朝、体の芯までじわじわと届く寒さで目を覚ます。シリア北部、トルコ国境を目の前にするコバニの街は、天気がいい日は雪を被った山の頂が望める。電気の供給が安定せず、暖房のない朝は友人の淹れてくれるあつあつの紅茶が体に染み渡る。窓から街を眺めながら、通りを行き来する人々に「おはよう」と心の中で語りかける。
街は2014年9月からの戦闘で、ISに包囲され陥落一歩手前まで追い詰められた。クルド人部隊が何とかそれを押し返したものの、ようやく平和を取り戻したかに見えた街で今度は、クルド人部隊を装ったISの兵士たちが巧みに検問を越え、市民たちを虐殺する事件が起きた。息を吹き返しつつある街並みの中でも、いまだ誰しもが何かしらの傷を抱えながら生きている。
「昔、勉強のために首都にいた頃は、“コバニってどこ?”と聞かれて、いちいち説明しなければ伝わらなかったんだ。あの戦闘が世界中で報じられた後、今ではこんな冗談がある。“シリアってどこ?ああ、コバニの南だね”って」。そんな風に有名になるのは複雑だけど、と街に暮らす青年は曖昧に笑った。
ISが去った後も決して平穏な日々が戻ってきたわけではない。米軍の撤退表明後、クルド勢力の拡大を恐れるトルコが再び越境攻撃をしかけるのではと、人々は懸念を強めている。昨年の3月には既に北西部の街アフリンが制圧され、事実上トルコの支配下にある。「明日俺たちがどの街で何の任務にあたるのか、すべてはトランプのTwitter次第だな」。クルド人部隊の指揮官の一人が皮肉を込めて苦笑いした。たった140字の言葉に左右されるんだ、と。人々はいまだ、自らの力ではどうにも届かない巨大な流れに翻弄され続けている。
私たちの取材に協力してくれた若き友人も、この街で生まれ育ち、そして街が追い詰められている最中も、トルコ側に逃れずとどまり続けた一人だった。地元メディアで活動していた彼だからこそ、肌身で人々の悲しみを感じてきたはずだ。それでも伝える仕事に携わり続けるのはなぜなのだろう。「たとえ自分の家が壊されても、それで戦闘が終わりに近づくなら歓迎だった。まるで家族のような仲間も常に傍にいた。幸せとは、どんな時も希望を失わずにいることだ」。彼は静かに、けれども力強く答えてくれた。
彼と同じように地元のメディアの一つであるラジオに携わっていた女性は、復興の道のりをこう表現した。「人々はこの街の花だから、私たちの手で水を注ぎ続けるの」。
今、その水脈は国境を越え、世界とつながっている。再び芽吹き始めた花たちが枯れることなく育まれるよう、日本から今日も「おはよう」と呼びかける。
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安田菜津紀
1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 安田菜津紀
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1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。
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