に変えていくこと。もしくは複数のスタイルに複線化すること。おそくとも2017年、『図書』の新連載に「大きな字で書くこと」というタイトルをつけたときには、その方向で、いちおうの覚悟ができていたものと思われる。
 では、なぜ加藤さんはこのタイトルをえらんだのだろう。その理由をかれは、終了ちかくなった「信濃毎日」の連載で、こんなふうに説明しています。

 何だか、小学生の頃は、大きく字を書いていた。それがだんだん、年を重ねるにつれ、小さな字で難しいことを書くようになってしまった。鍋のなかのものが、煮つまってきた、このあたりで、もういちど「大きな字で」、つまりはシンプルに、ものごととつきあってみたい、と思ったのである。

 1985年に『アメリカの影』で本格的にデビューして以後、加藤は「文芸評論」に加えて、『敗戦後論』『可能性としての戦後以後』などの「社会評論」をさかんに書きつづけた。
 ところがそれらの社会評論が、しばしば「よくもわるくも文学的である、そのために、わかりにくい」と評され、ときにやっかいな論争を引きおこしてしまう。そうした反応にいらだち反発しながらも、その一方で、かれはじぶんの身についた「文学的」で「わかりにくい」文体をそうではないものに変えていこう、そうでないと密閉された高圧鍋(いうところの論壇)のなかでじぶんの思考が「煮つまって」しまいかねないと、しだいに考えるようになっていたらしい。
 つまりは、
 ――小さな字で書いている自分のなかに、大きな字で書くもう一人の自分を飼うこと。
 そうした内心の決意が、のちに私が気づいたかぎりでいうと、2005年に岩波書店からでた『僕が批評家になったわけ』で、はじめて「シンプル」な語り口で表面に押しだされる。
 この本でかれは、「世の中には難しい言い方でしかいえないものがある」という信頼する批評家・内田樹の発言に対して、もちろんそれはそう、しかし、それでも私は「難しいものも、なぜ難しいかがわかれば平明になる、つまり、やはりものごとは平明に語られうる、平明に理解されうる、と考えるほうなのである」といいきってみせた。
 しかし、そうはいっても、これまで「小さな字」で(こん)をつめて考えてきた人間が、小学生のころの、のびのびと「大きな字」を、そうそう簡単にとりもどせるわけがない。でも、とにかくその線でやってみたい。じっさい、その後の『戦後入門』や『9条入門』などの著書には、かれが新しいスタイルを獲得すべくかさねた「飼う」努力のあとが、あちこちに見てとれるのです。――いや、ちがうか。正確にいうなら、かれの「最後に書いた本」に接して、「ははァ、そういうことだったのか」と、はじめて私はその努力に気づいたのです。

加藤典洋『僕が批評家になったわけ』岩波現代文庫

 それにしても、私もそうだったが、はじめ『図書』の連載で「大きな字で書くこと」を読んだ人たちの多くは、すくなからず、おどろいたのではないかな。
 おどろいたのは、それが、いつもの読みなれた加藤典洋の評論や啓蒙書とちがって、おだやかな、もっといえば、じじむさい「随筆」の文体で書かれていたから――。
 山田稔の定義によると、随筆とは「〔日々の〕『何でもないこと』にひそむ人生の滋味を、平明な言葉で表現し、読む者に感銘をあたえる」(『天野忠随筆選』あとがき)たぐいの散文を意味する。
 しかし、そのように定義するじぶんにとってさえ、随筆の「こつ」をつかむのは「何でもないようで、じつは難しいのである」と山田はいう。加藤もそのことはこころえていた。それでもなお、かれは「小さな字で書くこと」のむずかしさを脇において、人生のこの段階で、あえて、もうひとつの「大きな字で書くこと」のむずかしさのほうをえらんだのです。
 ――評論の文体ではうまく書けなかったけれども、「平明な」随筆としてなら書けるかもしれない。そんなあれこれを、いま、この場で書きとめておきたい。
 おそらく加藤はそんなふうに考えたのでしょうな。そして、そのもっとも大きなひとつが、連載五回分をつかって語られる「父」の話だった。
 ざっと要約しておくと、加藤の父は戦時中、山形県の山地の警察署に特高主任として赴任し、その地の教育者で「無教会派のキリスト者、鈴木弼美(すけよし)の反国家的言動を内偵し、証拠をつかんだのち、検挙する」任務にたずさわった。
 なにも知らないまま30代になった加藤が、たまたま読んだ稲垣真美の『内村鑑三の末裔たち』という本で、はじめてその事実を知ったのが1979年の初夏。そののち「本人(父)とこのことについて、私はじつは何度か、話し合っている」とかれはいう。「最初の頃は鈴木氏がまだ存命であり、私は、この人が存命のうちに、一度行って謝れ、と彼に求めた。そのことをめぐり、つねに話は決裂、最後は怒号が行き交った」
 それでも父はかたくなに口をとざしつづけた。やむなく加藤はじぶんで調査にとりかかり、父がのこした書類や警察関係者の自伝などの資料によって、しだいに起きたことのおおよそがわかってくる。そして調査の過程でみつけた、2012年の『世界』9月号に掲載された田中伸尚の文章(2年後に『未完の戦時下抵抗』の一部として岩波書店から刊行)で、思いがけず、こんな光景にぶつかる。

〔そこには〕父が、この逮捕から「半世紀以上下った」ある日、あるパーティの席で鈴木弼美〔数年まえに他界〕を崇敬する有力な山形の建築家の前に歩みを進め、「体を屈めて、ぼそぼそっと」述べた「告白」のことばの一端が記されている。曰く、「いつか申し上げねばと思いながら、今日まで言いそびれてきました」、「今日」「お会いできたので、勇気をもってお話しておきたいことがあります」、「実は、独立学園の創立者の鈴木弼美先生を逮捕したのは私なんです」

 これが1997年1月のこと。じつはその半年まえに、加藤は80歳をすぎた父と何度目かの大喧嘩をしたらしい。「家族全員衆人環視のなか。息子と娘が見るに見かね、あんまりじいさんをいじめるナ、と声を上げたので、私は孤立し、黙った」――。
 そして半年後、そのときもそののちも、家族にはなにひとつ告げないまま、「彼〔父〕は『元特高』として鈴木弼美氏の逮捕を『告白』していた」。しかもそれだけではない。加藤の側もまた、父に告げることなく鈴木の娘夫妻をたずね、ひそかに故人の墓参をすませていたというのである。
 ――ことほどさように、私たちは「奇怪な親子」だったのです。
 と、ここまできけば、おそらく多くの人が加藤の『敗戦後論』を――なかんずく、そのキーワードだった「ねじれ」(「汚れた死者を汚れたまま哀悼する」など)の一語を、いやおうなしに連想してしまうのではないだろうか。そしてそのことは加藤も予期していたと思う。それはそうでしょう。なにしろ『敗戦後論』は、さきの一連のできごととおなじ90年代後半に構想され、執筆されたものだったのだから。
 ただし、いまここで「するとどういうことになるのか?」というところまで「小さな字」で論をつめようとは思わない。ともあれ加藤は、じぶんの「最後に書いた本」で、どうしても語らなければならなかったことを、平明を(むね)とする随筆というしかたで書きのこすことができた。たぶん迫り寄る老いと病に背中を押してもらってね。私としては、そのことを知りえただけでじゅうぶん――。
 2015年、すなわち父の没した翌年、加藤さんは、父が「告白」した相手の建築家・本間利雄をたずねて、そのときの話をきいた。そして「本間氏に話しかけたとき、父は足が震えていたに違いない」と感じたという。「息子に責められ、気の毒な人生を過ごしたといえるが、自業自得とはいえ、治安維持法がなければ彼の人生は違っていた。私の人生は、どうだったろう」
 ありきたりの感慨? ――でも最後の病床で、これ以上のことが考えられるとは私には思えないのですよ。

 この稿を「かれが最後に書いた本」という題で書こうと考えたとき、私の頭には、あまりにもあっけなくあちら側に行ってしまったふたりの「書く人」――池内紀と加藤典洋がのこした本のことがあった。それがつまり『ヒトラーの時代』と『大きな字で書くこと』の2冊ですね。
 ところがその原稿を書きおえないうちに古井由吉が肝細胞癌でなくなる。それが2月18日で、かれは82歳。つまり古井さんは私よりわずか1歳上の、まごうかたなき、わが同世代人なのです。ならばどうあっても、「かれが最後に書いた本」の3冊目として、古井の『この道』という小説に触れずにすますわけにはいかない。
 この本が講談社から刊行されたのが昨年の1月末。そのときいちど読んだのだが、なくなったのち、それがかれの「最後に書いた本」だったことに気づいて、あらためて手にとった。

古井由吉『この道』講談社

 古井さんの著作は、小説もエッセイも、そこに対談集の類もふくめて、そこそこ読んできた。ただし、エッセイや対談集は気軽に読めたけど、小説となるとね。とくに高級な小説読者というわけではないので、練り上げた文体の気迫に魅せられながらも、すこし気を抜くと、その濃密さや抽象度の高さ、そして、あっち跳び・こっち跳びする記憶やニセ記憶の奔放なつらなりに、あえなく置いてけぼりを喰らってしまう。
 ところが一年まえ、この小説を最初に手にしたときは、なぜか途中で息切れすることなく、終わりまでしっかり読むことができた。そんな印象があったので、その記憶をたしかめようと再読してみたら、やっぱり、それまでの小説よりも格段に読みやすいのですね。
 ――ふしぎだ。なぜだろう?
 ちょっと考え、たぶんこうだろうという推測がついた。
 ようするに古井さんと私のどちらもが、別々の街で、おなじように年老い、あますところなくボロボロになっていたのです。もっといえば、「書く者」と「読む者」の双方が、そろって「とうとう私もここまで来たか」と、みずからのボロボロ化の進行度合いを平静に計れる地点にたどりついていた。たぶんそういうことなのではないかと思う。
 かといって、いばってそういうのではないですよ。たとえば――。

 雨の中へさまよい出るどころか、めっきり籠りがちになってしまったが、たまに街に出れば人の歩みが目につく。行く人の年のほどが、誰もひとしく先を急いでいても、ひと目でおおよそ知れる。年による足の踏み込み、歩幅の違いもさることながら、それよりもあらわなことに、若い人は一歩ごとに身体がはっきりと上下に振れるのにひきかえ、年が行くにつれてその上下の動きがとぼしくなる。膝の弾力の衰えのせいなのだろう。年寄りになると左右に揺らぐばかりだ。雨の日には傘の動きにその差がよけいにあらわれる。しなやかに弾む傘の動きを見ていると、若い頃には雨の中を行くにつれて人肌を求める心のつのることのあったことが思い出される。

 あるいは、

 一昨日は宵の口から都心に出た。忘年会に呼ばれてだいぶ迷ったが、(略)つい三年も前までは何ほどもない道のりだったが、今の脚では長旅になる。最寄りの地下鉄までバスで行けばその先は一度の乗継ぎで済むことだが、その乗り換えには階段を降りて連絡通路をたどり、また階段を降りる。むこうの駅のホームも地下の三階だか四階だかにあたる。階段はすべてエスカレーターの世話になるとしても、地上に出てから酒場まで、以前は十五分ぐらいの道だったが、今ではどれだけかかることか。

 もし私がまだ40代や50代の若者(ハハハ)だったら、こうした一節など、よくある年寄りのぼやきとして、気にもとめずに読みとばしていたかもしれない。なのに現に年寄りである私には、おなじ文章が、どちらかといえば心地よいものとして読めてしまう。
 もちろん「傘の動きにその差がよけいにあらわれる」も「今の脚では長旅になる」も、老人ならだれもが日々体験させられている「何でもないこと」にすぎない。でも、ほんとに「何でもないこと」なのかというと、ちがうのですね。
 後者の引用でいうと、たとえば都心にでかけるさいの駅の階段やエスカレーターの乗り継ぎの場面。なぜ古井はそれをここまでこまかく記述するのだろうか。
 若いころはピンとこなかったかもしれない。でもいまはちがう。ピンときすぎて、思わず笑っちゃうぐらい。つまり古井さんや私のような老いぼれにとっては、渋谷や新宿といった混雑するターミナル駅での乗り継ぎが、心身ともに、しんどい大事業になっているのです。あまりにもしんどすぎて、古井さんなら世田谷区の用賀、私であればさいたま市浦和区といった狭い居住地にとじこもり、よほどのことがなければ、そとの世界に足が向かなくなってしまう。
 ついこのあいだまで普通にできていた街歩きが、あっというまにむずかしくなった。そんな老化のいきおいに慣れたという意味では、たしかに「何でもないこと」なのだが、その結果、いつしかじぶんがじぶんでない者になってしまう。そこまで「何でもない」といえるかというと、なかなかそう簡単にはいかない。
 そんな老人のじたばたぶり、よるべないボロボロ感覚を冷静にとらえ、ほとんど非情といっていいほどのつよいリズムで記述してゆく。
 それに、けっこう笑えるしね。その旺盛な表現力たるや、とうてい「よくある年寄りのぼやき」どころの話ではない。私のような真正老人にとっては、なによりもその非情にして官能的な書きぶりが読んでいて楽しい。まじめ一方でなく、作者の側だってそれなりに楽しんで書いているのではないかな。そう想像し、私にはこんなタフな記述はとてもできそうにないよ、と舌をまく。「心地よい」というのはそういう意味なのです。

 前後が逆になったけれども、憐れみ不要のドライな記述という点では、前者の引用における老人歩行の分析もおなじ。
 私の場合でいえば、「膝の弾力」に支えられた「上下の動き」のおとろえは、「傘の動き」よりも、靴の(かかと)をズルズル引きずって歩き、「ほらまた!」と並んで歩いている女性にたしなめられる、といった現象のほうに如実にあらわれる。いや、たしなめられたのは何年かまえまでの話で、いまはもうさっさと先行され、気がむけばつぎの曲がり角で待っていてくれる。そちらのほうが常態になっているのですがね。
 ただし、おわかりのように、これだとありきたりの「ぼやき」文体なので、読んでくれる人よりもまえに、書いている私が退屈してしまう。対するに古井由吉は、おなじ足のおとろえを、かれに特有の高い解像度で精密に書きしるす。そこに冷たい色気といったものが生じ、私のような読者が、そうそう、これこそ私の現在だよ、と深々と感情移入することになる。
 さきの引用箇所だけでなく、この小説には、遠出のむずかしくなった作家が、住みなれた用賀の街を、ときに杖をつき、おぼつかない足取りで歩くすがたが繰りかえしでてくる。
 そこでいつもの昔話――。
 1970年代なかば、晶文社で、『東京昭和十一年』にはじまる桑原甲子雄氏の写真集を、たてつづけに何点かだしたことがある。当時、桑原さんは夫人とふたりで用賀の馬事公苑に近い11階だての集合住宅に住んでいた。いや集合住宅というよりも、こっちが貧しかったせいか、いまでいう高級タワーマンションの感じに近かったような気がするのだが……。
 ことわっておくと、いまの東急田園都市線がまだ玉電(東急玉川線)だった時代の話ですよ。山手線を渋谷で乗りつぎ、三軒茶屋経由で用賀の駅に降りると、その先に緑の多い広々した空間の街があり、できたばかりの集合住宅ビルがそびえていた。
 で、いまもいったような事情で、この巨大建築に頻繁に出入りするようになり、ある日、「ここのどこかの部屋に古井由吉が住んでるらしいよ」と桑原さんがおしえてくれた。古井が『杳子』で芥川賞を受賞したのが1971年だから、このころはもうかなりの有名作家になっていたのだろう。『この道』によると、当時は7階に住み、10年ほどのちに2階に移ったという。すると、かれは自宅死だったときくから、その2階の部屋でなくなったことになるのか。
 なにしろ半世紀まえの話ですからね、こんな街はもう存在しません。
 でも『この道』を読んでいて、「折れて行けば、一歩一歩、間違いもない道である。しかし最前もこの途中で立ち停まったような気がしてならない」とか、「浅い夢に、雨のあがったばかりの、まだ白い靄の立ちこめる路上に、うつぶせになっている。倒れたらしい」といった記述に出会うと、いまの用賀の道を歩く古井さんが、ふと私の記憶するむかしの街をよろよろ歩いているように思えてしまう。
 あるいは馬事公苑。1964年だから、古井さんが住むようになる10年ほどまえ、ここが東京オリンピックの馬場馬術競技の会場になった。そして半世紀後の雨の夕暮れ、近くに住む作家が、仕事に疲れ「傘を差して歩きに出た道で、はるかにひろがる野の末に、黒々と立つ林を見た」――。

 ……幻ではない。三年後の五輪の馬術競技の会場に定められて大改造のためにこの年の初めから閉ざされた馬事の公苑の、工事の車の出入りに設けられた仮の門がたまたま開け放たれていて、そこからひさしぶりに苑内をのぞけば、馬場もスタンドもひらたく均らされて野に還り、遠く雑木林まで目を遮るものもない。五十年近くこのあたりに住みついた身にとっても、初めて見る光景だった。

  時をへだてて、ひとつの道にふたつの道がかさなり、そのかさなった道をひとりの老人が歩いている。その老人は書く古井さんであり、同時にそれを読む私でもある。
 ようするに、いまの私は『この道』という小説を、そういうふうにしか読めないのです。なぜなら、たまたま私は半世紀まえに若い古井さんが暮らしていた用賀の街を、ほんのすこし知ってしまっているから。そしてなによりも私が作者とおなじ時代を生きて、いまやよれよれになった同じ年ごろの老人だからです。
 そんな人間が『この道』を読んでの感想なので、老人でない方には、「おいおい、ちょっと偏りすぎじゃないの」といわれてしまうかもしれない。
 でもね、ふつうの読書というのは、もともとそういうものなんじゃないかな。評論家や研究者や編集者仲間は別ですよ。かれらは専門家だから、別の、より客観的・普遍的なレベルで本を読む。というよりも、そのように読む責任がかれらにはある。だけど、ふつうの人間(専門家ではないという意味での)の読書はちがうでしょう。
 以前、私は『読書と日本人』という本(岩波新書、2016年刊)で、読書という行為を「本はひとりで黙って読む。自発的に、たいていは自分の部屋で」と定義したことがある。
 つまり読書とはとことん個人的な行為だということ。老人であろうが若者であろうが、じぶんひとりの体験や記憶をフルにつかって本を読む。「だれか」や「なにか」に強制されるのではなく、ごく自然に、そのように読んでいる。だからこそ楽しい。いかに偏っていようとも、ふつうの人間――専門(ビジネスや受験などをふくむ)をはなれて「自発的」に本を読む人間にとって、それ以外の読み方はないのです。
 ただし「専門」と「ふつう」を隔てる壁は意外に薄いから、多くの人が、そのあいだを往ったり来たりしている。雑書多読派の私にしても、かつて現役の編集者や演劇人や大学教師だった時期は、どちらかといえば、そのときどきの専門にかかわる読書(たいていは「かたい本」)のほうが多かったと思う。
 それが変わったのは70歳で大学を定年退職したのち。それでも前記の『読書と日本人』を書いていたころまでは、まだ出版人や教師という専門家としての責任感のようなものが、いくらかのこっていた。したがって77歳の喜寿をこえたあたりからですね、ようやく私が専門をもつ知識人の読書をはなれ、じぶんの読書を「ふつうの人間がひとりで黙って自発的に本を読む」という行為の側に重点を置いて考えるようになったのは――。 
 さきほど私は、つよく魅せられながらも読みにくかった古井由吉の小説が、『この道』では「格段に読みやすい」ものになっていた、と書いた。
 読みやすくなったのは、もともと古井さんの小説にあった日記的・私小説的な傾向が、加齢によってよりあらわになった、もしくは、そうなったと私が誤解したからでしょう。そして誤解であれ偏向であれ、その発見を手がかりに私は古井由吉の小説を、ようやくしっかり読むことができた。
 ――そうか、ここからはじめれば、むかしは途中で読むのをあきらめた『仮往生伝試文』や『楽天記』だって、あんがいうまく読みこなせるかもしれないぞ。
 ――ふうん、だったら読んでみてよ。
 古井さんの「最後に書いた本」が、この4月6日に82歳になったばかりの私を、そうけしかけている。

(追記)じつは『この道』のあとも、古井由吉は『新潮』2019年7月号から連作の短篇を書きつぎ、2020年5月号に掲載された4篇目がかれの「遺作」ということになった。したがって正確には、『この道』は「生前に刊行された最後の本」ということになる。


加藤典洋『大きな字で書くこと』岩波書店、2019年
加藤典洋『僕が批評家になったわけ』岩波書店、2005年→岩波現代文庫、2020年
古井由吉『この道』講談社、2019年

最後の読書

2018/11/30発売

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著者プロフィール

津野海太郎

つのかいたろう 1938年福岡生まれ。評論家。早稲田大学卒業後、劇団「黒テント」演出、晶文社取締役、『季刊・本とコンピュータ』総合編集長、和光大学教授・図書館長などを歴任。著書に『滑稽な巨人 坪内逍遙の夢』(新田次郎文学賞)、『ジェローム・ロビンスが死んだ』(芸術選奨文部科学大臣賞)、『花森安治伝』、『百歳までの読書術』、『読書と日本人』ほか。

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