何度もあちこちで書いたり話したりしたことだが、私は人生最初の記憶が小児喘息の発作で、絶息状態になって目の前が真っ赤になるという、実に筋金入りの虚弱児である。
小学校の卒業式の日、最後のホームルームで、6年間の「皆勤賞」と「精勤賞」という、ろくでもない名前の表彰があったが、いつもつまらぬことを言っていた担任が、この時も「では、一番休んだのは誰かと言うと……」
と笑いながら、
「南くんの28○日です!(280までは確かだと思う)」
と発表して、クラスがどよめいたことを覚えている。私もびっくりした。6年のところを、ざっと5年で卒業したのである。
そういうわけで、背ばかり伸びたが、極端に痩せていて、体力がまるで無く、通信簿の体育は2の常連であった。とにかく一週間を無事に務めるのが容易でなく、まさにおっかなびっくり生きている感じであった。
ところが、小学校卒業前に出会った専門医が優秀で、私の喘息は完治した。その後中学でも虫垂炎で開腹したり、胃弱のくせに不摂生で胃潰瘍になったりしたが、気がつくと病院と縁遠くなっていた。
「お前、最近病気しなくなったな」
父親に言われたのが高校の頃で、大学生と会社員の生活を上の空で生きていたら、結果的に何事も無かった。
それどころか、ある時、会社の上司から突然、
「南くんは、丈夫だよね」
当時バブル経済のトバ口で、会社は例の「24時間戦えますか」状態であり、体を壊す者もいたのである。考えて見れば、虚弱な私が最初に脱落して当然だったのに、生れて初めて他人から「丈夫」と評されたのだ。衝撃であった。
その元虚弱児童が、こんどはついに「鬼僧堂」とも言われた永平寺に入門した。母親は泣いて止め、父親が最後まで渋ったのは、結局は私が「体が弱い」からだった。
ところが、入門して5年経った頃、ついに「南さんはタフですね」と、信じがたい言葉を聞くことになる。
入門したてで脚気になって2か月入院。その退院直後に、鐘を鳴らし忘れて全力疾走で御堂に向かったら、暗闇で見えなかった鴨居にカウンター気味に激突し、場外乱闘のプロレスラーよろしく額が割れて血まみれになり、また病院送りになった。
先輩の古参和尚たちが「もうアイツは戻って来ないだろう」と、出来の悪い新入りが片付いてよかったなと思っていたところに、頭を包帯でぐるぐる巻きにした私が再び現れた。
「ゾンビ」というのが、この時の私に付いた綽名である。
古参和尚の間では、
「アレはなんだか薄気味悪いヤツだから、もう放っておこう」
ということになり、私は急に怒られなくなった。後日、先輩から聞いた話である。
「暗闇に立ってる包帯ぐるぐるは、怖い」
その後、「ゾンビ」は「ダース・ベイダー」にまで昇格したのだから、考えて見れば大したものである。
自身が古参になると、いつの間にか、それまで修行僧が誰もしなかった、あるいはしようとしなかった、したくなかった仕事が回ってくるようになった。
海外の修行僧や訪問者との付き合い、マスコミへの対応、修行僧間に生じた問題の解決、寺にいきなり来る「変な人」の相手等々。
いずれもストレスフルなことばかりで、修行道場の毎日の中で、簡単に処理できるものではない。私は日々、修行のルーティンと特殊な仕事の段取りを折り合わせるのに、かなり苦労していた。そういう私の姿を見ていた後輩が、ある日ぽつりと、
「南さんて、タフなんですね」
「タフ」なんて言葉を我が身に聞くことになろうとは、まさに「お釈迦様でも……」と言うべきところである。
「タフ」も驚いたが、これまでに言われて最も魂消たのは、
「南さんって、“コミュ力”高いですよね」
という一言である。
人の相談事に応じるようになってから、ある若者と話をしていて言われたのだが、最初は何のことかわからず、「コミック力」と誤解して、面白いことを言う能力かと思っていた。それが「コミュケーション能力」のことだとわかったときは、さらに何のことかと思った。今もわからない。
おそらくは、相手の気持ちを汲み、こちらの考えを伝える、意志疎通の能力のことなのだろうが、これを「能力」というところに、流行り言葉らしい安直さがある。
こんなことは能力の問題ではない。試行錯誤の繰り返し、端的に言えば度重なる失敗の経験が、それなりの意志疎通の仕方を教えるだけである。
「コミュ力」などと言い出すのは、意志疎通での失敗を過剰に怖れる連中か世代が、この困難を「能力」の問題に矮小化しているのだろう。が、これは能力の問題ではない。失敗と反省の量の問題である(「自閉症スペクトラム」などとされるケースは、また別の話)。
ただ、他人には私が「コミュ力が高い人」に見えるらしい。どうしてか?
そう考えてふと思いついたのが、私の「虚弱児童歴」である。
幼児時代から体力的に無理で、できないことの多かった私は、まず自分に「できること」と「できないこと」を峻別して、「できないことは仕方がない」と即断で諦める癖がついていた。
その上で、「できること」には手を抜かなかった。「できないこと」の方を相手に許容させるためである。
この時大事なのは、「なぜできないか」を、きちんと言葉で伝えることである。実際言うのも恥ずかしいことではあったが、私は「できない」責任のように考えていて、これに関しては正直であった。
同時に、自分に「できること」を切り出して来るには、相手の言い分をなるべく正確に理解しなければならない。度重なる失敗を通じて、その理解に努めた結果、私はいつしか「饒舌な割に聞き上手」という、妙な「コミュ力人間」になった、ように思われる。
私に言わせれば、「コミュ力」など要らない。というより、そんなものは幻想である。必要なのは、「この人なら話してみよう」「この人の話なら聞いてみよう」と相手に思われるような、ある種の正直さである。意志疎通の土台には信頼がある。そのまた土台が正直さなのだ。
正直さは能力ではない。人間関係の失敗と、その失敗の反省の深さから生まれる態度である。つまり、それは孤独から生まれる。孤独を知らない者は、正直にはなれない。
したがって、「友達」の多さは「コミュ力」とまるで関係がない。「友達」と呼ばれる者の90パーセントはいなくて構わないからである。どうでもよい友達を増やしたところで、「コミュ力」も何もないだろう。
ということは、「友達」が少なくても何ら問題はないということである。
私は、友達らしい友達が誰もいないまま、今年64歳。いまや年季の入った「タフ」である。
-
-
南直哉
みなみ・じきさい 禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)、『死ぬ練習』(宝島社)などがある。
この記事をシェアする
「お坊さんらしく、ない。」の最新記事
MAIL MAGAZINE
とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
-
- 南直哉
-
みなみ・じきさい 禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)、『死ぬ練習』(宝島社)などがある。
連載一覧
著者の本

ランキング
ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら