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お坊さんらしく、ない。

 たまにメディアに出たり、あちこちで講演などしていると、なし崩し的に多少とも顔が知られ、思わぬところで声をかけられたりする。大抵は移動途中の駅や空港、列車や飛行機の中である。

 一度、人と待ち合わせをしていたビルの前で、ショーウインドーを眺めていたら、突如、関取のように巨漢の白人が、恐ろしい勢いで一直線に近づいて来た。

 いったい何事かと、身の危険さえ覚えてフリーズしてしまったが、その男は私の目の前で立ち止まり、恐ろしく流暢な日本語で言った。

 「お坊さんでしょう? この頃はそのような姿で街を歩くお坊さんも少なくなりました。がんばって下さい!」

 彼は深々と一礼すると、文字通り踵を返し、来たとき同様、一直線に雑踏に紛れ込んでいった。

 こういうのは例外で、大抵は駅か乗り物の中である。5、6年前だったか、私は例によって、都内のある駅のプラットフォームに立っていた。すると、いきなり、左の肩をポンと叩く人がいる。

 振り向くと、還暦前後かという初老の男が、

 「失礼、恐山のお坊さんでしょう?」

 「そうですが、あれ、前にお目にかかったことが?」

 「いえ、いえ。テレビに出られたことがあったでしょ。それで」

 「ああ、そうか」

 「私もね、恐山にお参りしたことがあるんですよ、イタコさんに会いに」

 「ほほう」

 というやり取りから、剃髪頭と白髪の七三分けが並んで、プラットフォームの立ち話が始まった。そこで私は、今も忘れがたい身の上話を聞いたのである。

 この人の父親は、実は大変な艶福(えんぷく)家で、愛人のような女性が複数いて、彼に物心がつく頃から既に、ほとんど家にいなかったというのだ。ところが、驚くべきことに、時々、まったく悪びれることなく帰って来て、無邪気に「父親」らしく振舞っていたと言うのである。

 事実、母子3人(彼には弟がいた)、暮らしに困らず、誕生日やクリスマスなどには、ニコニコしながらプレゼントを抱えて帰ってくるか、そうでなければ、どこからか小包で送られて来たそうである。

 さらに驚くべきは、彼の母親、つまり艶福家の妻が、まるで夫を責めなかったというのだ。それどころか、「愛人」の何人かとは、付き合いがあったらしい。

 しかし、子どもにとっては、黙っていられる話ではない。幼稚園以来、一度も参観日や運動会に来たことはなく、担任の教師の多くは、一家が母子家庭だと思っていたらしい。

 思春期になってからは、何度もキレて、父親を怒鳴ったり、殴りかかったりしたそうだが、相手は完全な無抵抗主義で、常に母親が泣きながら間に割って入り、身を挺して止めたという。

 「母さんは、なんであんな馬鹿親父をかばうんだ! ひどいと思わないの!?」

 「お母さんは、いいの。お父さんは悪い人じゃないの」

 何度目かの大衝突の後、彼はついに諦めて、それなりの人生を歩み、上京して大学に入り、卒業して、とある会社に就職した。するとある日、母親から、父親が急死したという知らせが来た。それも、あろうことか、「愛人」宅で死んだのだという。

 「参りましたよ。私、その家に遺体の引き取りに行ったんです」

 「そりゃあ、なかなか…」

 こうなっては仕方がない。彼は喪主を務め、後の始末をつけ、母親は、この期に及んでも、

 「ああ、よかった、安心した。これでお父さんも大丈夫。○○ちゃん(彼の愛称)、ありがとうね」

 収まらないのは、彼である。しばらく忘れていた父親への怒りが、再び腹の底から沸いて来た。無理からぬところである。

 「でもね、どうしようもないんですよ、死んじまったから」

 「そりゃそうですなあ」

 「で、ね、私、ある日急に思いついたんです。そうだ、青森の恐山にはイタコがいると聞いたことがある。一度、親父を呼んでもらって、とっちめてやろう」

 「えーっ!?」

 父親の死から数年後、彼はこの計画を実行に移す。社命で青森に出張した帰り、恐山に立ち寄ったのだ。

 「何て言うんですか、7月のお祭りみたいな時で、大勢人がいて、イタコさんの小屋の前は大行列で、私は何時間も待ちましたよ」

 この忍耐の結果、彼はイタコさんの前にでて、父親の「口寄せ」を依頼したのだ。

 「ずいぶんお年を召したイタコさんでね、父の名前と命日を訊かれました」

 「どうでした?」

 「イタコさんは、何というか、お経か呪文のような唱え言をしつつ、一瞬、トランス状態みたいになったかと思うと、いきなり閉じていた白濁した目を見開いて、言ったんです。それがですね…」

 彼は(いささ)か芝居がかったタメを作った。

 「それが…?」

 「それが、イタコさんがこう言ったんです。

 『アンタの父親はここにいないよ。どこか他所に行ってるよ』、と」

 私は驚くより、笑い出してしまった。

 「ね、笑っちゃうでしょ。こっちは、とっちめるつもりで待ち構えていたのに、ですよ」

 「いないと!」

 「そう、もうガックリしちゃいましたよ。親父、あの世でもか、ってね」

 彼はガックリしたと同時に、父親への怨みつらみも、どうでもよい気がしてきたと言う。

 「本当に仕方のない親父だな、と思ったら、憑き物が落ちたような感じがしました」

 この話を、「あの世」や「死後の霊魂」などの道具立てで解釈するかどうかは、聞いたものの勝手である。

 しかし、この話で私が感じ入ったのは、それとは別なことである。彼は、恐山まで来て、やっと父親を赦せたんだな―私の感慨はそこにあった。

 お互いに何本かの電車をやり過ごした最後に、彼はこう言った。

 「何か不思議な気持ちになって、恐山を出て、レンタカーで空港に向かいました。そしたらね、あの恐山の山道を抜けていく間に、突然涙が出て来るんです。別に悲しいわけでもなんでもないのに、でも、止まらない。空港に着くまで、ずっと泣いてました。わけのわからない、とても不思議な経験でした」

 思うに、「赦す」ことは難しい。なぜなら、単に相手を赦すのでは、赦しにならないからだ。本当に人を赦すと言うなら、「赦す自分」を赦せなければならない。辛い経験をしたにもかかわらず、敢えて赦す。その赦す自分を赦す。

 ついにそれができた者は、おそらく、辛かった自分の体験を、他人に「笑い話」のようには話せるようになるだろう。あの彼のように。

 

*次回は、8月14日月曜日配信の予定です。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

南直哉

みなみ・じきさい 禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)、『死ぬ練習』(宝島社)などがある。

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