俺のいたメリーランド大学心理学研究科では、社会心理学か産業心理学かどちらかを履修せねばならなかった。社会心理学のほうが少しは基礎的であろうと思い、そちらを履修することにした。担当はヘル・シーガル先生。ちょっと危険そうな感じのする先生だったが、まあ大学教員なんてそんなものであろうと高をくくっていた。ところが、2年先輩のトムから「あいつ危ないから注意しろよ」と言われ、注意はするに越したことはないくらいの気持ちで講義に出始めた。
最初のころはよかった。慶応大学の学部生のころは行動主義心理学全盛期で、普通の社会心理学を学んだことなどなかったので、新鮮な気持ちで勉強していた。
ハイダーのバランス理論。自分ともう一人(利休としよう)の関係において、私が利休を好きで、利休がお茶を好きならば、私もお茶が好きなほうが関係は安定する。私が利休を嫌いで、利休がお茶を好きならば、私はお茶が嫌いなほうが、関係が安定する。私が利休を好きで、利休がお茶を好きなのに、私がお茶を嫌いだとこれは不安的である。私がお茶を好きになるか、私が利休を嫌いになるかしかない。好きをプラス、嫌いをマイナスで表すと、三者関係をつなぐ好き嫌い感情のかけ算がプラスになることが大事だと言うことだ。まあ、そりゃそうだろう。理論なんて言うのは大げさだな。
フェスティンガーの認知的不協和理論。壁にペンキを塗れと言われた子どもは、そのことでお小遣いがもらえない場合には壁塗り自体を楽しむようになるが、お小遣いがもらえる場合、壁塗りは楽しくない。お小遣いがもらえない場合、ペンキ塗りがつらい仕事だとすると、自分はただ搾取されているだけであるから、むしろペンキ塗りが楽しいと思い込んだほうがよい。お小遣いがもらえる場合、自分はお小遣いのためにペンキを塗っているのだから、ペンキ塗りはつらい仕事である。このように、人間は心の中の認知的命題に整合性があるように認知を代えやすい。これをうまく利用すると、トム・ソーヤーの冒険のように、友達にペンキ塗りをさせて、おやつをもらうことさえできる。まあ、そりゃそうだろう。これも理論なんて言うのは大げさな気がするぞ。
どちらの理論も、人間は心の平静を保つように認知の仕方を調整するというものだ。認知的不協和理論のほうがバランス理論より一般性が高そうだな。大学院生で生意気盛りの俺は、こんなことをやるのが社会心理学かよ、と内心軽蔑した。軽蔑している学問を勉強しないのは認知的不協和理論で説明できるので、俺の行動は実は理論通りであった。後年俺は、認知的不協和理論が意識の起源にもつながるのではないかと考え、その奥の深さに感銘したが、このころ俺は若くて馬鹿で無謀であった。
そこで、俺は無謀にも、シーガル先生に質問をした。「認知的不協和理論は、プレマックの原理で説明できるのではないですか?」と。プレマックの原理とは、行動主義心理学の理論の一つである。「動物の状態に応じて、生起頻度がより高い行動は、生起頻度がより低い行動の報酬となる」、というものだ。わかりにくいな。あるハムスターが、喉が渇いているとしよう。このハムスターは、回し車を20回まわすと水が1滴飲める。するとハムスターは水を飲むために回し車をまわすであろう。喉が渇いたハムスターにとって、水を飲む行動の生起頻度は高い。喉が渇いていないとき、回し車をまわす行動の生起頻度は低い。だから、このハムスターは、水を飲むために車をまわす。でも逆も考えられる。運動が制限されたハムスターは、水を飲めば2分間運動できるとすると、頻繁に水を飲むであろう。この場合、水を飲む行動が、運動するという報酬につながるということだ。
通常、ペンキを塗ることでお菓子をもらっていた子どもでも、ペンキ塗りの機会がまったくない場合、友達にお菓子をあげてでもペンキを塗りたいのではないか。このような説明のほうが、「心の安定」などという測定しにくいものより明白な説明で実験も可能なのではないか。俺は無謀にもそう思って、質問したのである。
俺の質問に、シーガル先生はうぐわがぐわ、みたいな言語とは思えぬ音をいくつか発し、講義を打ち切った。俺は何か悪いことをしたのか。級友に尋ねると「社会心理学の概念を行動主義で説明しちゃまずいでしょ」と言われた。でもそのくらいで講義を止めてしまうのは、止めてしまうほうが悪いと俺は無謀にも思っていたのだ。
その後何度かの講義があり、俺も面倒なので質問するのは止めた。そして期末試験があり、ホドス先生の講義とは異なり、まあまあの答案を書いたつもりだった。ところが成績はDであった。この大学では、Dを取ると放校処分である。通常、ホドス先生がやってくれたように、Dをつける前になんらかの救済措置があるはずだ。なのに俺はだまってDをつけられてしまった。あの質問がそんなに悪かったのか。
そして教員会議がもたれ、俺の処遇が議論されたらしい。俺の指導教員であるボブによると、級友の証言などもあり、また、俺の答案を別の教員がチェックするということもなされ、俺の成績がDなのはシーガル先生に非があるという判決が下されたそうだ。ところがシーガル先生は俺の成績をつけ替えることを拒否したので、俺は社会心理学の代わりに産業心理学を履修せねばならぬことになった。まあ良い。今放校されても困る。
俺はおとなしく、キャサリン先生の産業心理学を履修することにしたが、毎週500ページほどの論文(もちろん英語だ)が宿題に出て、俺はいかに最小限の努力で論文を読んだふりをするかという技術を学んだ。たとえ英語母語話者でもあれだけの宿題を誠実に読み込むことは不可能であろう。だから、あの講義は論文から効率よく重要な情報をいかに抽出するかを学ぶ講義だったのだ。彼女は俺にBをつけてくれた。ありがたや。
ところが俺が産業心理学を履修している間にも問題は続いていた。研究室にへんな電話がかかってきたのだ。その電話はしばらく無言で、その後「うおーくわぬおーゆあ、うおーくわぬおーゆあ、うおーくわぬおーゆあ」と呪いの文句が繰り返される。気持ち悪いのですぐ切ったが、何回もかかってくる。この電話がかかってきたとき、たまたま指導教員のボブがそばにいたことがあり、ボブに電話に出てもらった。電話の主は「うおーくわぬおーゆあ」を繰り返したそうで、ボブによるとこれは「おかのや」と言っているそうである。そしてこの声は、恐ろしいことにシーガル先生であるということだ。教員会議で威厳を著しく傷つけられたシーガル先生の、これはささやかな報復なのであった。
不幸の電話はひと月あまり続いた。俺はその間、早めに帰るように心がけた。強がってはいたものの、やっぱり気持ち悪かったのだ。当時、教員による学生いじめに対応する手段はあったはずだが、「うおーくわぬおーゆあ」という嫌がらせ電話ではレベルが低すぎてどうにもならなかったようである。他の教員もシーガル先生が少々変わった人であることを知っており、まあ大事に至らず終息するであろうと判断された。実際そうなったわけだが。
俺もまた、この一件を教員の学生いじめとして処理するのは良くないと思った。当時、行動主義心理学が批判され始めており、心理学である以上、心的な過程も大切にすべきであるという考えが力をつけてきた。俺はシーガル先生が大切にする社会心理学の理論を行動主義心理学で汚したのであろう。この時代、研究者は自分が信奉する理論に誠実だったのだと思うと、シーガル先生を憎む気持ちは俺には生じなかった。気持ち悪かったけどね。
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岡ノ谷一夫
帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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