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お坊さんらしく、ない。

2023年2月13日 お坊さんらしく、ない。

二十二、育成の困難――優秀な上司のもとで部下が育たない理由

著者: 南直哉

 私は今年「前期高齢者」になる。すると、話をする同年輩の人は、大抵はどこかの会社の幹部クラスか、何らかの団体の役員級、いわゆる「上」の人たちが多くなる。

 そういう人たちと話をしていると、一度は必ず出て来るのが、「今の若い連中を指導するのは難しい」「若い者は何を考えているのかわからない」という、「下」についての「育成問題」である。

 これはおそらく、有史以来繰り返されてきた嘆きであって、何も今にはじまった話ではない。そもそも、一世代(約30年)「下」の人間の感性や思考を理解できると思うほうが妄想である。しかも、自分の感性や思考を、赤の他人にそのまま移植できるわけがない。臓器移植だって拒絶反応があるのだ。

 この種の「指導」や「理解」は考えるだけ無駄だが、これまで各種の「上」と「下」の間柄を見て来て、奇妙に思うことがある。それは、ずば抜けて優秀な人物の部下や後継者に、さほど優れた者はいない、ということである。少なくとも、私の見る限り、そうなのだ。

 まず、ある種の「優秀な人物」は、過剰なくらいの自信があるので、部下や後継者に、「自分のような人物」になることを求める。自分をモデルにしろ、と。

 すると、いくら「下」が「モデル」のようになろうと思っても、所詮は他人なのだから、そうは成り切れない。したがって、結果的に「モデルの縮小コピー」しかできない。

 もう一つ問題なのは、「優秀な人物」が自らを「モデル」として強要しても、「下」がハナから「とても無理」と諦めて、手っ取り早く万事「上」に頼ってしまうことである。その方がラクなのだ。

 しかも、往々にして「優秀な人物」は、口で言うのとは反対に、「優秀な部下・後継者」を望んでいない。ナンバー2の存在が潜在的に「脅威」であることは、権力関係の常識である。

 したがって「優秀な上」には、それを超えるほど「優秀な下」は出て来にくいのではないか、と私は思う。むしろ、「優秀な下」は、弱点や欠点のある「上」の「指導」から生まれやすい。

 弱点や欠点のある「上」はバカでない限り、自分の弱点や欠点を自覚しているから、「下」の意見を聞く耳を持つことが多い。すると、自分の意見が通るのだから、「下」は「手ごたえ」を感じて張り切るだろう。

 しかも「聞く耳」を持つ「上」は、基本的に好かれるから、「下」は「この人のために何とかしよう」と、損得を超えて頑張ることがある。

 かくして「下」が頑張る時、弱点や欠点のある「上」から余計なプレッシャーはかからない。すると「下」には自ら工夫する大きな余地が出て来る。ここから「上」を超える「下」が大きく育つのである。

 この時、「上」には弱点も欠点もあって構わないが、無くてはならないのが「度量」である。これが無い「上」から優秀な「下」は出ない。

 では、「度量」とは何か。それは「下」に「任せる」能力である。部下に「やってみなはれ」と言い続けた大経営者がいたが、これだ。

 「失敗してもよい。責任は自分が取る」と公言して、「下」に仕事をやらせてみる。「任せる」とはこのことであり、それができることが「度量」なのだ。

 その「度量」のある「上」が「下」に接する時、大事だと思うのは、「下」のタイプを見分けることである。タイプの分け方は様々あろうが、私が気にかけているのは、「放し飼い」型か「リード」型か、ということである。

 「放し飼い」型の「下」は、「上」が大きな囲いを設けて、その中で最初から自由にさせると、非常に喜んで働く。そして、囲いをちゃんと意識して動くから、「上」はなるべく囲いを大きくした方がよい。

 また、「放し飼い」型は、自由にしてもらったことを「恩に着る」ことが多い。つまり、

 「放し飼い」の割に、「上」に忠実なのだ。「おれを信用してくれる『上』に恥をかかすわけにいかない」などと、殊勝に考えるのである。

 「リード」型は、「上」の側近として働くことで、伸びるタイプである。これは、そもそも「上」と相性が良く、端的に言えば、最初から「上」が好きだったり、尊敬しているケースが多い。

 この時、「上」はリードを長めにしたほうがよい。使いやすいからと言って、身近に置き過ぎるより、次第に自分の「名代」のように、外に出す方がよいように思う。

 この「名代」が「虎の威を借る狐」になる危険を避けるには、事後に必ず「名代」としてした仕事の報告を受けることである。これを怠って「任せきり」にすると、自分も「下」も損ないかねない。

 大体「下の責任をとる」からには、「下が何をした」のか知らないわけにはいくまい。ただし、報告を受けた後、結果が出るまでは、求められない限り、一切意見も言わないし、助言もしないほうがよい。

 およそタイプを問わず、「下」が仕事に成功したら、「上」は全面的に「下の手柄」を認める。自分を勘定に入れない。

 失敗は、どんな失敗でも一度目は許す。同じ失敗を二度したら処分する。三度したら縁を切る、で良いのではないか。私は同じ失敗については、「仏の顔は二度まで」主義である。

 ちなみに、私は特に「優秀な人物」ではないので、最初から弟子に大した者はいない。私にそう言われて気にする弟子ではない。それぞれ自分の好きなようにやっているからだ。

 それが「部下」でも「後継者」でもない、「私の弟子」の在り様であり、それで十分である。

 

※次回は、3月13日月曜日更新の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

南直哉

みなみ・じきさい 禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)、『死ぬ練習』(宝島社)などがある。

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