シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
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おかぽん先生青春記

 俺とガラ子は、好きな動物の話や留学の話で多いに盛り上がり、流れるように親密になって行った。当時の青年期の男女は話が早かった。
 俺はそのころ、上智大学の研究所からつくばにある農林水産省の研究所に異動した。その研究所では、田畑を荒らす鳥をいかに追い払うかを研究していた。野鳥とはいえ、日本固有種についてはむやみに殺害することは法律で禁じられている。だから、行動学的な手段で追い払う必要がある。そこで、アメリカで鳥の聴覚と鳴き声の研究をしていた男がいるという噂を聞きつけた所長が、俺に連絡をしてきたというわけである。
 都会の暮らしと「晴華」のチャーハン、研究室の学生たちには未練があったが、上智大学での研究員の身分も残り半年になっていた。つくばの研究所に移れば、さらに3年、基礎研究ができる。ガラ子の家とは離れてしまうが、まあなんとかなるだろうということで、俺は四谷からつくばに異動することにしたのだった。
 そうこうしているうちに、ガラ子は卒論をまとめ、青年海外協力隊に合格し、大学卒業と同時に2ヶ月半の研修を受けることになった。研修は派遣先の言葉と文化、生活習慣についての勉強と、どのような環境でも現地で役に立つ人材となるための体力作りと技術習得等々から成り、たいへん厳しいようであった。それでも俺たちは週に1度は会っていたと思う。俺たちはいずれ地球規模の遠距離交際になることが分かっていたから。最後の「から」は「のに」のほうが正しいような気もするが。
 ガラ子の派遣先はバヌアツという国に決まった。そんな国、俺は聞いたこともなかった。南太平洋の80以上の島からなる国で、ニュージーランドから飛行機で行くそうな。電気もガスも水道もなく、特に飲料水が確保できないことから、井戸を掘り治水工事をする指導をしてくることになったそうな。そういうことであれば、俺のあだ名の由来の通り、俺は水道屋の息子だから、少しは役に立つかもしれない。
 しかし当時この制度では、単身で行き、派遣先の人々のためにすべての時間を費やすことが求められていた。だから俺が同行して一緒に住むこともできなかった。さらに、行ったら2年間は帰って来れないのであった。
 2年間とは24ヶ月であるので、俺たちは8ヶ月に一度、ガラ子が休みを取れる時間に、俺から会いに行くことにした。ガラ子はバヌアツに行くが、俺たちの関係は維持できると俺たちは信じていた。ガラ子はバヌアツからほぼ毎週手紙をくれた。俺も月に一度は手紙を出していた。さらに時折はカセットテープに気持ちを録音して交換しあった。電話は村に一軒だけという雑貨屋にあるが、いつ電話するということを手紙で確認しておかなければならなかった。それにものすごく電話代がかかったので、非常事態以外、電話は使わないことにした。
 バヌアツの国語はビスラマ語である。この言語は、とても大雑把に言うと、英語の単語と現地語の単語が入り交じり、現地語の文法に基づいて配列されることで自然発生したクレオール語である。バヌアツは英連邦の1つなので、統治上・通商上の理由で英語が入り込み、それが現地語の単語と入れ替わってピジン語化し、さらに独自の言語進化が起こって成立したのであろう。俺は今では言語の生物学的起源の研究をしているくらいなので、新しい言語が成立する事情には当時からたいへん興味があり、ビスラマ語の入門書も勉強した。とはいえ、実際に現地に行ってみると役に立たなかったが。
 ガラ子がバヌアツに行ってから8ヶ月が経ち、俺はガラ子に会うため、バヌアツを訪ねていった。ガラ子の住む島を拠点としながら、いろいろな島で暮らした。3週間ほどは滞在したであろうか。俺にとっては衝撃的な体験でもあり、同時に、人間どこでも生きていけるものであると悟った体験でもあった。
 島ではほとんど全員が知り合いみたいなものである。誰かに会うと必ず立ち話をする。ガラ子はビスラマ語の母語話者のように言葉を使いこなしていた。いっぽう俺はたまに出てくる英単語らしきものから内容を類推することしかできなかった。人間を含めいろいろな動物が住んでいたが、みんながゆっくりと暮らしていた。動物は誰かに所有されているのではなく、動物自身が自由に誰かの家に住んでいるとのことであった。たまに食されるのであるが。
 村に一軒、確かに雑貨屋があった。しかし貨幣経済はあまり動いておらず、物々交換が実用的な手段であった。バナナと芋が主食で、タンパク源としては主に魚である。まれにニワトリやブタも食べているようであった。バナナは甘くなく、芋とあまり変わらない。これらをバナナの葉でくるんで蒸し焼きにする。味付けは薄い。だからうまみが出てくるまでよくかむしかない。非常に健康的な暮らしである。太った人は誰もいなかった。
 ある日、村の長の家に呼ばれた。俺たちのために、村の若い衆が魚をとってきてくれた。バナナと蒸した魚を出してくれた。味はうすかった。厳粛な雰囲気であった。村の長は突然言った。「おまえはこの娘と結婚する気はあるのか」。驚いた。しかし、「はい」と答えた。村の長の家での誓いは、婚姻届よりも実効性があるように思えた。村の長は「よかろう」と言うと、コーヒーを淹れてくれた。非常に薄かった。俺もガラ子も、村の長の家でのこの誓いは、現実になるのだろうと信じていた。あの時は。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

岡ノ谷一夫

帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。

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