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お坊さんらしく、ない。

2022年11月7日 お坊さんらしく、ない。

十九、猫と草履の禅問答――「真理」への欲望

著者: 南直哉

 昔、中国に高名な師家(しけ)(禅の指導者)がいた。その下には大勢の修行僧が集まり、東西に僧堂を構えるほどであった。

 ある日、そこに可愛い猫が迷い込んで来た。東西の修行僧は、その猫を自分のところで飼おうと争って、大騒ぎになった。子供じみた所業だが、いつの時代にも実際、山奥の道場の修行僧には、そういう無邪気さがあるものである。

 騒ぎに気付いた師家は、修行僧が猫を争う有様を見て、いきなりその猫の首を掴むと、自分の前に集まって来た彼らに向かって突き出し、

「何か言ってみろ。言えれば、この猫は斬らずにおく」

 並みいる修行僧には一言もなかった。そこで師家はこの猫を一刀両断にした。

 そこへ、外出していたもう一人の修行僧が帰って来た。師家は、事の次第を説明して、

 「お前なら、何と言う?」

 問われた修行僧は、すぐに草履を脱いで、頭に載せて出て行った。

 それを見て、師家が言った。

 「お前がいたなら、あの猫は救えたのに」

 この話は禅宗ではとても有名な問答で、三島由紀夫の傑作『金閣寺』にも登場する。古来その解釈も様々だが、私はこの猫を「真理」の喩えだと思う。

 我々は「本当のこと」「絶対に正しいこと」「永遠に変わらぬこと」を求めて止まない。

 東西の修行僧の争いは猫を手に入れるまで終わらない。

 では、仮に「真理」が手に入ったとして、それがどういうものか、正しく認識し説明できるか。師家の「何か言ってみろ」は、それを問うている。

 「本当」でも「絶対」でも「永遠」でもあり得ない人間には、そういう「真理」が何であるか認識できないから、修行僧は黙る他はない。

 ならばそんなものを争うのは無意味だろう。だから、師家はその争いの元を断ったのだ。 

 ところが、帰ってきた修行僧は師家の問いに奇矯な振る舞いで応じた。なぜか。

 この修行僧は、それを争うも断つも、そもそも「真理」なるものを設定する考え方を放下したのである。議論の土俵を降りたのだ。いわば、はぐらかしたのである。

 だから、答えは草履を頭に載せるのでも、逆立ちするのでも、放尿するのでも、何でもよい。それを師家はわかっているから、「お前がいたら」と言うのである。

 因みに、道元禅師は、この問答について、師家の手並みは見事だが、猫を斬るようなことは、やらずにすむならそのほうがよいと述べている。さすがと言うべきである。

 昨今の世上では、しばしば「分断」という言葉が語られる。それは多く、イデオロギーや信仰をめぐって起こる。

 このとき、浮上している問題を、信仰やイデオロギーが主張する「真理」を振りかざし、是非善悪だけで論じようとすると、もはや「分断」で停止したまま、事は全く動かなくなる。

 たとえば、ある国で近々に行われる選挙では、人工妊娠中絶が争点になっているらしい。「キリスト教右派」と呼ばれる人々は、それを「罪」だと言うだろうし、他方、「リベラル」とされる人々は「権利」だと主張する。「罪」と「権利」に分断してしまっては、もう妥協のしようもない。

 ただ、思うに、望まぬ妊娠に対する中絶は、「罪」と言わないまでも、無いにこしたことはないだろう。また、生まれてくる子には、出自に責任がない以上、もし生みの親に育てられない事情があるなら、子の将来は社会的に保証されなければならない。問題の要所はここのはずである。

 ならば、中絶の「罪」を言う者は、生まれてくる子の十分な養育を社会的に保証するシステムの構築に、全力を挙げるべきだろうし、「権利」を主張する人々は、その権利を使わなくてすむように、避妊を含む性教育の徹底を高らかに掲げ、その実現に尽くすべきではないか。これは信仰の問題でも、イデオロギーの問題でもなく、次世代に対する大人の責任の問題である。

 特に思うのは、性教育の徹底である。

 私は今まで何人かの若い女性に「水子供養」を頼まれたことがある。彼女らは大抵たった一人で来るのだ。一度だけ、訊いたことがある。

 「なぜ相手の人は来ないの?」

 すると、たちまち涙が流れた。

 私はその後、二度とこの問いをしなかったが、私には今も「相手」に対して憤りがある。こういう「相手」に落ちぶれないためにこそ、遅くとも中学生から、性に関する情操と行為についての教育を堂々と、(特に「男」に)身に染みるほど叩き込むべきである。

 信仰やイデオロギーが標榜する「真理」は、問題の正体を見えなくする。往々にして、是非善悪はバイアスにしかならない。それでも人は一度拘るとこのバイアスに固執し続ける。

 なぜなら、バイアスをつくる信仰やイデオロギーが、無常で無我である我々の存在不安に、「根拠」を仮設するからである。人はそれを圧倒的な強度で欲望する。

 この「根拠」への欲望を、私は理解するが、肯定しない。

 ある時、「宗教対話」と称して、神父が禅寺に来た。会議が終わると、当時30を過ぎた頃だった私に、同年配の神父が話しかけて来た。最初は四方山話だったが、最後は言いたいことを言った。

 「結局、仏教は神のような存在を認めないのですね」

 「いいえ。単に必要がないんです」

 彼は、絶句した。私は、神の存在を否定したのではない。 

 ある時、大きな修道院から訪れた女性の修道士に、坐禅を教えたことがある。彼女は言った。

 「あなたの説明によると、坐禅は石になるのと変わらないのではないですか?」

 「それではいけませんか? 石と人間と、何が違うのですか?」

 「人間には心があります」

 「石に心がないと、どうしてわかったのですか?」

 彼女は笑い出した。私は石にも心があると言ったのではない。

 私にも、頭に載せる草履があったのである。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

南直哉

みなみ・じきさい 禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)、『死ぬ練習』(宝島社)などがある。

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