(前回までのあらすじ)「チャーリー」こと勝田直志さんは、コザの有名なタコス専門店の創業者。沖縄戦を生き延びて故郷の喜界島へ帰還したが、1950年、再び沖縄へやってきた。
「沖縄へ来る時ね、馬を10頭、持ってきたんだ」
ある時、ふと勝田さんが言った。つい聞き返した。え、馬ですか? 「何か農業の役に立つかと思ったんだがね。もう車の時代になっていて、全然売れなかった」。勝田さんは照れ臭そうに「ふふふ」と笑った。
喜界島の馬は「喜界馬」と呼ばれ、名馬と名高かったらしい。古い郷土史『趣味の喜界島史』によると、1746年に島津宗信が第6代薩摩藩主を継いだお祝いに島民代表が赴き、馬術大会で暴れ馬を乗りこなして藩主に気に入られた。鞍を置いたまま褒美にもらって帰り、その馬を改良繁殖させたのが由来だとか。
馬は農家にとって、耕作や輸送に役立ち、堆肥も供給し、黒糖生産の動力にもなる。20世紀初頭の喜界島では世帯数より多い馬が飼育され、重要な輸出品でもあった。戦時中は陸軍の騎兵乗馬から大砲運搬まで用いられた。
戦後もしばらく農耕馬として多くの農家で飼われたが、農業の機械化により急激に減少した。その最後の1頭の写真を、私が偶然見かけたのは『奄美人物商工名鑑』(平成3年版)。生コン・アスファルト製造会社の社長さんにペットとして飼われていた。与那国馬や済州馬のような小型の可愛らしい馬だった。
勝田さんが再び沖縄の地を踏んだ1950(昭和25)年、終戦からわずか5年の沖縄には、すでにタクシーが走っていた。コザから那覇まで1ドル、4人で1台に相乗りして25セントずつ払った覚えがあるという。さらに6年たって勝田さんが独立開業した時には、自家発電ながら電気も通っていたというから、コザのインフラ整備は目覚ましいものだった。
そんなわけで、馬10頭で開業資金を作ろうと目論んだものの、当てが外れてしまったというわけだ。
勝田さんが来たのは、コザの八重島(やえしま)という街だった。ここは沖縄で最初にできた「特飲街」と言われる。
トクインガイという言葉を、私は沖縄に来て初めて聞いた。多くの人が一般名詞として何の説明もなく口にするので、少ししてからようやく、「特飲街」と書く「特殊飲食店街」の略だと知った。むろん「特殊」に重点がある。「特殊婦人」が働く街。つまりは、歓楽街、風俗街のことだ。
コザの新しい街づくりの構想は、そもそもは特飲街ではなく商業街(ビジネスセンター)だった。1949年11月頃、着任まもない軍政長官・シーツ陸軍少将が、「米琉親和」を目的とした「明るく正しい健全な取引」の場を建設するよう指示。1950年6月には用地が正式に開放されて建設が始まり、目抜き通りの「BCストリート」は「中央パークアベニュー」と名を改めて今も残る。
米軍主導の「ビジネスセンター」構想は、「歓楽街」の要素を排除しようとした。しかし、ひっそりと、主体的に急成長したのが八重島だった。米軍の弾薬集積所跡だった16万坪が開放されるや、瞬く間に形成された「自然発生の街」(1951年3月8日『沖縄タイムス』)である。
どのように発展してきたのか、公式の記録になく明らかではない。当時の新聞に「特飲街」や「八重島」が現れるのも、この1951年3月の『沖縄タイムス』が最初だ。繁栄ぶりは、1951年6月11日付『うるま新報』の「ここは人里離れた…模範部落!」と題した紹介記事から垣間見える。
この町は来る8月1日で創業1週年(ママ)に当るそうだが、人里離れ山野に囲まれた環境等からしても歓楽街としてまさに沖縄一の模範部落であろう、
ということは、1950年8月から始まった街なのか。記事には「組合長」の談話として「現在までに足を洗って、この町から出たのが20名くらいで、10万円ぐらいためたのもいる」とあるから、すでに相当な栄えようだったらしい。
勝田さんがコザに来たのは1950年の4月で、「当時、八重島はまだ〈裏町〉と呼ばれていた。3月頃に町ができ始めたばかりで、道や店が8割方できていた」と話したことがある。街の成り立ちについての貴重な証言かもしれない。
歓楽街が切実に必要とされた当時の世相が、複数の回想録からおぼろげに浮かび上がる。
基地の街では、売春する女性を「仕方ない」と容認する風潮があった。だが、集落の外れの林に簡易ベッドを置いて仕事場とする者までいた。林を何組もの米兵と女性がたえず出入りする。風紀上よろしくない、と那覇から来た婦人団体が拡声器で「売春をやめなさい」と呼びかけたところ、林の中から女性に「どう生活しろというの」と怒鳴り返され、一同が退散したこともあったという。
街娼による無秩序な売春が根絶できないなら、いっそ管理下で営業させてはどうか。米兵が集落に押し入って起こす暴行事件も防げるのではないか。それが、「特飲街」設置を推進した人々の動機だった。実際、特飲街ができて以降、米兵が集落に侵入して起こす暴行事件は激減したと言われる。
特飲街の設置は「社会の安寧を保持する防壁」になる、と村長と警察署長は歓迎したが、革新系政治家・瀬長亀次郎は「人権擁護、婦人解放の立場から絶対反対」を主張した。コザの「福祉の母」島マスも、「米軍の占領支配という現実」への屈服と捉え、「いつまでも心に残る悔いでもあります」、「占領下の沖縄の苦悩を象徴する街づくりであったと思います」と回想録に書く。
特飲街でも「特殊」でない飲食店は多くあった。
勝田さんを沖縄に連れてきたM氏が八重島で始めた店もレストランだ。M氏はアメリカ風に「アーサー」と名乗っており、店を「アーサーズ・レストラン」と命名した。
勝田さんはレストランの手伝いをした。まずは開店前に材料を仕入れる。コザから那覇まで、タクシーに4人で相乗りして市場へ行った。やがて近くにも農連市場ができて自転車で行けるようになったが、それまではタクシーだった。
フロアでの接客も担当した。やがて好奇心旺盛な勝田さんは、厨房の人から調理を教わるようになる。当時の沖縄のレストランは専門店ではない。ステーキもチキンもパスタも中華も、お酒もアップルパイもある。どこの店のメニューも、わりとよく似通っていた。何でも覚えて、何でも作れるようになった。
周辺にも奄美から働きに来た若い人は多かった。近くのレストランに奄美大島から働きに来ていた女性と出会って結婚したのも、この修業時代だそうだ。
八重島の街には、勝田さんの少し遅い「青春」があったのだろうか。当時を想像しながら、平日の昼下がり、ポケットにカメラを入れて街を歩いた。
今の八重島は、坂の多い静かな住宅街だ。道の幅が沖縄には少し珍しい。古い集落の路地と比べて広いが、車社会になって開発された道より狭い。建物の高さがなくて空が広いのも、沖縄の住宅街には珍しい気がする。
壁に区画番号がじかに書かれた建物が多い。よく見ると、壁にペンキで描かれた店名やロゴの跡やネオンサインの配線が残っていることもある。それでも、かつてバーやクラブが100軒以上も立ち並んで大勢の女性がいたという夜の街を想像するのは難しかった。
空き地のブロック塀で、毛並みの綺麗な野良ネコが丸くなって眠っていた。かつての歓楽街にはネコが多いと言われる。車の往来が少なくて住みやすいのだろう。街の景色が変わって、女性たちが姿を消しても、街の人々に可愛がられたネコの末裔が住み続けているのかもしれない。
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宮武実知子
みやたけみちこ 主婦・文筆業。1972年京都市生まれ。京都大学大学院博士課程単位取得退学(社会学)。日本学術振興会特別研究員(国際日本文化研究センター)などを経て、2008年沖縄移住。訳書にG・L・モッセ『英霊』などがある。「考える人」2015年夏号「ごはんが大事」特集に、本連載のベースとなった「戦後日本の縮図 タコライス」を寄稿。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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