紆余曲折の末、俺は人生で3か所めのポスドクを、母校の慶応義塾大学でつとめることになった。給与をもらう境遇はありがたかったが、先が見えないのは厳しかった。当時、給与をもらう研究員の職は少なく、多くの大学院修了者が出身研究室でオーバードクター(余剰博士)として数年を食いつないでいた。彼らと俺はどこが違うのか。彼らはお金がなかったがささやかな希望があり、俺はお金があったが希望を失いかけていたのである。
ここで改めて、オーバードクター(Over doctor, 余剰博士)とポスドクの違いについて考えてみたい。前者は和製英語だが、後者は米語(Post-doctoral Fellow, Postdoc)である。ポスドクはカタカナ米語のまま使われているが、和訳としては、博士号を取得した後の研究員の意味で、博士研究員と訳されることが多い。
余剰博士は、ポストに空きができることを期待してアルバイトをしながら食いつなぐ。余剰博士は出身研究室にとどまって余剰存在となり、空きが出るのを待つのである。これは小講座制という制度で可能になっていた。小講座制とは、大学の研究組織が、助手、講師、助教授、教授から構成されているものであった。その講座で教育を受け単位を取得した大学院修了生は、いずれその講座の空きができると、教員となる機会があった。例えば、教授が退職すると、それぞれが一階級昇進し、助手のポストが空き、運と業績と人格とが良ければ助手にしてもらえたのだ。
この制度は、教授の権力を過剰にし、学問を固定化するとの意見から、他の運営方法が出てきた。これが大講座制である。大講座制は、教授、助教授、講師、助手等がそれぞれ複数おり、誰かが退職したからと言って、そもそもいろいろな大学院生がいるので、自分が空きポストに就くことはそうそう期待できなくなった。さらに、空きポストは公募により決定されることが奨励されたので、よそ者が選ばれてしまう可能性もある。余剰博士がいよいよ余剰になってきたのである。
大講座制の普及と並行して、大学院重点化というものが進められた。これは教員を大学院所属にして、大学院生を増やし、学問を興隆させようとした制度である。大講座制と大学院重点化により、大学院を修了したからと言って、数年の臥薪嘗胆によりいずれ大学教員になれるわけではなくなってきた。余剰博士の余剰度にも拍車がかかってきた。
大学院修了生・余剰博士の受け皿として、「ポスドク1万人計画」が始まり、日本学術振興会、科学技術庁などのポスドク制度が整備されていった。こうした改革は、1990年代から2000年代にかけて進んで行った。これらは皆、日本の科学を推進するための方策であったのだ。これにより、余剰博士は博士研究員として給与が支給される存在となった。
オーバードクター問題では、無給のままバイトで食いつなぐ者がいることが問題であった。ポスドク問題は、給与は支給されるが年限のあるポスドクが、いつまで経っても常勤職に就けない問題である。大学院重点化やポスドク1万人計画によって博士研究員が増えても、大学の常勤職はそれと同じ勢いでは増えなかった。その後はむしろ独立法人化によって減らされることになった。博士号取得者は、大学以外で活躍することも期待された。ところが、企業はなかなか博士号取得者を採用しようとはしなかったし、純粋科学を志向する者は、大学への就職に拘った。俺が研究していたことは純粋科学以外の何物でもなく、大学への就職を目指すしかなかった。
オーバードクターが問題になっていたころは、大学院の定員も少なかったが、大学院生への支援もほとんどなかった。大学院に入ってから大学に就職できるまでの10年ほどを、この時代はアルバイトで食いつなぐしかなかった。俺が学部生のころも、仙人のようなオーバードクターが回りに何人もいた。現在は、大学院生を支援する制度が充実してきた(とは言え、支援されるのは数人に1人である)し、博士号取得後は、有給の研究員職もある(とは言え、それも競争率が高い)。そしてその後があまりに厳しい。常勤職に就く者はごくごくわずかである。少数のオーバードクター問題は、多数のポスドク問題にすげ替えられたのだ。
これらのことは、施行当時は研究者の待遇を改善し日本の科学を推進するという目標のために行われたことであった。それがなぜ現在のようなポスドク問題に至ってしまったのだろうか。教育にかかる時間、日本の風土、行政の縦割り、既得権を守ろうとする人々、変化を望まない人々。このようになることは薄々わかっていながら、何もしておらず、この随筆を書いている自分。いろいろなことが積み重なり、今に至る。自分も現在の問題を放置した責任者であることは良くわかっている。
改革は往々にして改悪になる。それは不幸の背比べをしてしまうからだと思う。オーバードクター問題にあった不幸と、ポスドク問題で生じた不幸と、どちらがより不幸であるか。こうした議論を、希望の背比べにできないものだろうか。そして今後の研究志望者たちが希望の背比べにするには、何をどうすれば良いのだろうか。この文章を書いたことをきっかけに、俺も考えてみようと思う。
俺は科学技術庁の研究員と某財団研究員のそれぞれ初代であった。日本にポスドクという概念が定着する以前のポスドクであったのだ。俺はこのように、数少ないポスドク制度を渡り歩いていたのである。ポスドクサーファーと呼んでくれ。ポスドクは続くよいつまでも。さて、いつまで続くのだろうか、この境遇は。研究は楽しかったが、将来が不安な状況はまだ続くのであった。
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岡ノ谷一夫
帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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