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考える四季

2021年10月21日 考える四季

死んだら「無」なのか、それとも「霊魂」になるのか

著者: 佐伯啓思

「死生観」を考える

 この5月に新潮選書で『死にかた論』という本を出版した。といっても偉人奇人凡人の「死にざま」の研究書というわけではないし、ご臨終の心構えなどというものでもない。私なりの死生観についてのエッセイ風評論といったところであるが、同時に、日本人の死生観をどのように捉えればよいのか、という関心がその背後にあった。

 万事、自己責任で自己決定が叫ばれる現代社会にあっても、「死にかた」を自分で決めるのはたいへん難しい。明確に自死すると決意してしまえばよいとしても、その決定も容易に下せるわけではない。自己責任や自己決定などといっても、せいぜいのところ、娑婆にあって、肉体的にも精神的にも、理性や意思というものがそれなりに機能する元気な間だけのことであろう。生の誕生と生の終焉という束の間の生の両端は、すでに「自己」を超えてしまっている。どれほど力んでも神にすがっても自分の力ではいかんともしがたい。ところがこの自らの意思や力ではどうしょうもない生の両端こそは、人間にとって最重要な問題でありまたもっともやっかいな関心事なのである。「生まれてきた」という事実と「死ぬ」という事実はまったくいかんともしがたく、しかもそのことの意味を無視することもできない。

 そしてここに「死生観」というものがでてくる。

 実際にはどのような死にかたをするかなど、本人にもわかるわけはない。それは自己を超えてしまっているのだから、そんなものは放っておけばいいではないか、ということにもなるだろう。

掛け軸のように「死」を心に掛ける

 それはそうなのだが、それにもかかわらず、誰もが心のどこかで死を意識している。当然のことで、いつ、どこで、どのように死ぬかによって、そこへ向かう生のあり方も随分と変わってくるからだ。戦国時代の武士なら、いつでも死ぬ覚悟はできていた(はずである)。その覚悟がなければ武功をあげて出世するという生の充実はなかった。それを平和な時代になって武士道として理念化したのが山本常朝の『葉隠』であった。

 何か個人を超えた大事なものがあって、そのためには死をも厭わないという武士道的な信条は、明治の近代社会になっても消滅したわけではなく、たとえば、近代化の最大の思想家であった福澤諭吉にしても、武士道的な死にかたは、論説「瘠我慢の説」においても強く説くところであった。幕府の重臣でありながら江戸城の無血開城を決めた勝海舟に対して、福澤は、勝は命を賭して最後まで戦うべきであった、という。

 ここには、ある死生観がある。「死」と「生」の相関がある。武士にとって、死は常に存在する現実であった。少なくとも可能性としてはそうであった。だから、その可能性をたえず思い返して生きることで「生の充実」をはかる、というのである。「死」と「生」は切り離されていない。「死」を、いわば目前にかかる掛け軸のようにいつも心に掛けておくことで、生に緊張感を与えたのであろう。これは確かにひとつの死生観である。

戦後日本の「生」と「死」

 ところが、どうも、平和と繁栄の時代である戦後の日本ではそもそも死生観を持つことがたいへんに難しくなった。かくいう私も、日常的に死を意識することなどまずない。そこに戦中に生きたものと戦後生まれのものとの大きな断絶があるのだろう。戦時下にあっては、誰もが死の恐怖をまぢかに感じていただろう。死は、当然のこととして生に組み込まれていたのだろう。だからこそ、あの戦争を生き延びた人たちにとっては、戦後の平和は輝かしいものに見えたのであろう。戦後の平和と繁栄の背後にはおびただしい死があった。

 ところが、戦後も70年、80年と年月をへ、昭和は遠くなりにけり、となれば平和も繁栄も当たり前となってしまう。その背後にあるおびただしい死者も、いつ襲いくるやもしれぬ死の影も視界から消えてゆく。他方で、一見したところ、生の楽しみは、各種のエンターテインメントから次々と生み出される情報機器のおかげで、ほとんど無限に膨張してゆく。と、そんな風にうつつをぬかしているうちにやがて「老」と「病」が襲いかかり、老醜をさらし、病態を嘆きつつ、あっというまに「死」へと突き進んでゆく。だいたい、これが戦後日本の「生」と「死」についての現状というものであろう。どこにも死生観がないのである。では日本人の死生観とはもともとどういうものだったのだろうか。

「唯物(仏)論」か「霊魂不滅」か

 私は、日本人の死生観という時、まったく異なったふたつの考えが前から気になっていた。ひとつは、死んでしまえば一切は「無」である、という一種の唯物論である。一切皆空を唱える仏教も、もともとそういう立場であろう。これは唯仏論である。基本的に私は、唯物にせよ唯仏にせよ、こちらの立場の信奉者である。いや、そういうことにしていた。死後の霊魂やあの世などというものはない、ということにして了解しておいた。私には、それが合理的であるだけではなく、むしろそれこそが救いであるように思われた。死んでからまで、この世の煩わしさを引きずるのはかなわない、ということである。

 ところが、日本には、逆に、死後霊魂の存在を信じるというもうひとつの死生観が脈々と存在する。先祖の霊という観念も根強くある。あの世から死んだ親や祖父母が見守ってくれている、という観念もある。先日もテレビを見ていたら、山奥の一軒家にたった一人で暮らしているお年寄りの女性がでていた。「寂しくはないのですか」という問いに、この人は即座に答えていた。「まったく寂しくはないですよ。先祖がいつも見ていてくれますから」という。

 私はとても山奥の一軒家で一人暮らしはできないが、この気持ちは十分に想像できる。また、事故や災害で肉親をなくした人が、いつまでも故人の「魂」を抱いて生きてゆく気持ちはよくわかる。ということは、どこかで霊魂を信じている、ということになるのだろう。

 この方向からすれば、死後霊魂があるということにしておく、といってもよいではないか。そうも思えてくる。祖霊のおかげで山奥の一軒家でこころ静かに元気で暮らせるならば、それは結構なことであり、身内を失った悲しみを、死後の魂の存在によって和らげることができれば、それもまた結構なことではないか。こうして、死者は、生きているものに語りかけ、生者の生を支えてくれる。

 こういう死生観もある。いや、日本では、漠然とではあるが、この種の霊魂や死者の魂という観念が脈々と続いてきたといってよいだろう。

「無」と「不滅」は同じこと?

 以前から、私は、このふたつの死生観が両方とも気になっていた。いずれ死後の世界などわかりはしない。それについて論じても仕方がない。だからこそ、死後は「無」であるとするか、それとも「霊魂不滅」とするか、それは、ひとつのいわば「仮説的選択」の問題だと思っていた。「無」であれ、「不滅」であれ、「そういうことにしよう」という話である。どちらであれ、「そういうことにする」ことで、生が多少は充実し、楽しくなればよい、ということなのである。

 そんなことを、別に真剣に考えるというわけではなく、何となく、それこそ徒然なるままに考えていたが、あるとき、この二つの死生観が本当は同じなのではないか、という思いにとらわれた。「思考する」というのは、「思い」かつ「考える」ということであろう。私のはまだ「思い」の段階で「考える」ところまでうまく運べない。だから「思考」というわけにはいかない。しかしそれでも、この二つの死生観は、何か同じ事柄の両側面を示しているのではないか、という「思い」が強くある。『死にかた論』でそのことの意味を少しだけ論じてみた。「考える」の端緒といったところである。ロダンの「考える人」のポーズを実際にとると、結構、妙な力がいるのだが、まずはあまり力まずに、死生観について「考える人」を続けようと思っている。

死にかた論

佐伯啓思

2021/5/26発売

新潮社公式HPはこちらから

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

佐伯啓思

1949(昭和24)年、奈良県生まれ。社会思想家。京都大学名誉教授。京都大学こころの未来研究センター特任教授。東京大学経済学部卒。東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得。2007年正論大賞。『隠された思考』(サントリー学芸賞)『反・幸福論』『さらば、資本主義』『反・民主主義論』『経済成長主義への訣別』『死と生』『近代の虚妄』『死にかた論』など著作多数。雑誌「ひらく」を監修。


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