1993年春、紆余曲折の末、俺はまだポスドクであった。つげ義春の「李さん一家」みたいだな。「この奇妙な一家がそれからどこへ行ったかというと……実はまだ二階にいるのです」という唖然とした展開。ぜひ読んでみてくれたまえ。
上智大学生命科学研究所(当時)で最初のポスドク修行をやり、その後、農林水産省の農業研究センター鳥害研究室(当時)で2つめのポスドク修行をやった。前者では神経科学と内分泌学を学び、後者では行動生態学を学んだ。それまでは動物心理学しか学んでいなかった俺にとっては、ポスドクとしてのこの5年で研究者としての間口が広がり、行動の科学のどんな側面でもおそらく相手にできるようになったのは大きな収穫だ。つくばの生活にもようやく慣れてきたし、近所の定食屋で給仕さんをしていた女の子とも話ができるようになった。鳥の名前もいろいろとわかるようになったし、時々は畑で鳥の調査をすることもできるようになった。しかし問題は、その年の秋には鳥害研究室の任期(科学技術特別研究員制度)が終了することであった。
大学の常勤職はそう簡単に取れそうにない。かと言って、当時出ていた2つの公的資金による博士研究員(ポスドク)職を、俺はすでに2つとも消化してしまっていた。当時はそもそも博士研究員という概念は薄かった。大学院を修了し学位を得ても研究機関に常勤職で就職できないものは「オーバードクター」と呼ばれていた。今、生まれて初めてこの和製英語の和訳を調べてみたら、「余剰博士」だそうだ。まあ「やりすぎ博士」よりましか。当時、余剰博士は塾講師等で数年間生き延びながら大学の職が空くのを待っていたのである。俺は米国の大学で博士号を得て帰国したので、空きを待つべき職はもとよりない。俺はありがたいことに給与をもらっていたので、余剰博士ではなく帰国子女博士なのだった。でも俺のような者のための財源は、当時はほとんど無かった。そして任期は近づいてくる。俺は任期者なのだ。
困った時には誰かを頼るに限る。俺は、慶応大学時代の元指導教員に頼った。名前はわかる人にはわかるが、活躍中の方なので匿名にしておく。彼はいろいろな可能性を探ってくれた。結果、若手大学教員の研究に資するため、研究員を雇用するための費用を支給するという制度を、ある財団がその年秋から開始することを知った。幸い、我が元指導教員は、定義の上ではぎりぎり若手なのであった。なんと素晴らしいタイミングではないか。我が元指導教員は、鳥の視覚を研究していた。鳥の聴覚だって良いじゃないか。俺と彼とは、鳥の聴覚系と発声信号の相互作用を脳のレベルで調べようじゃないか、という完璧な申請書を書き上げ、財団に提出したのであった。
俺たちの申請書は一次審査を通過し、俺は面接に呼ばれた。漠然と覚えているのは、面接はその財団のスポンサーの自宅で行われたこと、そして面接してくれた方が大変親切に俺の話を聞いてくれたことである。なんだか茶色い煉瓦の建物であった。すごい家に住んでいるなあ、と思った。俺は前回、前々回にわたり書いた「ポスドク蟻地獄」「ポスドク恨み節」のような内容に加え、文理融合研究が日本国においては評価されにくいことを話したような気がする。文理が分離していてはダメだ。文理は融合せねばならない。もちろん、俺自身の研究計画についてはしっかりと語った後にである。
ありがたいことに、俺たちの申請は採択され、俺は秋までの時間をなんとか落ち着いて過ごすことができた。俺の立場は微妙で、資金を得たのは元指導教員であり、俺は彼に使役されるべき手下なのであった。しかし元指導教員は俺の事情をしっかり理解してくれ、俺自身の実験をするための小部屋を与えてくれたのである。
3年にわたってお世話になったつくばを、俺は離れることになった。シティーボーイな俺は、最初はつくば暮らしがつらかった。まだつくばエクスプレスはなく、東京からつくばに来るには、八重洲南口の高速バスに乗るしかなかった。バス代が足らずに交番で借りたのも、バスの中で下痢に苦しんでつくばの田んぼでノグソをしたのも、みんな良い思い出だ。つくばに住みだしてすぐ、街灯のない夜道を散歩して石に躓いてひっくり返り、「ちくしょう、つくばめ」とうなったのも、中島みゆきの「うらみ・ます」を歌いながら自転車に乗って、後ろから自転車で接近してきた女子高生集団に気味悪がられたのも、良い思い出だ。近所には日本で唯一の「水族館レストラン」があり、アジフライを食べながら魚が泳ぐのを見ることができた。日本一大きいタコが入っていたタコ焼き屋があった。タコ焼きというか、タコに小麦粉が絡みついているのであった。職場の面々ともようやく打ち解けてきた。俺はだんだんとつくばに染まり、ここで生きて行くのも良いような気になっていた。
このようにして、俺は「ポスドク蟻地獄」および「ポスドク恨み節」を経て、「ポスドクは続くよいつまでも」、の状態となった。とはいえ、この状態とて多くの人々の厚意によって成り立ったものであり、俺はこれらの人々および八百万の神に感謝すべきなのだ。
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岡ノ谷一夫
帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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