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おかぽん先生青春記

 俺の情熱的な公募書類と34歳にしては充実した研究業績のおかげで、千葉大学は俺を面接に呼んでくれた。正確には呼んでくれたのは千葉大学ではなくHM先生とST先生である。面接には何も持ってくる必要はないと言われたので、スライドを持って行ってもしょうがないだろう。パワーポイントはない時代である。俺はせめてもの工夫として、自分の研究を最大限に魅力的に紹介できるような印刷物を10枚ほど用意し、クリアファイルに紙芝居のように入れて準備しておいた。

 面接はこの二人の先生が対応してくれるはずだったが、実際に対応してくれたのはHM先生で、ST先生はせわしなく面接室を出たり入ったりするのみであった。そして入ってくるときには必ずコーヒーサーバーを持っており、「コーヒー飲む?」と聞いてくれた。飲まないと言うと落ちそうな気がしたので、毎回飲むことにした。1時間足らずの面接で5杯のコーヒーを飲んだ。当時は、今ほどは小用が近くなかったのだ俺は。HM先生は、俺の生い立ちから研究まで丁寧に話を聞いてくれ、そして千葉大に来てどうするつもりか、と質問した。俺は「認知科学を生物学の一部門にする」と言った。これは博打であった。文学部の教員の公募に来た者が、人文科学を自然科学にすると言っているようなものである。しかしST先生はその時たまたまコーヒーを持って入ってきており「いいねえ。それ、いいねえ」と言ってマグにコーヒーを注ぐと、また外に出て行った。

 その発言をしたとき、俺はジュウシマツの脳の写真を見せているところであった。1枚は脳の構造が良く見えるニッスル染色で脳を染めた写真。もう1枚は脳のエネルギー消費量が高いところがよく見えるチトクロム酸化酵素染色。オスのジュウシマツの脳をこれで比較すると、聴覚系と発声系で非常にエネルギー消費が高いことが一目瞭然なのだ。このような手法で、認知機能と生物学の対応を見ることができる。ST先生は出て行ってしまったが、HM先生は「ふんふん、ま、いいじゃない」と良いのかどうか良くわからない応答をしてニヤニヤしていた。

 俺の面接はこういう状況で進み、終わった。ST先生は主にコーヒーを飲ませてくれた。HM先生は主に話を聞いていてくれた。俺の心意気を話した場面で、ちょうど二人の先生が聞いていてくれたのは幸いであった。俺は駅前にある「北京亭」という中華料理屋でチャーハンを食べ、「もし採用されたら、俺は週に3回はここに来るだろうな」と思った。その後どのような話が行われたかは全くわからぬが、俺はめでたく採用された。俺は週に3回以上北京亭に通うことになった。

 千葉大に入ってきてしばらくすると、俺が入ってきたことで車の両輪がそろったとST先生が酒に酔って話してくれた。両輪のうち片方は何なのかよくわからないが、たぶん情報科学なのであろう。千葉大に新たにできたこの講座は、情報科学と神経科学を両輪として認知科学を革新しようとしていたのだ。俺はこの講座に11年ほど居たが、その革新を推し進めることに貢献できたと思っている。今では当然と思うかも知れないが、当時は認知神経科学という言葉もなかったのであり、情報科学と神経科学の融合の上に立つ認知科学は、心意気の点では最先端であることは確かだったと思う。

 5年間のポスドク暮らしが終わった。これが5年で済んだのは、精神衛生上たいへん幸運であった。同時に、これが5年あり、その間に神経科学、生態学、心理学と異なる分野の研究室で、全く異なる価値観を持つ分野に身を置けたことはたいへん幸運であった。

 現在の大学事情を考えると、ポスドク5年というのは短いほうである。長ければ10年、15年と、この不安定な状況は続く。その間に経済的に困窮し精神的に追い詰められ、違う道を選ぶ若者は多い。もちろん、ポスドクをしている間により興味と適性の強い分野を発見し、そちらの道を選ぶ若者も多い。いずれにせよ、不安定な時期が長すぎる現状はなんとかすべきだと思う。大学であれ、企業であれ、才能ある若者たちを上手に取り立てる方法を探し求めるべきである。

 俺が赴任した時点では、千葉大学に俺の居室はなく、海外研修に行っている教員の部屋を間借りした。その部屋にはガラスのコーヒーテーブルが置いてあり、俺はその前のソファをまたいで机に向かおうとしたところ転倒し、ガラスのテーブルで肋骨を1本折った。それが治りかけたころ、ある研究会で楽しい気分になった俺は、ガラスのドアが閉まっていることに気が付かずスキップしながらファミレスに入ろうとしてドアをけり破り、世界にひびが入って崩れ落ちてゆくのを見た。俺は左手の腱を全部切る大けがをしたが、幸い手術がうまく行き、現在でもギターが弾ける。

 これらの怪我はあったが、俺は大学教員になって幸せだった。これらの怪我について同僚のMJ先生に話すと、彼女は「あなたが採用されて落ちた人の恨みでこれからも事故が起こるだろうから、西千葉駅前の神社にお参りに行って怪我しないようにお願いしてきなさい」と警告した。そのようなありがたい神社がすぐそばにあるのならと思い、俺はすぐにお参りにいって賽銭を千円入れてきた。

 その後札幌出張に行ってきた俺は「お参りしたおかげで無事帰ってきましたよ」と、お土産と一緒にMJ先生に報告した。MJ先生は大爆笑して「ばかね、あの神社は昔の首塚だったところを鎮魂しているところよ。呪われなくてよかったね。自分で調べてからお参りしなきゃだめよ」と俺をたしなめた。当時はGoogleはなかったが、AltaVistaというものがあり、俺は西千葉駅近くの首塚について調べた。西千葉稲荷大明神というところだ。確かに首切り場があった場所らしい。俺はその神社にお礼参りをし、これからの無病息災を祈ってきたのであった。MJ先生のおかげで、俺は人の言うことは真に受けず、自分の頭で考える人間になった。まあ赴任早々いろいろあったわけだが、俺は大学教員になったのだ。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

岡ノ谷一夫

帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。

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