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平成ベストテン

2019年6月13日 平成ベストテン

平成クラシックベストテン

著者: 片山杜秀

 平成はポスト・モダンが徹底された時代だった。そこでは芸術を担うご立派な近代的個人が立場を失ってゆき、何もかもがキッチュに取って代わっていった。その意味での日本クラシック音楽界最大の平成的事象は、やはり1.「佐村河内騒動」であった。ほとんど無名の作曲家であった佐村河内守が、『交響曲第一番』と題する自伝を大手出版社から刊行したのが平成一九年。難聴に苦しむ「現代のベートーヴェン」が独立独行で偉大な交響曲を作曲している。彼の物語はテレビ・ドキュメンタリーになり、その作品も演奏されるようになり、東日本大震災の直後に『交響曲第1番HIROSHIMA』としてCD発売された。「広島」というタイトルは作曲後の後知恵で付け加えられ、そこに「福島」のイメージもおのずと重ねられた。その交響曲の中身はというと、あまりにも典型的にキッチュであった。マーラーもどき。後期ロマン派の模造品。「現代のベートーヴェン」にはなぜかおよそ個性がなかった。もちろんそんなことは、聴衆も承知。平成の聴衆は、モダンの論理に従って「芸術的新しさ」あるいは「難解さ」を主張する個性的音楽ではなく、分かりやすく、容易に感動できる「まがいもの」を欲していた。
 しかも、「佐村河内騒動」の登場人物には「まがいものを作るのが俺の個性だ」という開き直った確信犯すら存在しなかった。平成二六年に代作者、新垣隆が表舞台に現れ、「キッチュの構造」は白日の下にさらされた。佐村河内には本気になっても交響曲を作る音楽的技術はなかったし、新垣は芸術的に本気ではなかった。みんながキッチュだった。刹那のインチキに戯れる。「遊びをせんとや生れけむ」の真の実践。近代クラシック音楽は、芸術的個人が個性を誠実に極め抜くことに存在根拠を求めてきたものだろうが、「佐村河内騒動」はそれを内部から食い破り、「近代の死」をもたらした大事であった。
「佐村河内騒動」はきわめて特殊な装いをとったが、そのキッチュ性は「平成の例外」ではなく「平成の典型」である。先駆的事例もあるだろう。そこで思い出されるのは2.「キーレーンの来日」。平成五年の出来事だ。オウム真理教が、ソ連崩壊後の経済混乱に陥ったロシアで食い詰めてしまった「一流オーケストラの楽団員たち」を雇って、キーレーンという名の交響楽団を結成し、日本各地で、麻原彰晃作曲と称する数々の後期ロマン派的交響曲や交響詩を演奏した。数々の障害に苦しむ教祖が救済を求めて大シンフォニーを発表する。もちろん麻原本人がそういう作曲をできるわけがないと、信者も含めて誰でも知っている。でも、それは演奏され、満場の大ホールに爆発的興奮を呼んでいた。「冷戦構造の崩壊」によってソ連だけでなく、世界の関節が外れ、本気で筋を通す習慣が消滅したのが平成だろう。オウム真理教は「不真面目な戯れの危険な前衛」に位置していた。
 そんな中で、クラシック音楽は、真面目と不真面目、芸術と娯楽、永遠と刹那の区別をあいまいにして崩れ落ちていった。3.「今上天皇在位一〇年祝賀行事におけるX-JAPANのYOSHIKIの祝典ピアノ協奏曲自作自演」もそういう事例に連なる。自民党の村上正邦参院議員の仕込みであったという。国家の祭典にはクラシック音楽が相応しいという、昭和までの常識を見かけだけ踏襲しながら、YOSHIKIがロマンティックなピアノ協奏曲を新作して交響楽団と大真面目に共演し、それに、「昭和の教養」によって育てられ「クラシック音楽の本当の真面目さ」を日本で最も良く知る人々に属する天皇夫妻が、懸命に聴き入る。これぞまさに平成であった。
 むろん、このキッチュ化は昭和までの近代の成熟あってこそ。昭和のうちに仕込まれた真面目な果実が平成についに実ったことも数多い。4.「小澤征爾が、平成一四年新春のウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを指揮し、そのライヴCDがミリオン・セラーを記録し、その小澤が平成一四年から二二年まで、クラシック音楽界における最高レベルのポストのひとつ、ウィーン国立歌劇場音楽監督を務めたこと」、5.「平成元年から翌年にかけて、渋谷のオーチャードホール、池袋の東京芸術劇場、水戸芸術館、大阪いずみホール等の優れたクラシック音楽演奏会場が次々と開場」、6.「戦後初期の片山哲内閣の時代から議論されてきた国立歌劇場が、新国立劇場として平成九年についに開場」。だが、戦後の食糧不足に対応したつもりの八郎潟干拓工事が完了したときには米が余り始めていたのと同じで、平成はクラシック音楽がいよいよ余計者扱いされる時代の恐るべき開幕の時代でもあった。7.「橋下徹大阪府知事が、大阪府の支えてきた大阪センチュリー交響楽団に対する補助金カットを推進し、同オーケストラは平成二二年に民間団体として再出発を強いられ、橋下大阪市長が、大阪市の直営吹奏楽団として大正時代から運営してきた大阪市音楽団を切り捨て、同楽団は平成二六年に、やはり民間団体として出直さざるを得なくなった」。ポスト平成に向けた悲劇的序曲である。
 だが、クラシック音楽が次の世に消えてしまうことはあるまい。8.「平成一七年に、いわば契約社員的楽団員ばかりで構成されるプロ・オーケストラ、兵庫芸術文化センター管弦楽団が設立されたこと」、9.「平成三〇年に打楽器奏者の加藤訓子が、生演奏にあらかじめ用意された高精度の録音・録画物を重ねて仮想現実を作り上げることで、スティーヴ・ライヒの『ドラミング』というアンサンブルの作品を、ひとりで演奏してしまったこと」。経費を節減しながら可能な存在形態や演奏形態を追求していくことに未来の活路があるのだろう。そして、「佐村河内騒動」の世にも、なおもシリアスな創作は目立たぬところで続いている。10.「平成三一年、新国立劇場での西村朗の歌劇『紫苑物語』の初演」。岡倉天心に見せたかった。天心は西洋精神を無限の欲望と規定した。満足を知らない。西村は、石川淳の原作からかなり離れたこの歌劇で、四人の登場人物に無限の欲望を表徴させる。我執、出世欲、色欲、怨念。それらの欲望は、四人の歌手の声に担保される。西洋音楽的な大声量と超絶技巧で四人は歌いまくる。西洋のオペラとは歌いまくって欲望を表出するもの。だから西洋芸術の華。ところが華は最後に躓く。天心は東洋精神を満足を知ることから定義した。ゆえに枯淡にも無心にもなれる。西村はその心を第五の登場人物に振り、「西洋式発声」でなく「東洋式発声(チベットやモンゴルのホーミー)」を与える。しかもその声が無限の欲望に勝つ。東洋の勝利! 近代の超克! 明治以来の日本的主題が平成の終わりに実っていたのである。

(「新潮」2019年5月号掲載)

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
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それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

片山杜秀

かたやま・もりひで 1963年、仙台市生まれ。政治思想史研究者、音楽評論家。慶應義塾大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学。慶應義塾大学法学部教授。『音盤考現学』および『音盤博物誌』で吉田秀和賞、サントリー学芸賞を受賞。『未完のファシズム』で司馬遼太郎賞受賞。著書に『近代日本の右翼思想』『国の死に方』『尊皇攘夷』『革命と戦争のクラシック音楽史』など多数


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