シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

平成ベストテン

2019年6月16日 平成ベストテン

平成アートベストテン

著者: 椹木野衣

 この手の企画は、とかく枕詞がつくものだが、紙幅も限られているので、すぐに始めよう。以下、10項目を挙げる。原則、時系列で。
 1・新世代の美術家の登場。平成の前夜、昭和43年前後に端を発する「もの派」から「ポストもの派」へのメインストリートの交代劇が仕立てられるなか、そうした動きを度外視する新しい世代、昭和30年代後半生まれの美術家たちが活動を始める。かれらはその頃、旧東京五輪(昭和39年)をきっかけに全国を同時刻/同番組で結ぶようになるテレビの影響下にあった。舞台となったのは東京、大森東に平成3年、巨大な倉庫を改装してオープンした日本最大級のギャラリー・スペース、レントゲン藝術研究所だった。ここから飴屋法水、村上隆、ヤノベケンジ、会田誠、小沢剛、八谷和彦らが名乗りを上げ、従来のアカデミック、もしくは前衛的な美術と、大衆文化、ポップカルチャーの境界を無化するような初期の代表作をいち早く発表する。既存の美術界はこれをほぼ無視した。
 2・新しい美術館の建設ラッシュ。平成3年に弾けるバブル経済の余韻が残るなか、日本各地に現代美術(アート)に対応する美術館が次々に開館する。現代美術に特化した展示を行う水戸芸術館現代美術ギャラリー(設計=磯崎新アトリエ、平成2年)、東京都現代美術館(平成7年)、森美術館(平成15年)、金沢21世紀美術館(設計=妹島和世+西沢立衛/SANAA、平成16年)などは、これまでにない形態と機能を求められた美術施設であり、おのずとポストモダン以降の建築家の果たす役割が比重を大きくするようになった。建築が単なる器ではなく、アートの主役になったと言ってもいい。
 3・キュレーター、ギャラリストの台頭。こうした美術館の建設ラッシュに対応するかたちで、従来は学芸員と呼ばれ脇役的な存在であった職能が、海外からの影響もあり、キュレーターと呼ばれ、大きな力を持つようになる。従来通りの調査・研究だけでなく、展覧会のためのコンセプトを練り、それに応じて美術家の人選を行い、バイリンガルの図録に執筆、編集し、世界を飛び回るかれらには、かつてない役割が期待されるようになり、ビエンナーレやトリエンナーレといった国際現代美術展でコミッショナーとして活躍する者も出てくる。平成10年には、小山登美夫ギャラリーをはじめとする9つのギャラリーが集まって、事実上のマニフェストとも言える新たなアートフェア「G9」を開催(青山スパイラル)。新しい世代の台頭や国際市場との連携に対応すべく、みずからをギャラリストと呼び、大きな牽引力を発揮する。ギャラリストとの協働は、現在では美術館にとって必須のものとなっている。
 4・写真や映像のアート化。それまで絵画や彫刻に次ぐ領域とされ、美術館での展示や収集の対象とは積極的に考えられてこなかった写真や映像が、アートにとって中心的な役割を果たすようになる。とりわけ写真は、それまで写真集や写真雑誌(つまり複製、印刷)が主な発表媒体であったのに対し、ギャラリーや美術館での展示に重きを置く展示芸術として扱われるようになった。日本国内では写真家とみなされていた荒木経惟、森山大道らが海外では美術家として評価される逆転は、その象徴的な現象である。写真を最初から美術を制作するうえでの手段・方法とみなす美術家、森村泰昌、杉本博司らも高い評価を受ける。写真や映像に焦点を絞った東京都写真美術館(平成2年に第1次開館、平成7年に総合開館)、新興のメディア・アートの拠点となったNTTインターコミュニケーション・センター(平成2年に設立、平成9年に施設オープン)などが活動を始めたのも平成年間である。
 5・芸術祭の成功。平成12年に新潟県の山間部で幕を開けた「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」は、従来は考えられなかったアクセスが困難な里山一帯を広域にわたって展示場とみなし、土地の住民と交渉のうえ観光客に対して大きく開き、それまで一部にとどまっていたアートの需要層を一気に拡大した。当初は継続を危ぶむ声もあったが、回を重ねるにつれ、非日常的な体験がアートの持つ脱現実性とマッチし、飛躍的に来場者を増やし、平成におけるアート最大の成功モデルとなった。平成22年からは、過疎にあえいでいた瀬戸内の島々を繋いで開催される「瀬戸内国際芸術祭」が開幕。ベネッセアートサイト直島による世界に類を見ない美術館の立ち上げと相まって、インバウンド上でも大きな効果を上げた(総合ディレクターはいずれも北川フラム)。なかでも、産業廃棄物問題で苦しむ豊島に開館し、風評をほぼ払拭するに至った豊島美術館(設計=西沢立衛、展示=内藤礼)は、世界の美術館を見渡しても類例のないものであり、平成を代表する美術館=展示空間となった。
 6・アートのグローバル化。平成元年の冷戦構造解体後、世界が米国の主導によるグローバライゼーションの波にさらわれると、美術家たちも活躍の機会を国内から大きく転回し、主な活動の機会は海外へと移った。なかでも草間彌生、オノ・ヨーコら、これまで国内外で認知が遅れていた女性の美術家への再評価の機運が高まり、ニューヨークで大きな回顧展が組織されると、日本へと逆輸入されるかたちで評価が定着し、美術史の一部を書き換えるに至った。川俣正、宮島達男、大竹伸朗、奈良美智、村上隆らも海外で高い評価を受けるが、なかでも村上隆が一からコンセプトを作り上げたスーパーフラット展(三部作)は欧米を巡回し、アートワールドでの村上の評価を決定づけた。
 7・藤田嗣治と岡本太郎の復活。太平洋戦争中に軍部に協力し、多くの作戦記録画を残したエコール・ド・パリのスター、藤田嗣治は、これら戦争画の責任を追及され戦後、日本を捨ててパリに戻り、国籍も離脱、カトリックの洗礼を受けて名もレオナール・フジタに変え、二度と母国の土を踏むことなく世を去った。これらの経緯から藤田=フジタへの研究や調査、展示機会は国内で限られたものとなっていた。だが、戦争期の日本の美術は藤田=フジタの一連の戦争画を抜きには語れぬものであり、戦争画への関心の高まりと並行するかたちで藤田への注目は増し、平成18年、戦争画も含む生誕120周年の回顧展が東京国立近代美術館で開催されるに至る。一方、平成8年に他界した岡本太郎は、昭和50年代にはマスメディアに登場するなどタレント的な活動を辞せず、結果として美術界での評価を落とし、亡くなる頃には美術界からほぼ忘れられた存在となっていた。だが、長く秘書を務め、養女となった岡本敏子の尽力により、岡本太郎の著作は蘇り、太陽の塔も大阪万博当時を超える時代のアイコンとなり、長くメキシコで行方不明になっていた巨大壁画「明日の神話」も発見され、修復のすえ東京、渋谷駅の一角に飾られた。太郎は縄文土器、沖縄、東北の新たな発見者でもあり、核時代のアートにいち早く着手するなど、日本画と洋画を独自の方法で統合した藤田=フジタとともに、平成に活躍する美術家たちを触発する力を十分に備えていた。
 8・日本美術=奇想の系譜。今では信じられないことかもしれないが、長く伝統的な日本美術は、一部の浮世絵などを除くと概して人気がなく、展覧会にも人が入らず、雑誌の特集などでも売り上げに窮していた。ところが、従来の日本美術史ではキワモノ扱いされていた伊藤若冲、曾我蕭白、長沢盧雪、岩佐又兵衛らを「奇想」の美術家としていち早く扱った辻惟雄『奇想の系譜』(初出は『美術手帖』、昭和43年)への注目がにわかに高まり、これを継承する時宜を得た展覧会が次々に開催されると、美術館には嘘のように長蛇の列ができるようになり、アートにとっても大きな着想源となった。昭和に種が播かれ、平成と新しい元号の発表をまたぐかたちで開催中の「奇想の系譜 江戸絵画ミラクルワールド」展(平成31年、東京都美術館)は、その集大成で、平成8年に美術史家の山下裕二と前衛美術家、赤瀬川原平が止むに止まれぬ気持ちで結成した異色の組み合わせ、日本美術応援団の地道な啓発活動が実ったと言える。
 9・アウトサイダー・アートの衝撃。平成5年、世田谷美術館に「パラレル・ヴィジョン 20世紀美術とアウトサイダー・アート」展が海外から巡回すると、精神を病んだ者、霊能力者の幻視、引きこもりの老人らが描いた長大で常軌を逸する絵や表現は、従来の美術では決して得ることのできない衝撃をもたらした。もとはジャン・デュビュッフェが第二次世界大戦後に着想した「アール・ブリュット」に遡るが、正規の教育を受けない者が手がける表現というと、主に知的障害者施設の利用者が福祉活動の一環として描く絵などに限定されていた国内では想定外のものばかりで、そもそもアートとはなんなのか、なんのために作るのかといった根源的な問いを掘り起こした。新東京五輪を目前にアール・ブリュットが政策的に恰好のパラ・アートとして解釈されるなか、アウトサイダー・アートは下火となっているが、早晩本来の力を取り戻し、平成以後のアートにとっての起爆力となるだろう。
 10・震災とアート。平成年間は、「平らに成る」(スーパーフラット?)という語の含みに反して、昭和のように大きな戦争こそなかったものの、平成5年の冷夏による大飢饉級の米の記録的不作をはじめとして、平成7年の阪神淡路大震災、平成23年の東日本大震災という二度の大震災のみならず、九州や北海道でもかつてない規模の大地震が相次ぎ、ほかにも集中豪雨や大規模な土砂崩れなどで日本全国が被災地と化すような、いつ、誰が被災者となるとも知れぬ生活環境の激変を余儀なくされた。これに加え東京電力福島第一原子力発電所での史上最悪級の原子力災害はなお緊急事態宣言下にあり、予断を許さない。そうしたなか、平成17年に結成されたChim↑Pomのように、震災下の状況に対応する、従来にないアーティスト・コレクティヴの活動が活性化しつつある。美術館や芸術祭のような既成の制度や成功モデルに依存せず、未知の事態に対して複数の頭脳、見る力、分散した行動で発表の機会を自主組織し、フレキシブルに行動するこうした態度は、アートにおける平成の終わりを象徴するものでもあり、次の御代へと引き継がれていくだろう。

(「新潮」2019年5月号掲載)

この記事をシェアする

ランキング

MAIL MAGAZINE

「考える人」から生まれた本

もっとみる

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき
  •  

考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

椹木野衣
椹木野衣

さわらぎ・のい 美術評論家。1962年生まれ。著書に『日本・現代・美術』『なんにもないところから芸術がはじまる』『後美術論』『感性は感動しない』など。


ランキング

イベント

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき

  • ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら