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最後の読書

 スタジオジブリから『熱風』という小さな月刊誌がでている。しばらくまえ、そこで「読書の未来」という長いインタビューをうけ、それをきっかけに、毎号、雑誌を送ってもらうようになった。
 で、先日も、とどいたばかりの最新号(2019年6月号)をめくっていたら、落合博満の「戦士は何を食べて来たか」という新連載にぶつかった。落合といえば、あの3度の三冠王という偉業をなしとげた伝説の野球人じゃないか。
 ―ふうん、あの人がね。

スタジオジブリ『熱風』2019年6月号

 そう思って軽い気持で読みはじめたら、これがなかなかにいい文章だったのである。
 落合は1953年、秋田県の若美町(現・男鹿市)という日本海ぞいの町の生まれで、今年66歳。成人後、けっこうな料理もいろいろ食べてきたけれど、本心では、おれは炊きたての白米さえあれば、おかずなんてどうでもいいのよ―といったしだいで、「独自の熟成法でしばらく寝かせました」「なるほど。味に深みがありますね」といった当世風のやりとりには違和感があり、つい「味に深みって何だ?」と思ってしまうらしい。

 どの世代が境界線になっているのかわからないが、食に関して私には「生きるため」という定義があり、それゆえに「選ばない」が、若い人たちは「愉しむため」に「選ぶ」という違いがある。どちらが正解ということではなく、生まれ育った世代や地域の違いだから、この連載も私と違う感性を意識し過ぎずに書いていくことにする。

 しかし連載はまだはじまったばかり。これ以上、かれの食談義についてうんぬんするのは早すぎる。
 そのかわりに、じつはこの文章を読んで、かれが7年まえ、おなじ雑誌で「映画に関する連載」をしていたことを知った。その連載が『戦士の休息』という本になって岩波書店からでていると聞いて、さっそく読んでみたら、それがまた、なかなかに気持のいい本だったのです。
 そこで、ここでは食ではなく、この本にしるされたかれの私的な映画史のほうに重点をおいて書くことにした。それにね、この人の場合、食にせよ映画にせよ、
 ―私の好みは、私がそだった時代によってかたちづくられた。その好みを頑固につらぬいて生きてはきたが、かといって、私とはべつの時代にそだった若い人たちの好みを否定するつもりなどさらさらない。
 という点(じぶんの体験に根ざす偏見と、他人がいだく同様の偏見への気くばりの組みあわせ)では、まったくなんの変わりもないのですよ。とくに「どちらが正解ということではなく」という念押しが印象的。おそらくこれは「オレ流」と呼ばれた監督時代のかれの、若い選手たちとの厄介なつきあいをつうじて、いやおうなしにきたえられた感覚なのだろうな。とりあえずそう考えておいて本題にはいると―。

 いまもいったように、落合の食体験のはじまりには、そだった家の「食卓」があった。
 秋田米の飯に味噌汁と漬物を「不動のレギュラー」として、そこに煮魚や鯨肉や鶏肉のおかず(「牛肉は見たこともなかった」)が一品加わった食卓を、家族がいっしょにかこむ。うまいもまずいもない。高度経済成長前夜といっても、まだまだ貧しい時代だったから、そのすべてを当然のこととして完食する。かれのいう「選ばない食」「生きるための食」のおおもとには、こうしたつましい食卓の記憶があったらしい。
 映画でこの「食卓」に当たるのが「映画館」である。
 ただ地元の町には映画館がなかったから、かわりに芝居小屋の畳敷きの客席にすわって、2本立て、3本立ての映画を見た。その大半が片岡千恵蔵、月形龍之介、中村錦之助(のち萬屋錦之介)、大川橋蔵などの、東映のチャンバラ映画。そして小学4年をすぎるあたりから、兄につれられて秋田市内の映画館にでかけるようになり、そこで見た三船敏郎の『椿三十郎』にショックをうける。
 1年から4番でエースだった中学時代(仲代達矢の『大菩薩峠』を見た記憶あり)をへて、秋田工業高校に入ると、そのまま野球部のレギュラーになった。そこでセンパイに目の敵にされ、難癖をつけられては鉄拳制裁をくらう日々がつづく。それがいやで入退部を繰りかえし、退部期間のほとんどは、姉と住んでいた秋田市内のアパートから、ひとりで映画館にかよっていたという。

 当時の映画館は、入場料を一度支払えば、その日のうちはずっといられた。一日三、四回の上映をすべて観て、それを一週間続ければ二〇回くらいになる。そうやって同じ作品を何度も観たこともあるし、たった一度しか観なかった作品もあると思う。初めて観た洋画の『チキ・チキ・バン・バン』で洋画にも興味を抱き、次第にオードリー・ヘップバーンのファンになっていくのもこの頃だ。

落合博満『戦士の休息』岩波書店

 若い人(若い中年もふくめて)にはいまひとつ理解しにくいようだが、シネコンとちがって、むかしの映画館に入れ替え制はなかったからね。とうぜん席の指定もないので、いちど入場すれば、映画を2本か3本、繰りかえし見ることもできた。
 たいていは満員だった上映中の場内にはいると、まず立ったまま見て、休憩になるや、暗いなかで当たりをつけておいた空席めがけてまっしぐらに突進する。で、つぎの映画、さらにそのつぎの映画(3本立ての場合)を坐って見て、さっきは立ったまま途中から見た映画にたどりつくと、ついでにそれも最後まで見て、やっと席を立つ。ときには立たないこともある。それが当時の映画少年の、ごく当たりまえの映画とのつきあい方だったのである。
 つまりね、いまは遠くなった映画館時代の映画とのつきあいには、情熱(オードリー・ヘップバーンへのあこがれとか)だけでなく、それなりの体力が必要だったのですよ。
 そういえば大学生のころ、マルセル・カルネ監督の『天井桟敷の人々』という古いフランス映画に魅せられて、東京中の名画座を追いかけてまわったことがあったな。新宿伊勢丹のまえ、いまのマルイ本館のある場所にあった日活名画座で見たときは、やはり満員で坐ることができず、客席のうしろで、3時間をこえる大作を立ったまま見るはめになった。しかも名画座のある5階か6階まで、ビルの狭い階段を歩いて上るのだから、まさしく体力勝負。こんなこと若くなければできるわけがないよ。
 そんな味の濃いつきあいを何年もつづければ、映画との仲はいやおうなしに深くなる。落合少年も例外ではなく、やがてプロ野球選手になり、四六時中、「野球についてあれこれ考え続ける生活」になったのちまでも、

…時間があれば映画館へ足を運んだし、ビデオを借りてきてルームシアターにすることも少なくなかった。映画という存在が心地よかったのもある。それ以上に、映画館にしろルームシアターにしろ、映画を観ている時間は他人に邪魔されない。そうやって自分なりに心身をリラックスさせる空間や時間を作っていたのかと思う。(略)兄に連れられて行った芝居小屋のチャンバラ映画から半世紀余りで観た作品数だけは、半端なものではないはずだ。

 いわば若者の情熱と体力にささえられた群衆の中の孤独ですよ。そして70年代になると映画館の数がとつぜん激減し、80年代にはビデオ(落合のいうルームシアター)が普及し、90年代にシネコンが出現したのちも、かれのうちでは、むかしの映画館での孤独な映画少年の記憶がなまなましく生きつづけていたらしい。
 すると落合はその間、いったいどんな映画を見ていたのだろうか。
 さいわい、この本に「私の映画ベスト10」という章がみつかった。ベスト10といっても、なにしろ半端でない数の作品からえらぶのだから楽な作業ではない。とんでもないことを引き受けてしまったぞ、とぼやきながらも、そこからかれが最終的にえらんだのが以下の9本である。
 ①『チキ・チキ・バン・バン』、②『ロミオとジュリエット』、③『ゴッドファーザー』、④『アラモ』、⑤『黄色いリボン』、⑥『ローマの休日』、⑦『マイ・フェア・レディ』、⑧「007シリーズ」、⑨『黒部の太陽』―。
 ⑩が空白になっているのは、さんざんまよったすえに、これから新しい映画人がつくるかもしれない「歴史に残る作品」のために席をあけておこう、と考えたからなのだそうな。
 それにしても、やりますね、落合さん。はじめて見た洋画として絶対に外せないという『チキ・チキ・バン・バン』をのぞけば、どれも折り紙つきの娯楽作ばかりじゃないですか。
 おまけに、オリヴィア・ハッセーの『ロミオとジュリエット』とか、ジョン・ウェインの『黄色いリボン』とか、オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』とか、三船敏郎の『黒部の太陽』とか、どの作品もスター俳優の名で語られ、フランコ・ゼフィレッリ(つい先日、96歳で死去)、ジョン・フォード、ウィリアム・ワイラー、熊井啓といった、通常の「ベスト10」なら中心におかれるはずの監督の名など、どこにもでてこない。
 すこし妙な気がしないでもないが、考えてみれば、私だって中学生ぐらいまでは、アラン・ラッドの『シェーン』とか、ボブ・ホープの『腰抜け二挺拳銃』とか、ダニー・ケイの『虹を掴む男』とか、映画はもっぱら主演俳優で見るものだったのである。監督の名を意識して映画をえらぶようになったのは、高校生か、もしかしたら、やっと大学にはいってのちのことだったかもしれない。
 そして俳優だけでなく監督にも重きをおいてえらぶようになると、見る映画の幅に変化が生じ、当時の私でいえば、市川崑の『炎上』とか、今井正の『真昼の暗黒』とか、エリア・カザンの『波止場』とか、いくらか古い洋画であれば、それこそマルセル・カルネの『天井桟敷の人々』とか、たんに娯楽映画とはいいきれない領域にまで徐々にひろがってゆく。
 いや私にかぎらず、おなじ時代を生きたほかの人たちだって、おそらくそのようにして、たんなる「映画少年」ではない者に育っていったのではないだろうか。
 ―とまァ、これまでは漠然とそう思っていたのですよ。でもちがうのです。先にいったように、この率直すぎるほど率直な「ベスト10」から見るかぎり、いまも落合さんは「映画少年」の心のままに生きているらしい。そうと知って、ちょっとギクリとした。「あんた、なにをきどってるんだよ」と、裏切り者の私が「映画少年」時代の私に叱られているような気がしたのです。

 ただし念のためにいっておくと、このところかなり減ったとはいえ、往年の「映画少年」の体臭を身辺にただよわせている人は、ほかにもいないわけではない。たとえば山田宏一との対談『たかが映画じゃないか』で、みずから「子どもっぽい映画ファン」という和田誠―。

 まあ俺、小さいときから映画観てて、ちっちゃいときに映画を楽しんだ感じと、いま四十になって楽しむのと、自分の中で変ってないと思うのね。やっぱり、どっちがいい人でどっちが悪い奴だとか、騎兵隊が助けに来ると拍手するとか…ま、いまは恥ずかしいから実際には拍手しないけど、その程度の違いでね。わりとストーリーのはっきりした映画に愛着がある。だから、幼稚なファンなんじゃないかな。

山田宏一・和田誠『たかが映画じゃないか』文春文庫、蓮實重彥・武満徹『シネマの快楽』河出文庫、2001年

 もうひとりあげておこう。こちらは蓮實重彦と武満徹の『シネマの快楽』という対談本から。それによると両者とも一時は「毎年三百本」もの映画を見ていたらしく、「映画館から映画館へと向かうときのあの快楽…」と蓮實が語っている。

 いま、映画に関する本を一所懸命読む連中は、若い人たちの中にたくさんいます。たしかに彼らの映画的な知識は、十年前とはくらべものにならないほど充実していて、事実、いろんなことをよく知っている。でも、いかにも勉強って感じが強い。その知識が、映画館体験という通俗的な身振りで活性化されていないような気がするんです。

 かれらのほかにも、少年のころ見たアメリカの喜劇映画の魅力を語ってやまない小林信彦とか、西部劇や戦後日本映画への愛着を語りつづける川本三郎とか、「映画少年のなれの果て」感のつよい人たちが、いまも何人か見つかる。山田宏一や山根貞男もそう。「いまも」というのは、かれらが登場する以前の、双葉十三郎、植草甚一、淀川長治、野口久光といった戦前からの映画批評家たちは、その全員が例外なく年季のはいった「元映画少年」としてふるまっていたから。
     ―いや待てよ。ここで私はなんの気なしに「映画少年」と書いているけれども、このコトバ、はたしていまも現役なのかしらん。
 というのも、私の印象では、これはあくまでも映画館時代に生まれたコトバで、その裏には、親や教師の目をぬすんで映画館の暗闇にしけこむ、ちょっと不良っ気のある少年というイメージが貼りついているからだ。
 そうである以上、入れ替え制シネコンの、インターネットで予約し、エレベーターかエスカレーターで上っていって、前もって指定された坐り心地のいい椅子におさまって映画を見るという当今の上映システムには、とうてい馴染みそうにない。おまけにそこにDVDやブルーレイが加わるから、とくに情熱や体力を費やさずとも、新旧とりまぜて、大量の映画を気軽に見ることができる。それやこれやで、いつしか「映画少年」というような泥くさいファンのあり方が消え、それとともにこのコトバも死語と化してしまった。どうやらそう考えておいたほうがよさそうなのである。
 では、もしそうだとすると、こうした変化は一体いつ生じたのだろう。
 いまあげた和田や蓮實や川本といった戦後派の人たちの多くは、もちろん落合や私もふくめてだが、東映の時代劇やハリウッドの西部劇によって映画の魅力にめざめ「映画少年」になった。しかし、つぎの世代の人たちはちがう。その後、70年代にものごころついたかれらが最初に接したのは、映画ではなく、『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』などのテレビアニメだった。すなわちテレビに食われて映画の観客数が激減し、映画の日常的な「食卓」である映画館がつぎつぎに潰れていった時代。
 そして、さらにつぎの世代になると、おなじアニメでも前世紀末にはじまる『新世紀エヴァンゲリオン』の時代、いいかえれば社会のデジタル化とインターネットの時代がやってくる。それはまた一戸建ての映画館がまたたくまにシネコンに取って代わられた時代でもあった。―と、こうした大きな転換期をつうじて「映画少年」というコトバの影はしだいに薄れ、いまや、ほぼ完全に消滅するにいたった。私にはそう思えてならないのだが、ちがいますかね。

 さきの「私の映画ベスト10」からもわかるように、落合にとっての映画館時代は、チャップリンや長谷川一夫にはじまる銀幕の大スター、すなわち「時代を超越してナンバーワンと言える存在」を生んだ時代でもあった。かれがいちばん好きだというジョン・ウェインも、オードリー・ヘップバーンも、三船敏郎も、みなしかり。結果として落合は、かれの「ベスト10」をこの時代が生んだ作品で埋めることになった。もちろん、ふるきよき「食卓」へのかれの愛着や感謝の念がそうさせたのである。
 ところが、にもかかわらずなのですよ。さっきもいったように、かれはみずからの「ベスト10」の最後を意図して空欄のままにした。「私たちの世代は、映画に育てられただけに昔の作品を好む傾向にある。中には、『映画の時代は終わった』と嘆く人もいる。そういう現状も踏まえ」てわざとそうしたのだという。その背景には、どうやら二十歳のときに見た後楽園球場での長嶋茂雄の引退試合の記憶があったらしい。

長嶋さんが万雷の拍手に送られてグラウンドを去っていくのを見ると、「日本のプロ野球はこれで終わるのではないか」と本気で思えた。しかし、長嶋さんが引退した後もプロ野球は多くのファンに支えられ、そのグラウンドには私自身が立っていたのだ。一〇年ごとにプロ野球を代表した選手を挙げれば、六〇年代は長嶋さん、七〇年代は王貞治さん、そして八〇年代は落合博満の時代だったと自負している部分もある。そうやって、文化やスポーツの世界は歴史を重ねていくものだろう。私は、一〇本目の作品が生まれることを楽しみに、映画鑑賞を続けていきたいと思っている。

 この「落合博満の時代だったと自負している部分もある」という口ぶりが、すこし気にかかる。どうもこれはたんなる謙遜ではないな。もしかすると、この発言には、じぶんはついに長嶋さんや王さんのような文句なしの国民的大スター―「時代を超越してナンバーワンと言える存在」にはなれなかった(=だれもそこまでは思ってくれなかった)という、かなり屈折した思いがこめられているのではあるまいか。
 戦後の日本でプロ野球は映画と並んで大衆文化の中心に位置していた。ところが長嶋と王があいついで引退したころから、その不動であるはずの人気に陰りが生じ、落合が現役を引退し、のちに監督に転じた21世紀のゼロ年代にはいると、発足してまもないJリーグ・サッカーのいきおいもあって、足もとがにわかにぐらつきはじめる。ようするに「プロ野球は終わるのではないか」という不安は、「映画の時代は終わった」という嘆きとまったくおなじ時期にはじまっていたのだ。
 しかし、だからといって選手や監督としてのじぶんの力量が長嶋や王より劣っていたわけではない。その自信はいまもあるのだが「ただ思うことがある」と落合はいう。

私が少年だった頃はまだテレビが普及しておらず、限られた娯楽として映画を鑑賞した。だが、現代は(略)様々な娯楽の中から能動的な選択によって映画を鑑賞するという時代なのだ。ゆえに、スポーツ選手でも俳優でも、どんな世界にも自分にとってのヒーローやスターはいるのだが、国民の誰もが憧れるスーパースターは生まれにくい状況になっている。
 私はプロ野球人として、誰かに憧れたことも目標にしたこともない。(略)目標を決めた時点でその人を上回ることはできない、つまり新たな時代を築くことができないと感じたからである。(略)
 だが、ふと思った。私の生き方や考え方が、三船敏郎が演じた男のようだと言われたら…。私自身はこれまで一度も意識したことはないが、そう言われた時に「そうかな」とは思えても、「いや、全然違うでしょう」と否定する気持ちにはならない。無意識のうちに、私の中には三船敏郎がいるのだろうか。もしかしたらスーパースターとは、そうやって人の心に忍び込み、生き方や考え方にまで影響を与えるほどのパワーを持っているのかもしれない。

 私のような普通のファンなら映画でもプロ野球でも「見る側」に立ってつきあうことができる。しかし落合はちがう。映画について語るとき、かれは私たちと同様に「見る側」に立っている。他方、野球におけるかれはあくまでも「見られる側」―それも歴史的な大スターのひとりなのだ。ただし長嶋も王も、ジョン・ウェインも三船敏郎も存在しえなくなった時代に生きる大スターだから、なにも考えず、その椅子にただ悠々とすわっていることはできない。
 そこで思いだすのが、落合を語るさいにしばしば用いられる、あの「オレ流」という語である。
 ここでいう「オレ流」には、じぶんの「練習方法やプレースタイルは、過去に誰も実践していない独自のもの」と考え、ひたすら「我が道を行く」男という意味がこめられている。
 だけど、その種の決めつけは私はごめんこうむりたい、と落合はそっけなくいってのける。
 ひとつには、バッティング技術にしても監督の采配法にしても、たとえ「最終的な形が私独自のものであっても、それを作り上げていく過程では過去の名選手、目の前にいる先輩を手本に」してきたからだ。そこから採れるものは採り、捨てるものは捨てる。その繰りかえし。なのにメディアの人間のみならず、選手や指導者までもが「オレ流」などと、「自分の勉強不足を棚に上げて」軽くいってのける。自己流? 冗談じゃないよ。野球人としての私のモットーはむしろ「温故知新」なのだ。だからこそ私は、「若い世代には『ひと昔前の人たちは何を考え、どんなものを残してきたのか』ということを知る姿勢を持ってほしい」とねがうのだと―。
 そしてもうひとつ、こちらは私の勝手な推測になるが、高校生のころ野球部の練習をさぼって映画館に入りびたっていたという昔話が示すように、たぶんかれは、「オレ流」という語のうしろに見えかくれする、いかにも体育会系くさい気質や習性が苦手だったのではないかな。
 2011年、落合は8年間でリーグ優勝4回、日本一1回というめざましい成績をのこして、監督としてひきいた中日ドラゴンズを去った。
 そこで思い立って落合の過去の対談動画をYouTubeでさがしてみたら、引退後の評論家時代を中心に、かなりのかずの野球人との対談映像が見つかった。のぞいてみると、予想どおり、生粋の体育会系ともいうべき張本勲や星野仙一や清原和博たちとの対談にくらべて、以下の3人―野村克也、江川卓、オリックス時代のイチローとの対談が、ずばぬけて充実している。
 ―ははァ、やっぱりね。
 落合は野村(1935年生まれ)の18歳下で、江川(同55年)の2歳上。そしてイチロー(同73年)は20歳下。生まれ育った時期こそことなるが、4人ともがプロ野球界では異端といっていい強烈な個性派なのである。もちろん、それぞれに少なからぬちがいがあるけど、ここでの話の流れでいうと、とくに野村とのちがいが興味ぶかい。たとえば田中将大投手がアメリカに渡った直後の、こんな会話―。

野村 最近、気に食わないことがあるの。猫も杓子も「メジャー、メジャー」と行っちまうじゃないの。
落合 行きゃいいじゃないの。大賛成。行きたいと思うやつは、ぜんぶ行けばいい。
野村 大反対。(笑)日本のプロ野球、どうなるの?
落合 いや、かれらがいなくなったって、なんとでもなる。また一流が育つ。超一流かどうかはわかんないけど、いい人材は、これからだって出てくるよ。
野村 一流って、そう簡単に生まれるかね。
落合 現に生まれたじゃないですか、おたがい…。(笑)
野村 あんた、現役だったら行ってた?
落合 行ってた。いまのメジャーは面白くないけど、むかしだったら行ってたね。
野村 ふうん。…あんた、日本のプロ野球、愛してないの?(笑)

 どう? おかしいでしょう。なんだか「ぼやき」の野村と「オレ流」落合の漫才みたい―。
 野村は長嶋の1歳上で、それなのにオレは長嶋や王のような「文句なしの国民的大スター」にはなれなかった、という切ない思いがあった。しかし18歳下の落合には、もうそんなコンプレックスはない。まったくないとまではいえなかろうが、長嶋や王、そして野村の時代に敬意をいだきながらも、そこにとどまっていたら、「日本のプロ野球」に「新たな時代を築くこと」はできないという確信のほうがつよかった。そして落合も野村もそのズレをおたがいに意識していた。そこからただよいだすおかしみ。それがこの対談がもつ味なのでしょうな。
 「むかしだったら行ってたね」と落合がいうのは、ことわるまでもなく、かれの選手時代は球界の閉鎖的な壁に阻まれて、事実上、メジャー移籍が不可能だったからだ。
 しかし1995年に野茂英雄がその壁を強引に突破したのち、これまでに56人がアメリカに渡っている。野茂は別格として、なかで落合はイチローと大谷翔平の決断のしかたに、とくに共感しているらしい。金のことや、メジャーで通用するかしないかよりも、じぶんの野球(大谷でいえば投打の二刀流)を、なにがなんでもアメリカで実現してみたいという欲求が先にたつ。そして現実にかの地で「文句なしの」スーパースターになってしまった。
 ―だからさ、ノムさん、われわれのようにわがままで偏屈な人間は、これからだっていくらもでてくるのよ。
 映画でも野球でも、私はじぶんが生きた時代を愛している。でも、そのまえやあとの時代にくらべて、じぶんの時代がとくにいい時代だったとまでいうつもりはないから、じぶんの体験を棍棒にして若い世代の体験をぶっ叩くようなこともしたくない。基本的には温故知新の線でいくとして、それと同時に、あとからくる連中のための席をあけておくことを忘れない。
 ―つまりそういうこと。むかし長嶋や王やノムさんの時代があり、私や江川の時代をはさんで、いまはイチローと大谷の時代。それでいいじゃないの。そう思って往生しましょうよ。


落合博満「戦士は何を食べて来たか・第一回」スタジオジブリ『熱風』2019年6月号
落合博満『戦士の休息』岩波書店、2013年
落合博満・野村克也「生対談、今だから話そうあの時の真実」2011年2月19日 TBS「S-1」
山田宏一・和田誠『たかが映画じゃないか』文藝春秋、1978年→文春文庫、1985年
蓮實重彦・武満徹『シネマの快楽』リブロポート、1986年→河出文庫、2001年

最後の読書

2018/11/30発売

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

津野海太郎

つのかいたろう 1938年福岡生まれ。評論家。早稲田大学卒業後、劇団「黒テント」演出、晶文社取締役、『季刊・本とコンピュータ』総合編集長、和光大学教授・図書館長などを歴任。著書に『滑稽な巨人 坪内逍遙の夢』(新田次郎文学賞)、『ジェローム・ロビンスが死んだ』(芸術選奨文部科学大臣賞)、『花森安治伝』、『百歳までの読書術』、『読書と日本人』ほか。

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