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斎藤環×與那覇潤『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』刊行記念特別企画

2020年7月14日

斎藤環×與那覇潤『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』刊行記念特別企画

「よりよいコミュニケーション」を考える映画(後編)

『エターナル・サンシャイン』&『秋刀魚の味』

著者: 斎藤環 , 與那覇潤

精神科医・斎藤環さんと歴史学者・與那覇潤さんの対談本『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋 』(新潮選書)の刊行を記念して、著者のお二人に、治療者の視点から、体験者の視点から、それぞれのお薦め映画について話していただきました。最終回となる今回は、「よりよいコミュニケーション」の条件を考える映画の後編です。ぜひご一読ください。

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幸せは「操作主義」にはない

與那覇 私がお薦めする「よりよいコミュニケーションを考える映画」の二本目は、ラブ・コメディの『エターナル・サンシャイン』(2004年・米)です。カップルを演じるのがジム・キャリーとケイト・ウィンスレットという組み合わせも異色ですが、それ以上に設定がめちゃくちゃひねってあるんですね。
 ユニークなストーリーが評価されてアカデミー脚本賞を受けましたが、メインライターはチャーリー・カウフマン。本作の4年前には『マルコヴィッチの穴』で同じ賞の候補になっていますが、こちらも奇想天外な作品で…。

斎藤 『マルコヴィッチの穴』は、トラウマものがマンネリ化していたハリウッドの風潮を皮肉った怪作で、私も『心理学化する社会』で高く評価したことがあります。「(実在する俳優の)ジョン・マルコヴィッチの脳内に入れる」という謎の穴がもたらす悲喜劇を通じて、登場人物のアイデンティティがぐちゃぐちゃになってゆく様子を描いています。
 一方でこちらの作品は見逃していましたが、どんなストーリーなんですか?

與那覇 『エターナル・サンシャイン』に登場するのは、むしろ“自分の”脳内を医療スタッフに操作してもらって、苦痛をもたらす「忘れたい記憶」を消去するというアイデアです。いわば記憶除去手術が、秘かにもうアメリカでは実現しているんですよと。こういう設定で物語はスタートします。
 具体的にいうと、失恋や恋人との大喧嘩の後には、「あんな人と出会わなきゃよかった!」と思うことがありますよね。そうしたときに記憶除去サービスに駆け込むと、脳の中からその人にまつわる記憶をすべて消してくれる。翌日、当人に出会っても「どなたでしょう? どこかでお会いしましたか?」な状態になれるというわけです。

斎藤 ほほう。やはり「脳」の存在感が肥大化してゆく現代社会に、興味がある脚本家さんなんですね。私たちの対談本でも、近年の自己啓発の世界における(疑似)脳科学の拡大に警鐘を鳴らしました。
 目下の日本で流行する「脳」本は、「各人の脳のスペックは遺伝で決まっているから、もうあきらめよう」といったトーンが強いですよね。しかしアメリカの映画では逆に、脳が大事だからこそ「人工的に施術して“よりパーフェクトな脳”を作ろう!」とする発想が出てくるのは興味深い(笑)。

與那覇 ええ。斎藤さんの用語でいう「操作主義」の極致とも言うべき世界観が描かれています。もちろん脚本家のカウフマンには、「こうした事態を招きかねない風潮がいまあるけど、本当にそれでいいのか?」という問題意識があるわけです。
 「苦しいから忘れたい過去」は多くの人にあるので、一見すると操作主義的に脳から記憶を除去できるのは「いいこと」に思える。しかし喧嘩の後にカップルの片方だけが記憶を消去し、すれ違っても「誰?」としか言わなかったら、もう片方は「自分はサクッと記憶を消される程度の存在だった」ことのショックに苦しみ、そちらも記憶を消したくなってしまうでしょう(苦笑)。
 一人の不幸をピンポイントに除去したつもりが、かえって別の人に不幸の連鎖を生むかもしれない。そういう形で、個人単位で人工的に“幸せな状態”をつかませようとする現代社会の空気を、鋭く批判しています。

斎藤 なるほど。その問題は脳科学のみならず、精神医療にとっても他人事ではありません。対談本でも議論したように、精神医学界が「使いやすい抗うつ薬が出ましたから、周りに病気を打ち明けずとも、一人で飲んでうつ病は治せますよ」とPRした結果、問題が“個人化”されてしまい、人をうつに追い込むような職場環境・人間関係を見直していく機運がしぼんでしまいました。
 またアメリカでは精神分析がカジュアルな存在で、多くの人が分析家に「自分の内面」を観察してもらい、トラウマとなっている過去の記憶を操作して「よりよく生きよう」とします。しかしその過程で、実際には存在しなかった「幼少時に親戚にレイプされた」といったエピソードを信じるようになり、泥沼の訴訟合戦になってしまった例もある。そうした風潮に対する問題意識も、感じさせる設定ですね。

與那覇 そう思います。ご想像のとおり、映画はキャリーとウィンスレットの「記憶を消しちゃったカップル」が、もういちどヨリを戻すことはできるのか? というサスペンスの形で展開します。見逃せないのはオチで、ネタバレしないよう曖昧にしか言えませんが、私たちが対談本でずっと提唱してきた「条件なしの承認」の大切さが謳われているんです。
 「あなたはこれこれの長所があるから、好き」というのは、“条件あり”の承認ですよね。しかしこの発想は裏を返すと、「でもこれこれの短所は、嫌い。愛してほしかったら削除して、長所しかない“理想の存在”になってほしい」とする操作主義に結びついてしまう。「嫌な人についての不快な記憶は、脳を手術して消しちゃおう。これぞ究極のライフハック!」という世界観は、まさにその一歩先にあるわけです。
 しかしそうした操作主義のエスカレートの果てに、ほんとうの幸福があるのか? 人を好きになって、その人と幸せになるというのは、もっと根本的に違う状態を指していたんじゃないか。そう問いかける、シンプルですが滋味深いエンディングが待っています。

斎藤 そう聞いてしまうとどんな結末になるのか、精神科の臨床医として大変気になってきますね(笑)。いや、見逃して損をしたかもしれません。

「冗長性」の美学に触れる

斎藤 私はまた別の角度から、操作主義的な「幸福の追求」とは異なる人間のあり方を示してくれる、味わい深い作品を挙げたいと思います。小津安二郎監督の『秋刀魚の味』(1962年・日)です。
 私は小津映画が大好きで、なかでもこの作品を一番たくさん見ているんですよ。與那覇さんも、小津映画には強い関心をお持ちだと思いますが…。

與那覇 恥ずかしながら歴史学者だったころに、『帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史』という本まで出しました。『秋刀魚の味』は劇場映画としての遺作に当たりますが、とくにこの作品に惹かれる理由というのは…。

斎藤 対談本の第2章で「日本的家族」の問題を議論した際にも触れましたが、小津安二郎の映画作りは、ある意味では徹底した「操作主義」ですよね。監督自身が箸の上げ下げ・コップで水を飲むタイミングまで俳優に指示して、一切のアドリブを許さない。
 しかし逆説的なことに、結果として小津の家族映画は“よく見ると”随所に不自然なところがあり、一種の異化効果にも見えます。つまり「思いやりの深い、素敵な家族でしょう」というストーリーを展開しながら、ほんとうは「でもこの人たち、演出でそう見せてるだけだから。こんな理想の家族、いるわけないよね」と、裏で笑われている気さえしてくる。
 私の考えでは、『秋刀魚の味』はそうした屈折した演出の極点であると同時に、それがなんとも言えない温かさに結びついているんです。この映画は会話が奇妙で、同じ台詞の繰り返しが異常なほど多い。―つまり、冗長性が非常に高い作品なんです。

與那覇 冗長性というのはこの場合、ストーリーを前に進める上で「あってもなくてもいい台詞」ということですよね。ただ、小津映画の台詞使いは基本的にハイコンテクストですから、文字面だけ見ると「それ、別に言う意味ある?」という一言に、万感の思いがこもっていたりします。
 あまりにも有名でパロディのネタにされるのは、『東京物語』で笠智衆がぽつんと発する「今日も暑うなるぞ」。その一語で、愛する奥さんに先立たれた後も、どうにか取り乱さずに生きていこうとする老人の矜持を伝えています。

斎藤 まさに世界の映画史に残る名場面ですが、しかし『秋刀魚の味』の会話の冗長性は、ちょっと方向性が違うんですよ。たとえば若い夫婦を演ずる佐田啓二と岡田茉莉子が、「夫がゴルフに行くかどうか」という本当にどうでもよい話を、延々とやるんですね。
 佐田が「ゴルフをやらなきゃいけないんだよ」と愚痴をこぼすと、岡田が「やめちゃえ、やめちゃえ。お金もかかるし」みたいなことを言って、ひたすらこれを繰り返す。そこに登場人物の秘めた思いとか、熱いメッセージみたいなものは特にないのですが、しかしこのかけあいが非常に素晴らしいんです。

與那覇 うーん。そのカップルは、当時は先進的だったはずの団地に住んでいて、佐田がゴルフクラブを磨いていたような記憶はあります。しかし、たしかにその会話はストーリーの本筋に絡まなすぎて、まったく覚えていません(笑)。

斎藤 「冗長に見えるけど、実は深い意味があるぞ」ではなくて、ほんとうに冗長なだけなんです。しかしまさにそのことによって、何度もこの映画を見たいなと思わせる絶妙なリズムというか、幸福感が生まれているんですね。
 もう一つ例を挙げると、同窓会のシーンがあります。元々主人公たちの先生だったという設定の東野英治郎は、いまは引退して中華料理屋のオヤジになっているのですが、これがどうもあまり流行っていない。ところが同窓会に呼んでもらえて、久々に高価なご馳走を食べるわけです。
 なかでも(はも)のお吸い物が非常においしかったみたいで、感に堪えたように言う台詞が、「鱧かぁ。魚偏に豊かかぁ」。お酒も入っているから、同じことを何度も繰り返す。一見すると、ただの酔っぱらいの独り言を撮っているだけなんですけど、なんでこのつまらない台詞がこんなに心に迫るんだろうというぐらい、じんとくるものがあるんですね。

與那覇 老いても毅然としていた『東京物語』の笠智衆とは違い、『秋刀魚の味』の東野英治郎は「冴えない老人」で、教え子たちにも内心呆れられている。だから一言できりっと決めるんじゃなくて、ぐだぐだ同じ台詞を繰り返しちゃうのですが、それが人情味を生んでいるということですか。

斎藤 そうとも言えます。繰り返しのほかに『秋刀魚の味』で顕著なのは、対話相手の発言をそのまま言いなおす「オウム返し」の多用。とにかくしょっちゅう出てきます。
 これはコミュニケーションを考えるうえでも、大事な視点を提供してくれていると思うんです。つまり対話には実は冗長性が不可欠で、「効率よく、無駄のないコミュニケーションをしよう」とすると、かえって人の心は満たされなくなるんですよ。
 よく口癖のように、「つまり何が言いたいの?」って言ってしまう人がいますよね。本人は会話を意味あるものにしたくて言っているのだけど、実際には往々にして、そうした態度は対話を壊してしまう。むしろ繰り返しがあったり、つまらない言いまわしにこだわったりとか、本筋とは関係なさそうな会話の断片にも意味がある。正確に言うと「意味はないんだけれども、価値がある」というのが、臨床医としての私の考えなんです。
 オープンダイアローグは操作主義の対極にある治療の実践で、「もっと社会復帰に向けて有意義な話をしましょう」のように、治療者がゴールへ誘導することは一切ありません。話題も右往左往して、何度も同じ場所に戻ってくるから、一見すると無駄話をダベっているだけにも見えてしまう。しかし、その繰り返しを通じて高い治療効果が上がる事実自体が、対話には冗長性こそが「必須」であることを示しているように思います。

與那覇 そういえば、佐田啓二のお父さんの役である笠智衆が、マダム役の岸田今日子のやっているバーに通って、ひたすら「死んだ奥さんにどこか似ている」と言い続けるシーンもありましたね。息子役の佐田には全然納得してもらえず、たぶん実際にはきっと似てないんだけど(笑)、「いやぁー。どっか、似てるよ~」って。

斎藤 『秋刀魚の味』のみならず、小津の全作品を代表するシーンのひとつですね。
 先ほども議論した「条件なしの承認」とは、私が『社会的ひきこもり』のころから一貫して掲げている立場なのですが、同じことを対話に適用すると「意味のない繰り返しの容認」になり、臨床の現場では「当事者の物語の尊重」になる。本当に似ているかを検証するよりも、現に当人の主観的な世界の中では“似て見えている”のであれば、それを否定せず丁寧に接してゆくわけです。
 それでこそ初めて、人は「大切にされている」という実感を持つことができ、病気で傷つけられた尊厳も回復してくる。「ハイコンテクストか、ローコンテクストか」の二分法は、意義あるなにかを“伝えたい”という目標を設定した上で、ベストな伝え方を模索するときには役に立ちます。しかしその一歩手前の段階で、メッセージを伝えるというより「一緒にいてもいいんだよと確認しあう」ことにも対話の価値がある。むしろそちらのほうが、より根源的な対話の意義であるようにも思うのですが、いかがでしょうか。

與那覇 たしかに「有意義なことだけを喋れ。できないなら黙れ」という発想だと、特定の喋り上手が場を圧倒しちゃって、他は沈黙という状態になりがちです。つまりこの場合、後者の大多数は対話を通じて承認を得ることができません。喋り手の主張を聞いて説得はされるかもしれませんが、そこで生まれるのはいわば「共感なき同意」ですから、誰もが尊厳を認められる状態である「同意なき共感」とは正反対になってしまいます。
 ここで「だったら、圧倒できる側に回ればいいじゃん」というのが自己啓発本の説くところですが、いまはそう言っている当人もやがては加齢や病気で、冗長な発言をせずにはいられなくなることは自明です。持続可能性のある思想とは、ちょっと言いがたい。
 むしろあらかじめ冗長性を尊重する情操を養っておけば、老いることや、病気をした後で従来よりスローに生きることにも、充実した意味を見出すことができると思います。ただし、この「養う」を操作主義的に遂行しようとして、『冗長さを身につけるドリル』みたいな書籍が流行したりすると本末転倒なので(苦笑)、難しいのですが…。

斎藤 このいたちごっこはキリがないですね(笑)。まさしく『秋刀魚の味』の台詞のように、ひょっとすると同じことを今後も繰り返し続けるのかもしれませんが、しかし、そうした冗長性にも「美学」が宿ることがあるんだと。そうした発想を持つきっかけとして、やはり多くの人に見てほしい名作です。

(おわり)

斎藤環、與那覇潤『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』 

斎藤環、與那覇潤『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』

【目次】
第1章 友達っていないといけないの? ―ヤンキー論争その後
第2章 家族ってそんなに大事なの? ―毒親ブームの副作用
第3章 お金で買えないものってあるの? ―SNSと承認ビジネス
第4章 夢をあきらめたら負け組なの? ―自己啓発本にだまされない
第5章 話でスベるのはイタいことなの? ―発達障害バブルの功罪
第6章 人間はAIに追い抜かれるの? ―ダメな未来像と教育の失敗
第7章 不快にさせたらセクハラなの? ―息苦しくない公正さを
第8章 辞めたら人生終わりなの? ―働きすぎの治し方
終章 結局、他人は他人なの? ―オープンダイアローグとコミュニズム

斎藤環

1961年、岩手県生まれ。精神科医。筑波大学医学研究科博士課程修了。爽風会佐々木病院等を経て、筑波大学医学医療系社会精神保健学教授。専門は思春期・青年期の精神病理学、「ひきこもり」の治療・支援ならびに啓蒙活動。著書に『社会的ひきこもり』、『中高年ひきこもり』、『世界が土曜の夜の夢なら』(角川財団学芸賞)、『オープンダイアローグとは何か』、『「社会的うつ病」の治し方』ほか多数。

與那覇潤

1979年、神奈川県生まれ。評論家(元・歴史学者)。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学者時代の専門は日本近現代史。地方公立大学准教授として教鞭をとった後、双極性障害にともなう重度のうつにより退職。2018年に自身の病気と離職の体験を綴った『知性は死なない』が話題となる。著書に『中国化する日本』、『日本人はなぜ存在するか』、『歴史なき時代に』、『平成史』ほか多数。2020年、『心を病んだらいけないの?』(斎藤環氏との共著)で第19回小林秀雄賞受賞

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

斎藤環

1961年、岩手県生まれ。精神科医。筑波大学医学研究科博士課程修了。爽風会佐々木病院等を経て、筑波大学医学医療系社会精神保健学教授。専門は思春期・青年期の精神病理学、「ひきこもり」の治療・支援ならびに啓蒙活動。著書に『社会的ひきこもり』、『中高年ひきこもり』、『世界が土曜の夜の夢なら』(角川財団学芸賞)、『オープンダイアローグとは何か』、『「社会的うつ病」の治し方』ほか多数。

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與那覇潤

1979年、神奈川県生まれ。評論家(元・歴史学者)。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学者時代の専門は日本近現代史。地方公立大学准教授として教鞭をとった後、双極性障害にともなう重度のうつにより退職。2018年に自身の病気と離職の体験を綴った『知性は死なない』が話題となる。著書に『中国化する日本』、『日本人はなぜ存在するか』、『歴史なき時代に』、『平成史』ほか多数。2020年、『心を病んだらいけないの?』(斎藤環氏との共著)で第19回小林秀雄賞受賞

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