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没イチ、カンボジアでパン屋はじめます!

私のなかで何かが吹っ切れた「瞬間」

 大阪から就職のために上京し、安月給でカツカツの生活をしていた私を見かね、会社の先輩や仕事で知り合った人たちがご飯によく連れて行ってくれた。私の給料では行けないようなレストランで、ゴルフや高級料亭での接待の話などを聞き、「一生懸命働いたら、すごいお金がもらえるんだな」と単純に思った。会社の経費をバンバン使って豪華な接待をしていた時代の話だが、新入社員の私には、経費でそんなことができるなんて夢のような話だったが、うらやましいなとは思ったことはなかった。
 長いサラリーマン時代、上司にこびへつらうが、部下には偉そうにする人、部下の手柄を自分の手柄にしてしまう上司など、人間のいやな側面もたくさんみた。そういう人ほど出世をするということも知った。
 私の夫も、亡くなる前日までそんな上司に気を遣いながら、一生懸命に仕事をしていたのだろうなと、亡くなってみて、夫の気持ちを想像し、理解できた気がした。自死か、私の夫のように急性心停止かは関係なく、過労死の報道がなされるたびに、今でも心が痛くなる。「心」や「時間」をむしばまれ、命までなくしてしまうような状況が減ってほしいと願うばかりだ。夫が亡くなった後、親しかった夫の先輩に「過労死ではないかと思う」とメールをしたら、「あの程度の労働で、過労死するとは思えない。自分の方がもっと働いている」という返信があった。その人は「パソコンのログでは把握しきれないので、手帳に毎日の労働時間を記録して、倒れたときの証拠にしている」とも言っていた。倒れるかもしれない、死ぬかもしれないと思いながら、仕事をしているなんて、夫を過労死で亡くした私からすればぞっとするが、倒れたり、死んだりせずに定年を迎える人の方が圧倒的に多いので、誰もこれがおかしなことだと思わずにいるのだろう。
 コロナ禍で在宅ワークをする夫を身近でみると、今までは仕事が忙しいふりをしていただけで、「ちゃっちゃとすれば大した仕事量はないじゃないか」と気づいた妻もいるに違いない。勤務時間内にどうでもいい世間話をする時間やそれに付き合わされる時間、会社の飲み会で同僚の悪口を言ったり、聞かされたりする時間を少し削減すれば、自分が自由に使える時間がもっと増えるはずだ。
 若い時には何とも思わなかったが、夫が突然亡くなり、過労死認定された時から、限りある時間がとても貴重だという意識がどんどん強くなった。
 私が勤めていた会社では、「ほかにすることがないから」という理由で、定年延長する人も少なくなかった。経済的な理由で死ぬまで働かざるを得ない人もいるなかで、恵まれた環境にいるせいで、「お金はあるが、したいことがないからとりあえず会社に来る」という人たちを目の当たりにし、「あんな風に時間を無駄にしたくない」と私は思うようになった。定年延長するといっても、80歳や90歳まで働ける人は限られている。たいがいは65歳か、70歳ぐらいで引退することになるが、その後の人生をどう過ごすのかというのが、死生学者になる前の私のそもそもの問題意識だった。
 40年も働き続け、やっと自分の好きに時間を使えるようになったのに、することがなくてなんとなく毎日を過ごす男性たちをずっと見てきた。一度しかない人生。どう過ごそうがその人の勝手ではあるが、私にとってはそういう人たちは反面教師として映った。
 私自身は、仕事はとても忙しかったが、やりがいがあった。講演では「今日、話を聞いて気が楽になった」と、涙を流して喜んでくださったり、手紙をくださったりする人たちのおかげで、頑張ろうと思えた。ただ自分で営業をして仕事をいただく業種ではないのに、会社に所属する立場なので、講演回数やメディアへの登場回数などを管理され、誰のために研究をしているのかが自分で分からなくなった。社内では働き方改革がすすめられていたが、私はもう何年も有給休暇を取得したことがなかったし、代休さえも取れない状態で働いていた。一度、上司に「入れる仕事を取捨選択してほしい」と直訴したが、「すべて仕事です」とはねつけられた瞬間、私のなかで、何かが吹っ切れた。「このままでは、夫のように死んでしまう。今こそ、第二の人生を始める時だ」、と。それが50歳を迎えるタイミングだった。

フィリピン、学校のない村の図書館で見る夢

 本当は、30年前から、退職したらフィリピンの子どもたちのために何かしたいとずっと思っていた。数年に一度は、フィリピンのホストファミリー宅に里帰りしており、夫とも「退職したら、フィリピンで貧しい子どもたちのために活動しよう」と話していた。
 夫が亡くなった後、フィリピンの山岳少数民族が住む村へ行く機会があった。私にはフィリピンにホストファミリーのほか友人たちもいるが、彼らの誰もその存在を知らなかったし、行ったこともないような人里離れた村だ。
 水道もガスも電気も電話も何もない。当然、村には学校もないし、雨季になれば川が氾濫するので、隣の集落の学校へも通うことができない。村に学校を建てたとしても、何のインフラもないところに赴任する先生なんていない。数年前、公立小学校の教員を定年退職した日本人のグループがその村に図書室を作り、日本の古本をタガログ語に翻訳し、送る活動をしていた。学校に通えなくても、本を読む楽しさや知識を得る喜びを知ってほしいという一心で、定年退職してからタガログ語を勉強し、遠く離れた日本から支援を続けている人たちに感銘を受けた。村の女性は15歳ぐらいで結婚し、毎年のように子どもを産み続け、10人近くもいる子どもたちに教育はもちろん、まともな食事さえも与えられない。診療所もないので、破傷風で命を落とす子ども、産後の肥立ちが悪く、幼子を何人も残して亡くなる女性もたくさんいた。
 でも村の子どもたちはとても無邪気で、きらきらしていた。朝、図書室のドアがあくと同時に、子どもたちがやってくる。文字を読める年齢の子どもばかりではない。私がその村の子どもだったら、「一寸法師やももたろうの古本もありがたいけれど、新しい絵本や、ディズニーなどの絵本を読みたい」と思うだろうと考えた。書店に行ったこともないし、新しい本の匂いを嗅いだこともない子どもたちが、実際にはそんなことを想像もしないだろうが、私はすぐさま、マニラで小学校の教員をしている友人にお願いし、夫の遺産の一部で、事典や絵本など村の図書室に置く本を選んでもらうことにした。図書室を管理している女性たちがバスを乗り継ぎ、三時間かけてマニラにやってきて、街で一番大きな書店で、本の探し方を私の友人から教わったそうだ。初めての体験に、女性たちは大興奮していたという。村の子どもたちの喜ぶ顔を思い浮かべながら、自分たちで本を選ぶ喜びは、女性たちにとっても大きな収穫だったに違いない。
 新本を寄贈した後、この村を再訪すると、「アナ雪」の絵本を取り合って読んでいる女の子たち、恐竜の絵が描かれた図鑑を眺める少年たちの姿があった。この子たちに、本を読む喜びだけではなく、教育を受けて新しいことを知る喜び、自力で生活を切り開く喜びを感じてほしいと思った。

村の子どもたちと。

実際に行ってみないと分からないことはたくさんある

 しかし実際に会社を辞めようと決意したとき、単身でフィリピンに乗り込む勇気がなかった。里帰りや調査研究のために短期で滞在するなら、一人でも問題なかったが、私にはフィリピンで、これまでも何度かだまされた経験があった。
 マニラの空港カウンターで、帰国しようと預け荷物を計量してもらう際、「重量オーバーだから、本当は3万円かかるが、特別に1万円にまけてあげるからパスポートにお札を挟んで渡して」と言われ、渡してしまったことがあった。確かにカウンターの重量計を見れば30キロを超えていた。後で冷静に考えると、30キロもののカバンを私が一人で持てるはずがなく、完全に私はだまされたのだった。重量計に置いたカバンの陰に、私から見えないようにスタッフが足を置いて体重をかけ、重量オーバーのように見せかけたのだ。まさか空港で働く航空会社のスタッフがお客さんをだますなど、私は思いもしなかった。
 空港からタクシーに乗れば、異常に早くメーターがあがる細工をしており、10倍以上のお金を請求されることもあった。こんな悪徳タクシーはアジアにはよくいるのだが、フィリピンの場合、お金をだまし取られるだけでなく、命の危険にさらされる可能性もある。
 車に乗ったら必ずドアをロックしないと信号待ちで強盗が乱入してくるとか、ネックレスやブレスレット、ピアスをして乗り合いバスに乗ると、窓の外から引きちぎられるとか、一人でいる時にはびくびくしながら行動しなきゃならない。誰がピストルを持っているか分からないし、貧しい国ゆえ、お金のためなら殺人でも犯す人が残念ながらいるのも事実だ。在住邦人がフィリピンで殺害されるニュースを見聞きすると、命の危険にさらされてまで、私のお金を投入してフィリピンの子どもたちを支援したいという気持ちにはなれなかった。
 日常会話程度なら、マレーシアやインドネシア、ブルネイの言葉を話せるので、インドネシアに行こうかとも思ったが、どうせなら行ったことのない国に行ってみようという気持ちもあった。
 そんなわけで、退職する半年前に、たまたま日本人の知り合いに誘われ、カンボジアのプノンペンに生まれて初めて行くことになった。これまで私のなかでは何の興味も関心もなかったカンボジア。カンボジアといえば、ポル・ポト政権下での大量虐殺と、その後の内戦で疲弊した国、あるいは地雷が残り、命を落としたり、手足が吹っ飛んで障害者になったりする人が多いというイメージしかなかった。
 ところが初めて訪れたプノンペンには、国際的な高級ホテルチェーンもあったし、高層マンションが林立しており、発展めざましい活気があるように見えた。スターバックスは、アイスコーヒーが300円するのにカンボジア人の若者でいっぱいだし、2000円ほど出せば、優雅なフレンチレストランでランチもできるし、ありとあらゆるジャンルのレストランや、巨大なイオンモールもあり、インフラはともかく、お金さえあれば日本とそれほど変わらない生活ができると思った。
 30年前に初めて訪れたマニラでも、それまで私が報道で見知っていたつもりになっていたフィリピンの姿とは違ってびっくりした経験があったので、プノンペンに行った時も、「耳学問だけでなく、行ってみないと分からないことはたくさんあるなあ」という思いを改めて強くした。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

小谷みどり

こたに・みどり 1969年大阪生まれ。奈良女子大学大学院修了。第一生命経済研究所主席研究員を経て2019年よりシニア生活文化研究所所長。専門は死生学、生活設計論、葬送関連。大学で講師・客員教授を務めるほか、「終活」に関する講演多数。11年に夫を突然死で亡くしており、立教セカンドステージ大学では配偶者に先立たれた受講生と「没イチ会」を結成。著書に『ひとり終活』(小学館新書)、『〈ひとり死〉時代のお葬式とお墓 』(岩波新書)、『没イチ パートナーを亡くしてからの生き方』(新潮社)など。


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