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マイ・フェア・ダディ! 介護未満の父に娘ができること

 ジャマイカ出身の父親と、インド出身の母親を持つアメリカ人女性、カマラ・ハリスがアメリカの次期副大統領に選ばれることが確実になった。女性としてアメリカ史上初、しかもマイノリティ出身。選挙権もないのに、私は飛び上がって喜んだ。超大国の変化は、世界に少しずつ影響を及ぼすだろう。願わくば、ここ日本にも。近頃は特権にしがみついてきた爺さんたちの、断末魔の叫びのようなヒステリーばかりが目に付くが、バックラッシュなしに、このまま時代が変わっていくことを願ってやまない。
 4年前、大方の予想に反してヒラリー・クリントン候補が敗れたとき、悔しさで胸がつぶれそうになった。当時、父は「トランプが大統領に選ばれるのは当たり前」と嘯くだけでは飽き足らず、「まさかおまえ、ヒラリーが勝つと思っていたの?」と私を揶揄した。当然、正面衝突だ。電話で大喧嘩したのを覚えている。
 父は、トランプの政策を支持していたわけではない。ファンと言うほうが近い心理状態で、「ああいう愛嬌のある男には、夢を託したくなるもんだ」とまで言っていた。我が家のラストベルトこと父は、トランプの存在に励まされていたのだ。つまり、国のトップが人種や性別であからさまな差別をしても、自分には危険が及ばないことを無自覚に知っていたってこと。失われたマチズモをトランプに投影し、取り戻した気になっていたってこと。
 あれから4年。父と大喧嘩をすることもなくなった。本人にそんな体力がない。4年前も十分爺さんだと思っていたが、近頃は輪をかけて爺さんになった。娘のオバマケアは手厚くなるばかりで、そう反抗的にはなれないのか。さすがの父も、今回はトランプの再選を望まなかったので、私は安堵のため息をもらす。改心したのか、自分も弱者の岸に立つ存在だと気付いたのかは、わからない。
 4年前に比べ、父の体は痩せ細り、体重が5キロ以上減った。一緒に外食するときに食べる量はそう変わらないように見えたが、食事ノートをつけてもらうようになって、初めてわかったことがある。大奥の主が隠居してからの父は、家で1日2食しか食事を摂っていなかった。しかも栄養満点とは言えない内容だ。理由を聞くと、お腹が空かないからとか、めんどくさいから、と言う。肩から胸のあたりにかけて、肉がこそげ落ちたのはそのせいだ。ひとりで食事をする味気なさやさみしさも、食欲減退の一因だろう。いままでほとんど台所に立ったことがないわけだから、調理もできないし。当然と言えば当然の帰結だろう。
 私は父専用ノートを開いた。精神的・肉体的に健やかな独り暮らしを1日でも長く続けるために作成した「やることツリー」を再び睨む。これとは別に父が現時点でできることとできないことをハッキリさせる表も必要だと思った。一旦マクロの視点に戻ろう。
 横長のロルバーンをめくり、白紙ページを上下左右に4分割する。左上のスペースに「できること」と書き、右上には「できないこと」、左下には「危ういこと」、右下には「頼みたいこと」と同様に記す。

【できること】
起床/就寝/自分で食べる/着替え/入浴/排泄/外出/電話とメール
【できないこと】
炊事と後片付け/掃除/整理整頓/衣替え/生活用品の買い物
【危ういこと】
洗濯/運動/栄養管理/連絡事項をメモして記憶する/ラップを使うなどの一部生活動作

 食品用のラップなんて誰でも使えると思っていたが、指先の皮脂と筋力がうんと減った老人には難しいことだと、父の家を頻繁に訪れるようになってから気付いた。目が悪くてラップの始まりがわからないし、わかったところでめくれない。私の当たり前は、もう彼の当たり前ではない。
 作成した表をじっくり眺め、アウトソーシングしたいことを右下に記す。

【頼みたいこと】
炊事掃除洗濯など家事全般/作り置き/食事の後片付け/日用品や生鮮食品の買い物/洗濯や衣替え/運動/大規模な断捨離を含む整理整頓

 さて、これを誰に頼むか。隣の白いページに、今度は「できないこと」と「危ういこと」の項目を誰に振り分けるか記していく。家事代行でまかなえる部分は多いが、365日すべてをアウトソースするのは予算的に無理。一部は頼むとして、父にも自活の術をいろいろ覚えてもらわなければ。よって振り分け先は、父/家事代行サービス/娘の3か所。

【父の担当】
簡単な食事作り/古新聞をまとめる/電子レンジやラップを使うなど生活動作/食器洗い/簡単な栄養管理
【家事代行サービス担当】
家事全般と買い物/見守り/話し相手

 喫緊のミクロ問題は、食事環境の整備だが、家事代行サービスはいくつか試してみないと相性がわからない。一刻を争う問題なので、さっそく自炊を学んでほしいところだが、目玉焼きならまだしも、まともな調理はすぐには無理。そもそも父は肉や魚の品質にうるさいので、団地のスーパーで揃えても食べない。宅配弁当には手も付けないに違いない。さて、どうするか。
 私は父に、いくつかの提案をした。まず、Uber Eatsや出前館で店屋物を試すこと。温かいものなら食べると踏んだ。最初は乗り気ではなかったが、これは生活実験なのだから、ちゃんとレポートしてくれないと困ると伝えると、しぶしぶやる気を出してくれた。Uber Eatsや出前館なら私がオーダーして父の家に届けてもらうことができるので、父が慣れないアプリとにらめっこする必要もない。次に、冷凍食品の試食。出前が難しいとき、レンジでチンすればすぐに食べられる、父の口に合う冷凍食品やレトルトものを見つけなければ。最後に、簡単な調理。父が満足しそうな肉や魚を通販で私がオーダーし、ひとまず冷凍庫に入れてもらう。私が訪れたときに調理することもできるし、薄切り肉程度なら、父もひとりで焼けるだろう。

【娘の担当】
店屋物の手配/冷凍食品とレトルト探し/通販でお高めの冷凍肉や魚を購入して送りつける/二週に一度会いに行く/月に一度外食に連れ出す/栄養教育/大規模断捨離のための業者と家事代行サービスを探して発注/足りないものを買う

「できること/できないこと」の表と、「できないこと/危ういこと」の振り分け表を、先述のツリーと見比べ整合性を測る。LINEビデオ通話を教えれば、食事の作り方を遠隔で教えることもできるかもしれない。問題解決マニアの私は、いつの間にか作業に夢中になっていた。
 翌日。さっそく遠隔Uber Eatsにトライした。池袋の大衆食堂だった時代から一切イメージをアップデートさせていない父を驚かせるために、私は大戸屋でとんかつとポテトサラダとほうれん草の胡麻和え、鶏肉の黒酢あんかけをオーダーした。口に合わなかった場合を考えて多めに頼む。発注して改めて感心したが、配達員がいまどこにいるか、ちゃんと配達が完了したかがアプリで確認できるのが非常にありがたい。料金は私のクレジットカードから引き落とされるので、父はただ玄関で受け取るだけ。シニア向けのプランを立ち上げたら需要はうなぎのぼりだろう。
 ピコンとスマホが鳴り、Uber Eatsから届いた料理の写真が父からLINEに送られてきた。昔は何度やり方を教えてもすぐに忘れてしまったが、最近は日々写真でやり取りをするようになったので、まったく問題がなくなった。私同様、父もやればできる子なのだ。
 30分後、今度は電話が鳴った。
「おい、美味いよ。とんかつも鶏肉のやつも。びっくりだね。温かいし、これならいける」
 なんとも嬉しいことを言ってくれる。娘を落胆させないよう、多少は盛ってくれているのだろうけれど。
 気を良くした私は、別の日に天丼てんやから上天丼をUber Eatsした。これも好評。ならばこれはどうだと、宅配ピザにもトライ。父の好きなアンチョビとオリーブを追加で乗せて。果たして父の反応は…。
「残念、これはダメです。美味しくない」
 すがすがしいほど忖度ナシ。和食のほうが口に合うのかもしれない。
 冷凍食品は、私が作ってみせた。まずは炒飯と餃子。
「悪くないけど、また食べたいとは思わないね」
 轟沈。しかし、餃子はやや気に入った様子で、そのあとも一人で作って食べていた。冷凍食品のほうれん草は口に合わず。アマノフーズのフリーズドライ味噌汁は完食。レトルトのカレーは辛すぎてどれもダメ。
 通販で送った冷凍の肉とホタテ。かなりの高級品だ。解凍後、火の扱いに問題がないかを確認するため、私の目の前で肉を調理してもらう。ブツブツ言いながら、慣れない手つきで菜箸とフライパンをゆする父。危なかったらコンロをすべてIHに代えてしまおうかと思っていたが、これなら大丈夫かも。味はいつもの「まあまあ」だったけれど。
 食事について、だいたいの見当がついた。私は胸を撫で下ろす。とりあえず、これで死ななくて済む。いまはそれで十分だ。

つづく

(「波」2020年12月号より転載)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

ジェーン・スー

1973年、東京生まれの日本人。作詞家、コラムニスト、ラジオパーソナリティ。TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」のMCを務める。『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』(幻冬舎文庫)で第31回講談社エッセイ賞を受賞。著書に『私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな』(ポプラ文庫)、『生きるとか死ぬとか父親とか』(新潮文庫)、『おつかれ、今日の私。』(マガジンハウス)、『闘いの庭 咲く女 彼女がそこにいる理由』(文藝春秋)など。

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