シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

安田菜津紀の写真日記

わずかに残るイチゴの花たち。周囲には微かにまだ、硫黄のにおいが立ち込める。

 曲がりくねった迂回路を突き進み、木々のトンネルを抜けきると、目の前が突然開け、視界が一気に青一色となる。真下に広がる金色に染まり始めた田を同時に眺めながら、「まるで宙に浮かんでいるようだ」と、空の広さにいつも息をのむ。
 全身を包み込んでくれるような阿蘇の豊かな風景は、一見以前と変わらないものに見えた。噴火口からの煙も、今は落ち着いているようだ。ところが国道を阿蘇神社に向けて進んでいくと、突然風景に色彩がなくなった。ホースやホウキを片手に、ヘドロのような灰色の物体を洗い流す人々の姿が目立つ。風向きもあってか、火山灰の深刻な被害は小さな地域に集中していた。
 「いらっしゃい!うちでは何でも手作りなのよ!」搾りたてのトマトジュースで出迎えてくれたのは、ここで農家を営む岡田留里子さん。太陽のような笑顔は、自然の恵みを育て続けてきた母の顔そのものだった。
 留里子さんの案内で、イチゴを育てていたビニールハウスへと向かう。つい数日前まで青々とした苗が広がっていたであろうハウスの中には、まるで焼け焦げたように真っ黒の葉が、灰色の土の上に力なく並んでいた。触れると手の中でパリパリと音を立てて粉々に崩れていった。わずかに残る小さな花たちが、「生きたい、生きたい」と訴えかけているかのようだった。洗えば落ちると思っていた灰は予想以上に粘り気が強く、その後降り注いだ雨でも流れてはくれなかった。ここまでの降灰は留里子さんにとって初めてのことだけに、途方に暮れているという。
 「次の出荷こそはって、本当に張り切っていたの」。明るくふるまう留里子さんも、流石に肩を落とした様子だ。あの熊本地震が起きたのは、春先のイチゴの出荷の真っ最中だった。輸送ルートが断たれただけではなく、自身も車中泊の生活が続いた。真っ赤なイチゴをそのままにするしかなかった悔しさが胸に残る。だからこそこの次にできるイチゴには再起をかけていた。土壌を消毒し、熊本の新種でもある「ゆうべに」も取り入れた。
 イチゴの根が深くはるには、ある程度の涼しさに保つ必要がある。今年は特に気温が下がるのが遅かった。いよいよ来週にはハウスにビニールを張ろう、と思っていた矢先の噴火。11月に控えた出荷を、今か今かと待っていたときだった。
 それでも、自然と共に生きていく決意は固い。「どうして何度災害が起きてもここに暮らすの?ってときどき聞かれるの。でも私、ここで眺める空も自然も、大好きなのよ」。これだけの被害を受けながらも、留里子さんが気にかけていたのは、自身が受けた被害以上に、阿蘇の復興そのものだった。「阿蘇の農作物が壊滅したわけではないの。まだまだこれから新鮮な作物の出荷を控えている農家さんたちがたくさんいて、“これはおおごとだ”で終わらせてはいけないと思ってる」。この地の恵みに、一人でも多くの人に触れにきてほしい。きっと心癒されるから。そう語る留里子さんはまたいきいきとした顔に戻る。

 そんな留里子さんへ。

 実はあの時言えませんでしたが、私は元々トマトがちょっぴり苦手です。でも留里子さんの搾りたてトマトジュースは、生まれて初めて美味しいと思えたトマトジュースでした。だからきっと留里子さんのイチゴも飛び切り美味しいんでしょうね。そんなトマトに負けないくらい真っ赤になったイチゴがあのハウスを彩る日を、心待ちにしています。

作業をする間にも、絶えず心配する友人、知人たちの電話が留里子さんのもとにかかってくる。
君とまた、あの場所へ―シリア難民の明日―

君とまた、あの場所へ―シリア難民の明日―

安田菜津紀

2016/04/22発売

シリアからの残酷な映像ばかりが注目される中、その陰に隠れて見過ごされている難民たちの日常を現地取材。彼らのささやかな声に耳を澄まし、「置き去りにされた悲しみ」に寄り添いながら、その苦悩と希望を撮り、綴って伝える渾身のルポ。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

安田菜津紀

1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

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