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斎藤環×與那覇潤『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』刊行記念特別企画

2020年6月24日

斎藤環×與那覇潤『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』刊行記念特別企画

「病気を理解したい人」にお薦めの映画(後編)

『世界にひとつのプレイブック』&『抱擁』

著者: 斎藤環 與那覇潤

精神科医・斎藤環さんと歴史学者・與那覇潤さんの対談本『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋 』(新潮選書)の刊行を記念して、著者のお二人に、治療者の視点から、体験者の視点から、それぞれのお薦め映画について話していただきました。今回は、前回に引き続き「病気を理解したい人」にお薦めしたい映画の後編です。ぜひご一読ください。

前回へ戻る)

相手を「ジャッジ(judge)」してはいけない

與那覇 前回は、病気の人に対して「絶対にしてはいけない、悪い対応」を描いた映画を紹介してしまったので、今回は「学ぶべき、良い対応」のヒントを示したいと思います。私の二本目は『世界にひとつのプレイブック』(2012年・米)で、個人的に大好きな作品です。

斎藤環×與那覇潤『心を病んだらいけないの?』世界にひとつのプレイブック

斎藤 かなり評判になった映画ですよね。たしかアカデミー賞も獲ったような……。

與那覇 ジェニファー・ローレンスが主演女優賞を獲りました。他にも演技部門のすべて(主演男優・助演男女優)でノミネートされたように、病気の主人公と彼らを囲む家族・友人を演じる、キャストのアンサンブルが大変見事な作品です。
 その主演男優のブラッドリー・クーパーが演じる主人公は、双極性障害でリハビリ中という設定ですが、どうも監督・脚本のデヴィッド・O・ラッセル自身も近い悩みを抱えている人のようなんですね。早くから注目された監督なのですが、対人トラブルを起こしがちで干されてしまった。それでも支援してくれる人がいて、映画界に復帰しての作品なんです。

斎藤 対人トラブルというと、気持ちの振幅が大きくて感情をうまく制御できないといったことでしょうか? たしかに双極性障害の症状として、そうした状態に陥ってしまうケースはありますし、また病気か否かに関わらず、アンガーマネジメント(怒りのコントロール)とのつきあい方で悩んでいる人は多いですね。

與那覇 俳優さんの演技が下手だと思うと、撮影中に本気でこき下ろしちゃったことがあるようなんです。もちろん、それ自体は肯定できませんが……。
 映画のあらすじを説明しますと、主人公の男性は奥さんの不倫現場を目撃しちゃったことで感情のスイッチが入り、浮気相手をボコボコに殴ってしまう。このために医療的な措置として入院させられた後、退院してくる場面から始まります。以降は実家で療養しつつ、カウンセリングにも通っているのですが、近所に住むうつ病体験者で、ちょっと性依存症の気味もある女性(ローレンス)と出会い、ロマンスになってゆくストーリーです。
 この映画の魅力のひとつは双極性障害に限らず、心の病気に悩んだことのある人全般にとって、「ああ、これは“わかっている”人が撮っているな」というシーンが多いことです。病気を知らない人だけで映画を作ると、しばしばステレオタイプになるじゃないですか。ひたすらキレてるとか、ずっと泣きながら寝てるとか、意味不明なことばかりしゃべるとかの「誰の目にも変な人」として描いて、かえって偏見を増幅してしまう。
 この作品にはそういった、患者を型にはめる描写は一切ありません。むしろ病気からの回復期にあたる男女を主人公にすることで、一見普通の日常を送っているんだけれども、でも病気ゆえのつらさや躓きを抱えている。そうした当事者でないと見落としてしまう側面を、とても丁寧に拾って描いています。

斎藤 なるほど。いわば対談本の第5章で議論した、「当事者研究」的な性格も備えている映画なわけですね。体験者ならではの視点で撮られたシーンとは、たとえばどんなエピソードがあるのでしょう?

與那覇 主人公の二人は本来、どちらも非常に社交的なタイプなんです。ところが病気の後遺症もあって、他の人と食卓を囲んでも会話にうまく頭がついていかず、ズレてしまう。そうしたとき二人の間で薬の話題が出ると、話しやすくて嬉しい分「あの薬は試した?」「飲んだ! あれはマジヤバい」みたいに盛り上がって、周囲が引いちゃったり……。
 「誰の目にも変」な症状なら、普通は周りも「大丈夫か? 無理せず、病院に行った方がいいんじゃないか?」と気を遣ってくれるわけですよね。そうではなく、「それなりには日常を送れる」くらいの段階の方が、逆に自分が「単なるサムい・イタいやつ」になってしまったと感じて主観的につらいし、周囲もそういう目でつい見てしまったりする。そうした「絵になりにくい」部分をしっかり描いているあたりが、体験者ならではだと感じました。

斎藤 対談本でも議論したように、いまは「コミュ力偏重社会」ですから、話下手であることがものすごいスティグマになってしまいます。寝たきりになるほどではない、相対的には「軽い」病気の段階でも、周囲がきちんと配慮できないと「ああ、自分はやっぱり社会では通用しない」のように当事者を追い込み、復帰を阻害してしまうリスクが高い。
 病気のために一時的に会話が困難になっている人も含めて、「コミュニケーションが苦手な人とのコミュニケーション」はどうあるべきか。そういった医療に限らず社会に通じる問題を、考えるきっかけも得られそうですね。

與那覇 ええ。なので、主人公二人の恋愛も最初はなかなか進展せず、つい互いに配慮不足なことを口にして、喧嘩になってしまったりもします。
 病気の体験者の目から見ても、すごく示唆が深いと思うのは、女性が自分の症状を打ち明けた後の会話で、男性が本人としては悪気なく「いや、ぼくの病気は、君ほどはひどくないよ」と口にしてしまう。当然女性は怒るわけですが、その後で男性を非難するセリフに「I opened up to you, and you judged me !」というのがあるんです。直訳すると「私はあなたに心を開いたのに、あなたは私を裁くのか!」となりますが……。

斎藤 それは大事な視点で、Judgeは判定・評価するという意味ですから、この場合は「診断」と訳すこともできますね。対等な仲間どうしだと思っていたのに、一方的に上から目線で「ぼくより病気が重い存在」だと位置づけられ、いわば医者に対する患者のように扱われた。そのことに女性は傷ついているわけですね。

與那覇 そのとおりで、前編でお話しした『レボリューショナリー・ロード』のディカプリオと重なる態度を、本作の主人公も一度はとってしまうわけです。しかし今回の作品では、本人がここで「そうか。自分はいま失礼なこと、自分だってやられたくないことをしてしまったんだ」と気づいて、むしろ関係を修復していく。結果として雨降って地固まるで、二人の間に連帯感のようなものが生まれていくんですね。
 最初に述べたとおり、この男性には(他の男と不倫していた)奥さんがいて、そちらは夫の入院中にさっさと自宅を処分して離婚する気満々の感じ悪い女性なのですが(苦笑)、主人公は当初、「病気を治して奥さんと復縁するぞ」とばかり考えています。ところが似た病気を抱える別の女性と知りあい、対等に尊重しあう関係で話しあっていくことを通じて、彼の中で治療のゴールが揺らいでくる。
 病気をする「前と同じ」に戻ることだけが、本当に自明の目標なのか? という、発想の転換が起きるわけですね。ここも療養生活においては、大切なポイントだと思います。

斎藤 臨床上でも、まさにいちばん重要なところですね。前編でPDCAという発想を批判したように、「ゴール」を先に決めて固定してしまうことは、しばしばかえって回復を妨げる。むしろ本人が主体的に新たな目標をつかみ取ることが大事で、周囲ができる最大の協力とは、それを可能にする環境を整備することだと思うのです。
 この映画では、最初は「医者が患者を診るような目線」で女性に接してしまっていた主人公が、むしろ「対等で偶然性に開かれた姿勢」に転じていくわけですね。そうした変化こそが、物語を動かす最大のドライブになっていると。精神分析からオープンダイアローグへと軸足を移しつつある私としても、大いに共感するところがありそうな作品です。

主観的な「環境」が病気を癒す

斎藤 では、次は私のお薦め二本目です。ポレポレ東中野などで上映されたマイナーな邦画なので、やや視聴するのは難しいかもしれませんが、坂口香津美監督の『抱擁』(2015年・日)という作品です。
 演出が入っていることを明示しているので、完全なドキュメンタリーではないのですが、監督が自分のお母さんを主人公に撮った「半ドキュメンタリー」ともいうべき、ちょっと珍しいジャンルの映画ですね。

與那覇 一本目の『精神』を撮った想田監督は男性ですが、女性の監督さんですか?

斎藤 あ、いえいえ、よく間違える人がいるのですが、坂口さんは男性です。主にテレビで家族もののドキュメンタリーを手がけた後、劇場映画も撮られるようになった方ですね。
 この『抱擁』は、その坂口さん自身の家族を扱っています。監督のお母さんは、旦那さんや娘さんの死が重なったことで「東京で一人暮らし」の状態にあったのですが、孤独でメンタルを壊してしまいます。私の目で見ると、病名としてはパニック障害ということになるかと思いますが、非常に症状が重く、重度の認知症に見えるほどです。
 そこに息子さんである坂口監督が訪ねていくわけですが、最初はやはり「悪い対応」をしてしまって、叱りつけたりしちゃう。これもあくまで私としての意見ですが、お母さんはベンゾジアゼピン系の抗不安薬(=不安感が湧きおこるのを抑える薬)を相当大量に摂取していて、あそこまで多く処方してしまうのは、担当した医師の側にも配慮不足があったのではと感じます。

與那覇 ぼくもうつに転化した「急性期」というか、突然本が読めなくなり、自分の脳でなにが起きているのかわからなかった時期に、異様な恐怖感に襲われてクリニックで抗不安薬を出されました。なかなか体験者以外には伝えにくいですけど、たとえば路上で通りすがる全員から「見えない殺気」を感じているような状態、といえばいいでしょうか。
 抗不安薬自体は、自分の実感としては確かに効く薬ではあって、激しい動悸や(本人以外の人には)意味がわからない「助けて」のような発声を止めるくらいには効果があります。しかしそれはあくまで対症療法で、パニックが収まり静かになったところで、根本の原因である(たとえば)「うつ」そのものが治るわけではない。

斎藤 おっしゃるとおりです。私たちの対談本でも投薬の意義について議論したように、「症状の改善」という面では有意味な薬でも、それだけでは病気を「治す」ところまでいけないことがしばしばある。それは患者さんの問題ではなく、薬自体の限界なんですね。しかしその点を医師が忘れると、治らないなら薬の量や種類を「もっと増やせ」といった機械的な対応をしてしまいます。
 『抱擁』の場合は、坂口監督がお母さんに接するうちに、「どうも母親は、故郷である種子島に帰りたがっているんじゃないか?」と考えるようになる。つまり患者を単に客体として見て、外部から薬を投与して操作しようとするのではなく、お母さんの「主観的な意味世界」ではなにが起きているのかを理解しようと努めて、彼女自身が生きようとしている「物語」に配慮するわけです。その結果、お母さんの妹さんに迎えに来てもらって、東京を離れて種子島に移住することになります。

與那覇 対談本の中では「EBM」(エビデンスに基づく医療)に対する、「NBM」(ナラティヴ=物語に基づく医療)の意義として、論じてきたことですよね。その実践が、当事者自身によって映像化されていると。

斎藤 ええ、まさにそこが感動的なところなんです。そうしてお母さんは種子島の元々住んでいた場所に戻り、妹さんやご近所さんとの人間関係を回復していったり、半ば治療的な意味を込めて農作業を始めてみたりします。するとなんと、症状がすっと消えてきれいに治っちゃうんですね。
 注意してほしいのは、この映画を「近代医療は効かない。病気を治すのは、土地と人とのつながりの力だ」といったベタな形で要約してしまうと、たとえば反ワクチン運動のような変な方向に誤解されてしまいます。本作のすばらしさは、そうした安易な(しかも、往々にして間違っている)一般論を説くのではなくて、あくまでも監督が自分のお母さんに全身で向きあい、彼女の訴えに耳を傾けて応じていくという「個別の体験」をベースに、克明な映像で回復の過程を描いていることです。
 たとえばなぜ、「監督のお母さんの場合は」東京にいると病んでしまったのか。そして逆に、種子島の風土がどのように作用して社会性を回復していったのか。徹底して個別性を尊重するからこその、説得力が溢れている。そこを踏まえて見てもらえるなら、「治るとはどういうことか」がとてもわかりやすく伝わってくる、病気を理解したい人にお薦めの映画だと思います。

與那覇 いまの社会には全体的に理系偏重というか、正確には「疑似的に自然科学を装ったデータ偏重」の風潮があると感じます。エビデンス主義が典型ですけど、とにかく数字で表現できる「客観的」な指標ばかりが重んじられ、逆に「主観的」という言葉は悪口のように見なされている。「そんなのは君の主観的な意見だ。エビデンスがない!」といった風にですね。
 精神医療の現場では同じものが、「高い確率で効くというデータのある薬」(客観)をひたすら投与し続け、患者の訴え(主観)は話半分にしか聞かないといった態度をもたらしています。しかし相手の主観的な内面に配慮せずして、心の病気が治ることがあるのでしょうか。斎藤さんがずっと提唱されてきた「人薬」や、この映画でいえばお母さんにとって心安らぐ場所だった種子島のような「土地薬」とは、むしろ主観的な側面を濃厚に含むからこそ、有効な薬だと言えるように感じます。

斎藤 そのとおりで、さらにはその主観的な要素を、患者さん個人の「内側」に閉じ込めてしまわないことが大切です。『「社会的うつ病」の治し方』でも書きましたが、人間はいくら「気持ちを変えよう」と頑張っても難しいので、むしろ環境を変えることが治療上は有効になる。『抱擁』の種子島が土地薬になった、というのはまさにその一例です。
 もっとも「引越しうつ」という言葉が昔からあるように、本人の希望に反してむしろ「悪い環境」に移ってしまうと、完全な逆効果になりますから、ここでも大事なのは相手の尊厳を重んじ、個別性に耳を傾けることです。「誰にとっても効くパワースポット」みたいなものは存在しない。そのことを知るためにこそ、個別性に富んだ「顔のある人物」が登場する映画作品は有効だと考えています。

(おわり)

斎藤環、與那覇潤『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』 

斎藤環、與那覇潤『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』

【目次】
第1章 友達っていないといけないの? ――ヤンキー論争その後
第2章 家族ってそんなに大事なの? ――毒親ブームの副作用
第3章 お金で買えないものってあるの? ――SNSと承認ビジネス
第4章 夢をあきらめたら負け組なの? ――自己啓発本にだまされない
第5章 話でスベるのはイタいことなの? ――発達障害バブルの功罪
第6章 人間はAIに追い抜かれるの? ――ダメな未来像と教育の失敗
第7章 不快にさせたらセクハラなの? ――息苦しくない公正さを
第8章 辞めたら人生終わりなの? ――働きすぎの治し方
終章 結局、他人は他人なの? ――オープンダイアローグとコミュニズム

斎藤環

1961年、岩手県生まれ。精神科医。筑波大学医学研究科博士課程修了。爽風会佐々木病院等を経て、筑波大学医学医療系社会精神保健学教授。専門は思春期・青年期の精神病理学、「ひきこもり」の治療・支援ならびに啓蒙活動。著書に『社会的ひきこもり』、『中高年ひきこもり』、『世界が土曜の夜の夢なら』(角川財団学芸賞)、『オープンダイアローグとは何か』、『「社会的うつ病」の治し方』ほか多数。

與那覇潤

1979年、神奈川県生まれ。歴史学者。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学者時代の専門は日本近現代史。地方公立大学准教授として教鞭をとった後、双極性障害にともなう重度のうつにより退職。2018年に自身の病気と離職の体験を綴った『知性は死なない』が話題となる。著書に『中国化する日本』、『日本人はなぜ存在するか』、『歴史がおわるまえに』、『荒れ野の六十年』ほか多数。

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著者プロフィール

斎藤環

1961年、岩手県生まれ。精神科医。筑波大学医学研究科博士課程修了。爽風会佐々木病院等を経て、筑波大学医学医療系社会精神保健学教授。専門は思春期・青年期の精神病理学、「ひきこもり」の治療・支援ならびに啓蒙活動。著書に『社会的ひきこもり』、『中高年ひきこもり』、『世界が土曜の夜の夢なら』(角川財団学芸賞)、『オープンダイアローグとは何か』、『「社会的うつ病」の治し方』ほか多数。

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與那覇潤

1979年、神奈川県生まれ。歴史学者。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学者時代の専門は日本近現代史。地方公立大学准教授として教鞭をとった後、双極性障害にともなう重度のうつにより退職。2018年に自身の病気と離職の体験を綴った『知性は死なない』が話題となる。著書に『中国化する日本』、『日本人はなぜ存在するか』、『歴史がおわるまえに』、『荒れ野の六十年』ほか多数。

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