いつの頃から言われ始めたのか知らないが、私がどうしても苦手で馴染めない言葉に「プラス思考」というものがある。これをやたら連発するのは、多くの場合中年以上の男で、女性や若者から聞く頻度は、私に関する限り少ない。
類語に「ポジティブ」「前向き」などがあるが、これも我が物顔に言われると辟易するしかない。
以前、某ホテルの喫茶店で人を待っていたら、隣の席に同僚らしき男が二人、差し向かいで座っていて、年配の方が若い方に、「プラス」関係を乱射していた。
「だからさあ、そこはプラス思考で行こうよ。何事も前向きでやらんと、君みたいにネガティブに考えてたら、先に進まんもん」
「はあ……」
「ダメ、ダメ! 変に考えすぎると、マイナスだよっ!」
「ただ、対案を出すとき、もう少し詰めておくべきだったと……」
「それは済んだこと! もう次を考えんと! ポジティブにいかんと!!」
若い方は、落ち込んでいるようにも、後悔しているようにも見えなかった。彼は反省していたのである。その「反省」に対して、中年は、とにかく「次」に向かって、プラスでポジで、前に出ろとまくし立てるのだ。
私は別に、「ネガティブ」が良いとも、「マイナス思考」が大事だとも、「後ろ向き」が必要だとも思わぬが、他人の「反省」を無にしてまで、何故に人が「プラス」関係にこうも自信満々なのか、理由がわからない。その「プラス」とは、いったい何を意味しているのか。
思うに、それは「もうけること」「稼ぐこと」「得をすること」であろう。「ポジティブ」も「前向き」も基本はそれである。より大きく稼ぐために「ポジティブ」で「前向き」でなければならない。
いや、「人間的な成長」や「社会人として認められる」ためだと言う御仁もいよう。気持ちはわかるが、当節では「成長」も「認められる」のも、それを計測する「ものさし」は儲けと稼ぎ、すなわち金である。
それなりに真面目な「反省」が、「マイナス思考」で「ネガティブ」で「後ろ向き」にしか見えないのは、本来なら計るべきでないところを、金で計るからである。当節、人を「人材」と呼んで憚らないのは、我々の思考と心情が、市場経済の金回りの中にドップリ浸かっている証拠だ。
「夢」や「希望」を喧伝する、それこそ夢のように馬鹿気た話を、若いころに何度も聞かされたが、この「夢」「希望」噺の元ネタは投資である。
投資は時間差で儲ける。将来の儲けを当て込んで、今ある金をつぎ込む。将来の理想のため、今ひたすら努力しろと言い募るのは、先の大金を期待させて、いま手元の金を使わせて儲ける金融会社と同じで、「夢」で気を引いて、現在の「努力」を絞る誰かがいる証拠だ。その「洗脳」の結果、休日を「スキルアップ」のため「自分に投資」する者まで出てくるのである。
儲けは、時間差だけではなく、空間差でも生じる。交易である。交易は、こちらに無いものがあちらに有り、こちらに有るものがあちらに無いという、その「差異」で儲ける。
この儲け方が頭に染み込んで人間関係に当てられると、「個性は大事だ」というシュプレヒコールになる。まるで「個性」という物がどこかにあって、それが各自の「中」に詰まっているような言い草だが、埒もない錯覚に過ぎない。
「個性」などというのは、同じ物事に対する態度の違い、取り組み方の違いなどを通じて、結果的に現れるものであって、多くの場合、他人から言われて気が付くものである。
いきなり「私の個性は……」などと堂々と言い出す者がいるとすれば、おそらく勘違いしたナルシストくらいであろう。
この「個性」は最近さらに市場化している。時々会話に、「私の売りはですね……」というセリフを聞くことがある。この「売れる」個性が「キャラ」だ。
「〇〇って、私たちの中では、癒し系キャラだよねっ!」
おそらく、「人材」に市場があるように、いまや友人関係にも「友人市場」があるだろう。そこでの「人材」が「キャラ」だから、一度「癒しキャラ」に就職したら、その友人関係にある間は、割り当てられた「キャラ」をお勤めすることになるのだ。
もはや市場が社会を規定している以上、そこから離脱することはできないし、後戻りもできまい。が、市場は「閉まる」ことがある。ならば、我々も頭の「市場化」を時々止めるべきではないか。
「プラス」でも「マイナス」でもない「ゼロ」の思考。「ポジティブ」でも「ネガティブ」でもない「ニュートラル」な在り方、「前向き」でも「後ろ向き」でもなく、そこに「止まる」こと。私は時々、と言うよりは定期的に、それが必要だと思う。
「プラス思考」で「ポジティブ」で「前向き」な人は、そうである限り、そうさせている「ものさし」の正しさを疑わない。そして、その道具がいつでもどこでも通用すると信じがちである。そこが危ない。
この世の信じがたい厄災は、これら「プラス」関係の行動から出る。「反省」に乏しいから微調整も効かず、一度方向がズレると、取り返しがつかないところまで行くことになる(某大統領の蛮行を見よ)。
「ゼロ思考」は「思考ゼロ」、つまり考えないことではない。損得でものを見ないこと、自分の「見たいもの」を見ようとしないこと、そのものを「見る」のではなく、そのものが「見える」ようにすること、である。その先を行けば、禅門で言う「非思量」(註:物事を自分への問いかけと受け止めて、安易に答えを出さず、そこにとどまること)の境地があるだろう。この「非」が「不」でないところが肝心なのである。
「ポジティブ」でも「ネガティブ」でもなく「ニュートラル」であるには、要するに「いい加減」にしておけばよいのだ。手を抜けと言っているのではない。「火加減」「水加減」が難しいように、「加減」には注意深さと手間が要る。
結論を急がず、「様子を見る」「時期を待つ」ことも立派な「加減」の策である。そして、「反省」は「加減を見る」には欠かせない手間なのだ。
「前向き」も「後ろ向き」も通用しない時は、止まる以外にない。止まらない限りは見えない風景がある。それは足元であり、現在地である。行先を選ぶには止まるしかない。何のために儲けるのかを考えるには、儲けることを一度止めるべきである。そうしない限り、儲ける意味はわからない。
金自体に意味がない以上(メモにも使えぬ紙を貯め込んでどうするのだ。今や液晶の数字か)、止まる習慣が無ければ、道を間違えることは必定であろう。
「ゼロ思考」「ニュートラル」「止まる」を全部まとめて実践すれば、「休む」、ということになる。わが道元禅師は「万事を休息す」と教えた。万事である。これは難しい。それには休む覚悟とテクニックが不可欠だ。
そのテクニックが「坐禅」だと、禅師にならって持ち出したら、あざとい「プラス思考」になってしまうかな。
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南直哉
みなみ・じきさい 禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)、『死ぬ練習』(宝島社)などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
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- 南直哉
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みなみ・じきさい 禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)、『死ぬ練習』(宝島社)などがある。
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