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2020年4月28日

斎藤環×與那覇潤『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』刊行記念特別企画

トイレットペーパーはなぜ消えたのか?

著者:

「ひきこもり」を専門とする精神科医・斎藤環さんと、「重度のうつ」をくぐり抜けた歴史学者・與那覇潤さんが、心が楽になる人間関係とコミュニケーションを考えた対談本『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』(新潮選書)が、2020年5月27日に発売されることになりました。月刊誌「波」で行われた刊行記念対談の一部を、「考える人」にて先行公開いたします。ぜひご一読ください。

左から與那覇潤氏、斎藤環氏

エビデンス主義の限界

與那覇 この春の新型コロナ騒動でトイレットペーパーがあっという間に売り場から消えたのを見て、改めて本書で論じた「うつ病社会」の問題点が浮き彫りになったなと感じました。
 医療の専門家が「エボラ出血熱のような致死率の高いウイルスではなく、お年寄りや病人以外は、過剰に恐れる必要はない」、各種のメディアが「トイレットペーパーは国内で生産しており、供給が止まることはない」とエビデンス(証拠)を示して説明しても、人々のパニックは収まりませんでした。

斎藤 本の中でも「エビデンス主義」の限界について何度か論じましたが、まさにその通りの展開になりましたね。

與那覇 個人のメディアリテラシーをいくら高めても、消費者が「私は冷静で優秀だから、正しい情報を知っている。しかし他の奴らはバカだから、パニック買いをするに違いない。だから在庫がなくならないうちに買いに行こう」とする態度をとるかぎり、結局は売り場から消えてしまう。つまり社会全体に他人を見下し、互いを信じない風潮が広がっていることこそが、真の問題だと思います。

斎藤 「情報」はあるけど「対話」がない。対話をする機会や空間がないから、「もし足りなくなっても、近所でちょっと融通し合えば大丈夫だろう」という発想が出てこずにパニックになる。
 新型コロナ騒動で露見したのは、これは日本だけの傾向ではなく、全世界的なものであるということです。むしろ欧米の方がもっと激しいパニック買いが起きていました。

與那覇 ぼくの体験に照らすと、世界中で社会の雰囲気が「広く薄いうつ」に陥っているようにさえ感じます。
 うつ状態ではすべてに悲観的になり、他人を信じることができません。出演者が大笑いするバラエティを見るだけで、「俺らはこんなに楽しいぜ。うつのお前はそうじゃないけどな」と言われたように感じてしまう。「病気だと知られたら、誰もが自分をバカにしてくる」と孤立感を深め、ますます人と話せなくなる。自分が他人を信じないことが、「どうせ向こうも同じだ」とする思い込みを増幅させて猜疑心の連鎖を招く現象が、うつ病以外の人にも拡散していませんか。

斎藤 社会全体が「うつ病化」する中で、どうすればお互いを信じ、安心できるコミュニケーションを回復できるのか。それが本書の大きなテーマの一つでした。
 先ほどエビデンス主義の限界という話をしましたが、與那覇さんが歴史学者として日中韓の「歴史認識問題」に取り組んでいた時の話が印象的でした。

與那覇 お恥ずかしい。あの頃は多くの学者が、国境を越えて「同意」できる歴史の語りを積み重ねることが解決につながると説いたのですが、実際には事実関係を詰めていくほどに一致できない対立点が増え、逆効果に終わりました。
 後から思えば、同意ではなく、互いに「共感」できるルートを作れば良かった。「同意なき共感」を目標とすべきところを、「共感なき同意」ばかりを求めた結果、完全に袋小路にハマってしまった感があります。

斎藤 精神科の臨床でもエビデンス主義の限界を感じます。要するに精神療法やケースワークはエビデンスがはっきりしないことが多いので、どうしても投薬治療に偏りがちになる。しかし、本の中でも説明したように、抗うつ薬は確かに「効く」けれど、それだけでは「治しきれない」。実際の治療は、処方する医者の問診やソーシャルワーカーの生活支援など、数値化できない個別的な要素に負うところが大きいわけです。

與那覇 医師が「効果にエビデンスのある薬だから」と投薬に甘えてしまえば、人間的な働きかけやケアを怠ってしまう。患者も「必ず効くはずだから」とサプリのように服薬しながら無理に働き続けることで、必要な休息をとれず、自殺など深刻な事態を招いてしまいます。

過剰適応という病

斎藤 本書の第八章で、電通で働いていた高橋まつりさんの過労自殺事件について論じています。そこでも事件の原因を「残業時間」という安易なエビデンスに還元してはならないという話をしましたね。労基署が認定した時間外労働が直前の一か月で月一〇〇時間あまりだったことを考えれば、彼女を追い詰めたのは残業時間だけでなく、むしろ人間としての尊厳や承認の問題だったはず。そこを丁寧に見ていく必要があると論じました。

與那覇 注目された彼女の生前のツイッターにしても、痛切なのは「今までの苦労は何だったのか。約束が違う!」という思いです。苦学して東大に進み一流企業に入ったのに、まったく充実感を得られない環境しか待っていなかった。
 そうした人生への絶望を見ず、「時短」の錦の御旗としてのみ利用した政治家や有識者は、あまりに軽薄ですね。

斎藤 私が連想したのは皇太子妃時代の雅子さまです。第一線の外交官としてバリバリ活躍していたのに、「日本一の旧家」に嫁いだら、期待されるのは子作りと宮中祭祀だけ。それまで築いてきたキャリアはまったく尊重されず、適応障害になってしまいました。
 優秀で真面目な人ほど、周囲の環境や期待に無理に適応しようとして心を病んでしまう。

與那覇 だから電通事件の後、「真面目な頑張り屋だった」として同情を誘おうとする報道には、強い違和感を覚えました。「頑張り続けない人間は認めないぞ」という世間の認識こそが彼女を追いつめた可能性を省みず、なおも「頑張り屋」を美徳として強調する。むしろ頑張らず、早めに医者にかかって休職していれば、自殺せずにすんだはずなのに。

斎藤 よく殺人事件や死亡事故のニュースでも「明るく快活な人でした」などのコメントが出ますが、それを聞くたびに、「暗いやつだったら死んでもいいのか」と複雑な気分になってしまいます。

與那覇 世の中がどのような人間像を期待するかによって、心の病気のあり方も変わってくる。であれば、個人に投薬治療を施すだけでは解決にならない。自己と他者、個人と社会との間にある関係性の病理について考えなければならないというのが、本書の最大の主張です。

(この対談の全文は、月刊誌「波」6月号に掲載予定です)

斎藤環、與那覇潤『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』 (5月27日発売予定)

【目次】
第1章 友達っていないといけないの? ―ヤンキー論争その後
第2章 家族ってそんなに大事なの? ―毒親ブームの副作用
第3章 お金で買えないものってあるの? ―SNSと承認ビジネス
第4章 夢をあきらめたら負け組なの? ―自己啓発本にだまされない
第5章 話でスベるのはイタいことなの? ―発達障害バブルの功罪
第6章 人間はAIに追い抜かれるの? ―ダメな未来像と教育の失敗
第7章 不快にさせたらセクハラなの? ―息苦しくない公正さを
第8章 辞めたら人生終わりなの? ―働きすぎの治し方
終章 結局、他人は他人なの? ―オープンダイアローグとコミュニズム

 

斎藤環

1961年、岩手県生まれ。精神科医。筑波大学医学研究科博士課程修了。爽風会佐々木病院等を経て、筑波大学医学医療系社会精神保健学教授。専門は思春期・青年期の精神病理学、「ひきこもり」の治療・支援ならびに啓蒙活動。著書に『社会的ひきこもり』、『中高年ひきこもり』、『世界が土曜の夜の夢なら』(角川財団学芸賞)、『オープンダイアローグとは何か』、『「社会的うつ病」の治し方』ほか多数。

與那覇潤

1979年、神奈川県生まれ。評論家(元・歴史学者)。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学者時代の専門は日本近現代史。地方公立大学准教授として教鞭をとった後、双極性障害にともなう重度のうつにより退職。2018年に自身の病気と離職の体験を綴った『知性は死なない』が話題となる。著書に『中国化する日本』、『日本人はなぜ存在するか』、『歴史なき時代に』、『平成史』ほか多数。2020年、『心を病んだらいけないの?』(斎藤環氏との共著)で第19回小林秀雄賞受賞

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

斎藤環

1961年、岩手県生まれ。精神科医。筑波大学医学研究科博士課程修了。爽風会佐々木病院等を経て、筑波大学医学医療系社会精神保健学教授。専門は思春期・青年期の精神病理学、「ひきこもり」の治療・支援ならびに啓蒙活動。著書に『社会的ひきこもり』、『中高年ひきこもり』、『世界が土曜の夜の夢なら』(角川財団学芸賞)、『オープンダイアローグとは何か』、『「社会的うつ病」の治し方』ほか多数。

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與那覇潤

1979年、神奈川県生まれ。評論家(元・歴史学者)。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学者時代の専門は日本近現代史。地方公立大学准教授として教鞭をとった後、双極性障害にともなう重度のうつにより退職。2018年に自身の病気と離職の体験を綴った『知性は死なない』が話題となる。著書に『中国化する日本』、『日本人はなぜ存在するか』、『歴史なき時代に』、『平成史』ほか多数。2020年、『心を病んだらいけないの?』(斎藤環氏との共著)で第19回小林秀雄賞受賞

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