(前回までのあらすじ)「チャーリー」こと勝田直志さんは、コザの有名なタコス専門店の創業者。沖縄戦の生き残りでもある。捕虜収容所を経て1946年に故郷の喜界島へ引き揚げたが、1950年の暮れ、再び沖縄にやってきた。
勝田さんが新天地に選んだのは、嘉手納基地の門前町コザ(現在の沖縄市)の八重島(やえしま)だった。
コザは「戦後沖縄の原点」であり、「沖縄の縮図」とも呼ばれる。少しご案内したい。
もともと「コザ」という地名は越来(ごえく)村の胡屋(ごや)を米軍がKOZAと誤読して定着し、1956年6月、正式に村名がコザとなった。翌月には市に昇格し、本土復帰後の1974年4月1日付で美里村と合併して「沖縄市」と名を改めるまでの約18年間、カタカナの「コザ市」だった。
今では正式には「コザ」という地域はない。が、40年以上たった今でも沖縄の人たちは沖縄市の、特に市街地あたりをコザと呼ぶ。
コザは沖縄のなかで少々異質な存在だ。地理的には那覇市の中心部から直線距離で20キロ足らず、高速道路と国道が通り、南部からも北部からもアクセスしやすい。沖縄唯一の動物園「沖縄こどもの国」があり、一昨年は近くに超大型ショッピングモールができた。おそらく大半の県民は訪れたことがある。
にもかかわらず、心理的には少し遠いらしい。半ば冗談のように「コザの人はみんな英語ができる、なんとなく恐い街だと思っていた」と話す人もいる。米軍相手にわたりあってきた街というイメージだ。「正直なところ、那覇より低く見ているかもしれない」と告白した那覇の人は、「たぶん内地の人が沖縄を見る視線が、そのまま那覇がコザを見る視線なのかもしれない」と分析した。
一方で、アメリカ文化の影響が強く、かつては最先端のオシャレな街でもあった。自動車教習所で50代の教官から聞いた話が面白かった。
(余談だが、運転免許がないまま沖縄に来た私は、那覇で自動車教習所に通った。技能教習で毎回さまざまな教官が助手席に座るのが面白くてたまらず、教官の経歴や思い出話、沖縄事情などを根掘り葉掘りして楽しんだ。ちなみに沖縄では、教習所のことを「自動車練習所」、略して「自練」と呼ぶ。)
若い頃のドライブの思い出だったか、その教官は急に饒舌になった。「週末は仲間とコザに繰り出したもんだよ。コザの女は服も化粧も垢ぬけてるさ。那覇の女なんかイモだよ。やっぱりアメリカー(アメリカ人)の影響もあるさね。イカしてたなぁ。今でいうナンパをしたりね。街も今と違って活気があって楽しかったね」。そして、「ああ、懐かしいなぁ」と嬉しそうに笑った。
コザが「戦後沖縄の原点」なのは、第一に、降伏調印式の地だからである。
1945年6月23日に組織的戦闘が終わったとされる沖縄戦だが、琉球列島の正式な降伏調印は9月7日。戦艦ミズーリでの日本の降伏調印式から5日後になって、ようやく実現した。ほぼ全滅した沖縄の日本軍を代表できる将官がおらず、宮古島に司令部があった先島群島司令官・納見敏郎中将らが琉球の日本軍を代表して沖縄本島での調印式に臨んだ。
その場所が、アメリカ第10軍司令部の置かれていた嘉手納地域(越来村森根)の基地内である。
嘉手納基地は今では沖縄の米軍基地を代表する存在だが、もとは日本が1944年9月に完成させた旧日本陸軍航空隊の中(なか)飛行場だった。
日本軍は当初、航空決戦を企図していたものの、同年、沖縄守備軍の主力だった第9師団を台湾に移動させられた。司令部は米軍を水際で迎撃するには戦力が足りないと判断。読谷(よみたん)の北飛行場と嘉手納の中飛行場の守備を放棄し、西海岸からの上陸が予想された米軍の手に落ちるに任せた。
1945年4月1日午前8時に西海岸へ上陸した米軍は、その日のうちに2つの飛行場を占拠、一帯は占領下におかれた。まもなく近隣に10ヶ所以上の民間人収容地区が作られ、その一つが越来村の嘉間良(かまら)を中心とするコザ地区だった。
南部でまだ激戦が続いていた時期、コザではすでに「戦後」への歩みが始まった。6月には村長・助役の選挙が行われ、6月から7月にかけて、次々と新しい小学校が開校したというから驚きである。おそらくプロパガンダ用だろうが、収容所内で撮影された写真の数々は牧歌的だ。
いち早くアメリカ占領下の「戦後」が始まった点でも、コザは「沖縄の原点」だった。
戦前の越来村と美里村は、ミカンやヤマモモの畑が広がり、竹細工などを特産とする静かな農村地域だった。現在の沖縄市では90%が第三次産業で、第一次産業は0.1%にすぎない。戦争と占領が、ごく短期間のうちに村の姿を変えた。
越来村の住民は北部の田井等(たいら:現・名護市)に送られて収容された。その年の暮れ、住民の要望で故郷の収容所に移されると、田畑は掘り返され、米軍のテントが並び、農地や家は鉄条網に囲まれて立ち入り禁止となっていたという。村の3分の2以上の面積が米軍に接収され基地となった。
やがて収容所から解放されても、家も畑もない。やむなく基地周辺にバラック小屋を建て、多くの人が生活の糧をえるために米軍基地の軍作業に従事した。そうしてできた集落がコザの原形となった。
嘉手納基地は現在、嘉手納町・北谷(ちゃたん)町・沖縄市にまたがる。関西出身の沖縄県民にはぴんと来ないが「品川区と同じくらい」の広大な敷地をもつ極東最大の空軍基地である。そのゲートが越来に向いている。それで、付近が米軍基地の城下町となった。
1949年に中華人民共和国が成立、1950年6月には朝鮮戦争が始まる。沖縄は共産主義を食い止めるための極東の軍事拠点として重視されるようになった。基地建設ブームが来ると読んだ本土の土建会社が次々と沖縄に入る。越来村は「基地化する沖縄」の象徴になった。
1950年に八重島の弾薬庫だった地域が開放されると、たちまち百数十軒のバーやクラブができ、確認されているだけで300人以上のホステスがひしめく米兵相手の歓楽街ができた。
1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効。日本は独立し、沖縄が米軍の占領下に残された。沖縄ではこの日を「屈辱の日」と呼ぶ人たちもいる。さらに1954年、アイゼンハワー大統領が年頭教書で「沖縄基地の無期限保有」を宣言し、同時に沖縄の米国民政府(United States Civil Administration of the Ryukyu Islands)は軍用地の所有者に対して「地代一括払い」の方針を発表し、いわゆる「島ぐるみ闘争」の引き金となった。
だが、「銃剣とブルドーザーで土地を奪われた」と表現される軍用地問題は、もとからの住民だけのものだ。圧倒的に裕福なアメリカ人が大勢いて無造作に消費をおこなう街は、外からはチャンスに満ちて見えた。越来村にはごく短期間のうちに各地から人が移り住んだ。1955年の統計によれば、北大東島を除いた南西諸島の全ての市町村を本籍とする人が住んでいたという。
米軍基地で働いたり米兵相手に商売をしたりする新住民が多数派を占めるようになると、基地への態度にも「ねじれ」が生じる。理想でいえば、沖縄から米軍基地がなくなったほうがいい。だが、生活の現実でいえば、基地撤廃が生活破綻につながる人がいる。のちに沖縄全土で本土復帰と基地撤廃の運動が盛り上がった時、「即時復帰反対」運動が起きたのもコザだった。当時のコザの切実な葛藤は、今の沖縄にも引き継がれている。
コザは「戦後沖縄の原点」であると同時に、「沖縄の縮図」なのである。
大山朝常(ちょうじょう)は、1958年から4期15年半もコザ市長を務め、今もヒーロー的なイメージで語られることが多い革新系政治家である。「基地の街」コザの矛盾と向き合いつつ「とにかく今より半歩でもよりよい市民生活を」と数々のインフラ整備や大型施設の建設を実現してコザの繁栄に尽力した。その大山が市長に就任した直後、アメリカの憲兵隊長に語った言葉が胸を打つ。
われわれ沖縄人は今次大戦に無一物裸一貫になって命からがら、やっと生きのびてきた。一日でも早く、一銭でも多く儲かる所はどこだろうとさまよって、さがし求めた所が基地の町ここだと、そこへ喜び勇んで移住したものが殆どであった。自分の力で、更には知人と共に、手を取り、力を合わせて基地産業で身を立てようと十年余努力したのである。
勝田さんは、こうした新しいコザ住民の一人だった。
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宮武実知子
みやたけみちこ 主婦・文筆業。1972年京都市生まれ。京都大学大学院博士課程単位取得退学(社会学)。日本学術振興会特別研究員(国際日本文化研究センター)などを経て、2008年沖縄移住。訳書にG・L・モッセ『英霊』などがある。「考える人」2015年夏号「ごはんが大事」特集に、本連載のベースとなった「戦後日本の縮図 タコライス」を寄稿。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
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