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没イチ、カンボジアでパン屋はじめます!

2021年6月11日 没イチ、カンボジアでパン屋はじめます!

19. 行く人、来る人、戻る人――私のベーカリーの人間模様

著者: 小谷みどり

病み上がりのスレイモンと突然辞めたボニー、戻る

 バンデス邸から店を新しい場所に引っ越してすぐ、スレイモンに移転したことを聞いたのか、ボニーから、「戻りたい」と連絡があった。
 ボニーはバンデスが採用した1人だが、2週間ほどで辞めてしまった女学生だ。最初は楽しそうにパンを作っていたので、なぜ辞めたいのかを本人に何度もたずねたが、そのたびに「答えられない。ごめんなさい」と、決して理由を語ろうとしなかった。スレイモンから「ボニーは、バンデスが嫌いだから辞めた」と聞いたのは、すでにバンデスの家に引っ越した後だったので、ボニーを守ることもできなかった。パンを作ることに興味があるのであれば、戻ってくることを拒否する理由もないので、ボニーを受け入れることにした。

緑いっぱいの新しい店の外観。

 幼い頃からアルコール中毒の父親から虐待を受け、働かない母や祖母など一家6人を1人で支えるスレイモンはといえば、腎臓結石の手術を受け、退院してからも、ひと月ほどは自宅でぶらぶらしているようだった。私がカンボジアにいるときは、店に顔を出してみんなでおしゃべりすることはあったが、見る影もなくやせてしまっており、とても心配だった。
 だが、店を引っ越したことを聞きつけると、スレイモンも戻ってきた。やはりバンデスが苦手だったのだろう。スレイモンは2カ月間、仕事をしていなかったので、収入はない。一家が暮らす80ドルの家賃を捻出するため、祖母が近所の人の子守をして一日2ドルほど、母は農家の手伝いをして数十ドルを稼いでいたようだ。スレイモンの稼ぎに比べたら少ないが、祖母も母も実は働けるのだ。なぜ娘にだけ働かせ、自分たちはぶらぶらしていたのか、それをスレイモンはなぜ当たり前だと思っているのか、親は罪悪感がないのか、すべてが私には理解しがたい。
 スレイモンの父親は、長らく愛人と別の家に住んでおり、たまに自宅へやってきては、母からビール代をせびり、酔っぱらってスレイモンや弟を殴るという。彼女が腎臓結石で入院する少し前、父親が骨折をして入院したことがあった。愛人から連絡があり、手術代を負担してくれと頼まれたそうだ。スレイモンは迷ったようだが(私が「お金を出してあげる」と言うのを期待していた雰囲気もあったが)、そもそもお金がないこともあり、断った。その数週間後に、スレイモンも入院することになった。数百ドルもの手術代を払えるわけもなく、父に助けを求めたところ、「あんたも出してくれなかったんだから、なぜこっちが助けなきゃならない!」と言われたそうだ。「あんなの、父親じゃない!」と彼女は憤慨していた。
 そんな父親は、スレイモンが店で再び働き始めてすぐ、バイクで事故を起こし、その場で即死した。彼女は「やっとこれで、酒乱の父親に悩まされることがなくなった。でも、そんな風に思う自分に自己嫌悪を感じる」と泣いていた。「スレイモンのお父さんは、幸せな人生だったのだろうか」と、泣いているスレイモンの傍らで私は考えた。お父さんの肩を持つわけではないが、お父さんも、ポル・ポト政権下で行われたクメール・ルージュによる大量虐殺を経験し、心に傷を負った犠牲者ではなかったかと、私は思うのだ。
 カンボジアで2013年に実施された国勢調査によると、子どもの2人に1人が身体的暴力を経験し、4人に1人が心的虐待を、20人に1人が18歳未満で性的暴力を経験しているという。もちろん暴力はいけないことなのだが、1970年代のポル・ポト政権やその後の内戦を生き抜いてきたスレイモンの親世代にとっては、暴力が日常だった環境で育ったという成育歴も大きいのだろう。日本は2018年度にカンボジアに対して2億円以上のODAを提供し、子どもへの暴力を防止する取り組みを進めたり、暴力を受けた子どもを保護し、ケアするシステムを作ったりする支援をしているようだ。

惜しくも去った好青年、残ったあやしい自称フリーカメラマン

 バンデスが採用したスタッフのなかに、男性が2人いた。1人は、夕方からコンピューターの専門学校に通い、授業が終わるとイオンモールで夜間の警備員として働いていた。学費をまかなうために昼間も働きたいと応募してきたのだが、バンデスに意見をしたことで逆鱗に触れ、2週間で辞める羽目になった。とても穏やかな好青年だったので、私はとても残念だった。
 もう1人は、コマーシャル写真を撮影する仕事をフリーランスでしていると自称する青年で、収入が少ないのでここで働きたいとやってきた。バンデスはすぐさま雇うことにした(何度も言うけれど私の店なのだが)ところ、「もう1人雇ってほしい」とこの青年が連れてきたのが、英語が話せる女学生だった。この青年、ソナは、この女学生を自分の恋人だと私に紹介した。毎朝、ソナはこの女性の家までバイクで迎えに行き、一緒に店にやってくる。仕事が終わると、ソナは、彼女を今度は大学まで送っていくという、30年ほど前に日本で流行った「アッシー君」を務めていた。
 1カ月ほどした頃、彼女は両親とソナとの交際のことで大ゲンカをし、1人暮らしをするソナの家に転がり込んだ。20歳の彼女はカンボジアでは珍しい1人っ子で、高校の英語教師をしていた父親と、父親の生徒だった専業主婦の母親との3人暮らしだった。王立プノンペン大学の英語学科の学生で、将来は父親と同じく教員になりたいという夢を持っていた。
 一方のソナは28歳で、定職がないのに、マイクロファイナンス(低所得層向けの小口金融)で借金して買ったスタイリッシュなバイクに乗っていた。ハキハキものを言うので、まだ学生の彼女からすれば、ソナは頼りがいがあるように見えたのだろう。ソナはスタッフの中で一番年上だったこともあるが、他のスタッフに対してとにかく威張り散らして、マウンティングするような青年だった。その反面、バンデスには忠誠をつくし、電話で呼び出されようものならすぐにかけ付けていたので、とても気に入られていた。そういうところも、社会を知らない少女からすれば、かっこよく映るのだろう。

パン工房なのに、持ち込んだパソコンの前に座って何かしているソナ。カンボジア人
は、こういうえらい感じのポジションにつくのが大好き。

 とにかく彼女が親にたたき出され、ソナの家に転がり込んだようだということは当時、バンデスから聞いた。大学の学費も出してもらえなくなり、彼女は給料の前借りをしたいと私に申し出てきた。私は「ソナのどこがいいんだろうか」と、この女性の親の気持ちが痛いほど分かったので、「ソナとは別れたほうがいい。あなたにはもっと誠実な男性がふさわしい」と言いたかったが、恋は盲目だというし、そのうち目を覚ますに違いないと様子を見ることにした。

駆け落ち寸前、危険な2人

 数日後、バンデスが、「この2人が結婚したいので、届け出書類に証人のサインをしてほしいと言ってきたが、親とよく話し合いなさいと答えた」と私に教えてくれた。私は、彼女を呼び、「こんな状況で入籍するなんて、一生後悔することになるし、両親が心配しているはずだから、自宅へ帰りなさい」と、必死で説得した。カンボジアでは、結婚式は盛大に行われるので、女性が妊娠をしているわけでもないのに、結婚式をせずに入籍するようなことをすれば、両親の顔に泥を塗ることになる。
 しかもカンボジアの結婚式は妻の実家か、実家がある地域の式場でおこなうことが一般的で、結婚後は、妻の両親と同居することも多い。私が親しく付き合っているカンボジア人夫婦には、長男と2人の娘がいるが、友人は、長男は結婚したら出ていく子ども、娘のどちらかは一生ずっと一緒に暮らす子どもと認識している。そんな社会で、女性側の両親が交際に反対しているのに、勝手に婚姻届けを出すなどという暴挙に出たら、大変なことになることは目に見えている。
 かつて、カンボジアでは女性は貞操観念が強いとされてきたが、最近の若者は外国の影響を受けているせいなのか、ソナたちのように同棲をする若者もいるし、せっかく大学進学をしたのに、妊娠して大学を辞めてしまう女性も珍しくない。知人が借り受けたイタリアンレストランで働きながら大学へ通っていたという青年も、キャンパスで知り合った彼女を妊娠させてしまったので、慌てて結婚式を挙げ、大学を中退し、妻の実家がある田舎での就職を余儀なくされた。とにかく結婚するかどうかも分からないのに同棲したことが広まったら、ソナはともかく、まだ大学生の女性にとってプラスに働くはずはない。
 日本でもそうだが、カンボジアでは、価値観の急速な多様化で、若者と親世代の間には大きな壁ができている。コロナ禍前までのここ数年、プノンペンでは、バレンタインデーは高校生や大学生の間で異様な盛り上がりを見せ、市内のゲストハウスは軒並み満室になっていたという。フン・セン首相が「バレンタインデーはホテルに行く日ではありません。カンボジアの文化にはそういう習慣はありません」という演説をおこなったほか、バレンタイン当日は生徒に学校を休ませないように、この日に試験をすべきだという議論もされたほどだ。日本における3、40年前の現象がカンボジアの都市部で起きている。
 こうした若者の行動変化はカンボジアに限らないようで、86歳になるフィリピンの私のホストマザーは、「孫はまだ結婚していないのに、恋人の女性を妊娠させた。もうどうすればいいのか」と、私に愚痴っていた。その話をフィリピン人の親友にしたら、「つい先日も、お腹が大きな新婦が教会で結婚式を挙げていたところを通りかかったら、新婦の両親と目が合い、ばつが悪そうだった」と、教えてくれた。
 話題をソナの話に戻すと、入籍騒動の数日後、彼女は無事に親元に帰ったのだが、その後もソナは毎朝迎えに行って一緒に出勤するなど、尽くしていた。バンデスの自宅から店を引っ越しした後も、それは続いていたが、ある日、出勤途上でバイク事故を起こしたというソナから連絡があり、後部座席に乗っていた彼女がバイクから転げ落ち、病院に運ばれたと知らされた。
 実はその前夜、私は店のお金が数百ドルなくなっていることに気がつき、翌日、経理を任せていたソナに聞いてみなきゃならないなと思っていたところだった。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

小谷みどり

こたに・みどり 1969年大阪生まれ。奈良女子大学大学院修了。第一生命経済研究所主席研究員を経て2019年よりシニア生活文化研究所所長。専門は死生学、生活設計論、葬送関連。大学で講師・客員教授を務めるほか、「終活」に関する講演多数。11年に夫を突然死で亡くしており、立教セカンドステージ大学では配偶者に先立たれた受講生と「没イチ会」を結成。著書に『ひとり終活』(小学館新書)、『〈ひとり死〉時代のお葬式とお墓 』(岩波新書)、『没イチ パートナーを亡くしてからの生き方』(新潮社)など。


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