俺はメリーランド大学カレッジパーク校に大学院生として1983年の夏から5年半ほど留学していた。最初の3年ほど、非常によく勉強した。浪人時代、代々木ゼミナール原宿校でも非常によく勉強したが、そのときの勉強とは質が違う。異国の大学院での勉強は、なんというか、暗闇の格闘技というか、丸腰の決闘というか、まあこちらには全く勝ち目のない戦いであった。忘れられない先生が何人かいる、と書いたところで、ほとんどが忘れられない先生であることに気がついた。思いつくまま書いてみる。
正式に大学院生になって初めて履修した講義が、ビル・ホドス先生の「比較神経解剖学」である。この講義でホドス先生は、ヤツメウナギ、タイ、カエル、トカゲ、ニワトリ、ラット、サルなどの脳標本を持ち込み、それらの動物の脳の対応部位を説明するのであった。俺たち学生は、ひたすらノートを取るのであるが、絵を描いたり字を書いたり大忙しだ。当時、比較神経解剖学の教科書なんてなく、ホドス先生の語りだけが頼りだった。俺はこの講義をすべて録音して、1回の講義を平均6回は聴いてノートを作った。ホドス先生は、平均して3回に一度の割合で抜き打ちテストをやった。ある日のテストでは、いろいろな動物の延髄(脳の下のほう)にある神経核(神経細胞の塊)の名称と形態を問われた。俺はほとんど手も足も出ないで、いっそダルマの絵でも描いてやろうかと思った位だが、おとなしくでたらめな絵とでたらめな名称を書いて答案を提出した。
その3日後くらいであったか。俺はホドス先生の居室に呼び出された。俺の知る限りみんなそうだったが、当時、教授室には前室があり、秘書がいておもに論文をタイプしていた。やがてホドス先生の部屋のドアが開き、「入ってこい」と言う。仕方がないので入っていった。先生は俺にテストの答案を見せ「これはおまえの答案か」と聞く。いかにも俺の答案なので「はい」と言うと、「私はこんなものは二度と見たくない」と言いながら、俺の答案をビリビリに破いてゴミ箱に捨てた。そして「一週間後、またここに来い。再テストをやる」と俺は宣告されたのであった。
俺はその後の一週間、ひたすらヤツメウナギ、タイ、カエル、トカゲ、ニワトリ、ラット、サルの延髄の形態と神経核の名称を記憶した。もちろんただ覚えていてもだめで、それぞれの動物で異なる名称の神経核がどう対応し、どのような機能を持つかも学習せねばならなかった。一週間後、俺はホドス先生の部屋を再訪し、前回同様秘書室で待たされ、そして試験を受けた。先生はその場で答案をざっと見るとC+と書き、「よくやった。次はないぞ」とねぎらいの言葉をくれた。その日俺はなにもせず俺の小部屋があったレッドスキン・ハウスに帰り、ひたすら眠ったのであった。
その2年後、今度はホドス先生の「比較神経解剖学実習」という授業を履修することになった。今度は、ラットの脳をロウソクで固めて、ナイフで薄く切り、有機溶媒で脂肪を落とし、青い染料で色を付け、ガラスに挟み、そしてスケッチしたものを提出するのであった。実習に疲れた俺と、同僚のトムは、クルミを割って食べていた。「クルミって脳に似てないか?」と俺が言うと、トムは「似てる。標本作ろうぜ」と言う。俺たちは疲れていたのだが、クルミの標本を作るという考えにとりつかれてしまった。クルミをロウソクで固め、ナイフで薄く切り、有機溶媒で脂肪を落とし、青い染料で色を付け、ガラスに挟み、顕微鏡で観察していると、タイミングの良いことにホドス先生が入ってきた。
「おう、君たち熱心だね。調子はどうだい」とねぎらいの言葉をくれた。トムはあろうことか「はい、先生、俺たち、アフリカの友達からもらったアフリカ砂ヘビの脳を観察しているんです」などとアドリブでいい加減なことを言う。先生は「どれどれ見せてごらん」と顕微鏡の前に座った。俺とトムは目を合わせて「万事休す」の信号を交換しあった。ところがホドス先生は「うーんこの標本は染色が強すぎるな」とおっしゃる。俺は「縦断面に切りました」とそれがクルミであること以外は本当のことを言った。先生は「そんなことはすぐわかる。それにこれはは虫類の脳に特徴的な構造をしている。とにかく、脱脂をちゃんとして、染色をもう少し薄くしたまえ。がんばれよ」と言って出て行ってしまった。俺とトムは、青い顔をしながら「いい加減なこと言うなよ」と罵り合った。そして罵り合いに疲れると「このことはお互いが大学に職を得るまでは秘密にしような」と誓いあった。
ホドス先生はその後「アフリカ砂ヘビの脳・実はクルミ」の標本の件については蒸し返さず、一方、俺とトムは、ホドス先生に会う度にそのことを叱られるのではないかとびくびくしながら、残りの大学院生活を送った。俺たちが卒業して5年後くらいに、ホドス先生はあの講義をもとに比較神経解剖学の教科書を著された。今でもその教科書がほぼ唯一の比較神経解剖学の教科書である。
あれからなんと30年以上が経過した。俺はこの話をホドス先生に白状して許しを請いたい気持ちでいる。しかしホドス先生のことだ、今でも真っ赤な顔になって怒るのではないだろうかと心配でもある。でも実は、ホドス先生はあれがクルミであることなどその場で見抜いていたのではないかとも思う。幸い、俺もトムも大学に職を得ることができた。明らかにホドス先生のおかげなのだ。試験は厳しかったが、いたずらには寛容な先生であった。
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岡ノ谷一夫
帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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