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おかぽん先生青春記

 つくばの研究所で研究をつづけながらも、俺は時々悪夢を見た。もがいてももがいても逃げ出すことができない穴に俺は落ちてしまっている。四つん這いで登ろうとしても、手元足元の砂はずるずると崩れて行く。俺は崩れながら、これは蟻地獄なのだなと思った。俺はポスドクだったので、これはポスドク蟻地獄か。ポスドク(Postdoctoral Fellow)とは、博士号を取得した後の時限付きの研究職のこと。ポスドク蟻地獄は、未来予想図を飲み込んだ。一緒に食事をすると楽しい女性と結婚し、二人程度の子供を作り、研究では一冊で良いから自分の名前を冠した本を出し、年老いてから古本屋に行くと、その本が定価とほぼ変わらぬ値段で売っているのを見て、「ああ、悪くない」とつぶやくような。現在に加えてそのような未来をもポスドク蟻地獄は飲み込んで行った。俺は自分の叫び声で目を覚ました。月に一度はこのような夢を見て、目覚めて布団の上に胡坐をかき、有限な人生をこのように過ごして良いのだろうかと自問した。
 研究テーマは無限にあり、創造力は無限に沸いてくる。そのような万能感とは別に、有限のものがあった。任期である。今も昔も、博士研究員、いわゆるポスドクには短くて1年、長くて5年の任期がある。つくばの研究所での任期はあと半年に迫っていた。俺の野望は、小さな大学で講義も雑用も多くてかまわない、任期を気にせず自己裁量で研究ができる身分につきたいということであった。つくばの研究所では、研究室長のおかげでほぼ自己裁量で研究ができた。ごくたまに、明け方に近所の洞峰公園に行き、そこでねぐらを作っていたムクドリ大集団の動向を音声で記録し、朝飛び立つパターンを分析するような、農林水産省的な仕事もあったが、それはそれで楽しいものであった。しかし、問題は任期であった。
 俺は当然ながら、いろいろな大学の教員公募に応募していた。俺は未熟で若輩であったので、助手(今でいう助教)で十分である。教授の研究を手伝い、学生の卒論の世話をしながらも部分的にも自分の興味のある研究を続けていければどんなに幸せだろうか。自分の興味は動物の脳と行動にあったが、つくばで行動生態学の洗礼も受けた。神経行動学と行動生態学を統合する研究を自分ならできる、今ならできる、と思っていた。研究テーマと自分の適性については常に楽観的であった。そのような研究は、当時(1993年)はどう考えても生物学であった。俺は大学学部では文学部だったが、大学院は米国の心理学研究科だ。米国の心理学研究科は神経科学プログラムの一部なので、俺は生物学者なのだ。
 俺はだから、生物学で動物の個体を扱うような公募に次々と応募した。当時、公募は郵送で、書留で出すもので、締め切りの消印有効が多かった。履歴書と業績目録を付けるのだが、これが大学によって異なる形式である。当時はワープロ出力を様式に合わせることはたいへんに難しく、ベタ打ちで印刷した文を細かく切り取り、様式に貼り付け、それをコピーして最終版とした。応募書類作りは作文と工作であった。それができないほど細かい様式もあり、そのような場合にはやむをえず手書きであった。誤字脱字があると印象が悪いので、一文字でも間違えたら全部やり直しだ。このように苦労して文書を作成し、締め切りの日、東京の中央郵便局に消印を押してもらいに行く。そして八重洲南口から出ていたつくば行のバスに乗って帰る。何度繰り返したことか。
 このような公募はまず書面審査があり、その後数人が面接に呼ばれる。俺は驚いたことにまったく面接に呼ばれないのであった。不採用通知はいったいなぜこのような文なのかと思うほど慇懃無礼であり、なぜみんな同じ文なのかと思うほど一律であった。「この度は〇〇大学〇〇学部の助手公募に応募して下さり誠にありがとうございました。たくさんの応募があり、たいへん残念ながら、今回は貴意にかなうことができませんでした。優秀な貴殿のことですので、これからも機会があることと存じます。引き続き何卒よろしくお願いします」的な文章である。俺はこれらの不採用通知をすべてファイルしている。
 生物学系であまりに相手にされないので、俺はいっそのこと大学に入りなおそうと思ったほどである。学部時代の俺はほとんど勉強せずギター部で楽しく過ごしていた。大学院時代の俺が勉強していたのはほとんど生物学であった。なのに評価する側は俺の履歴書を見て「え、文学部? ここ理学部だよ」と言いながら、俺の書類を「不採用」箱に投げ込む。きっとそんなことが起きているに違いない。日本の学問分類を呪い、大学教員になった暁には、文理融合を進めて行くぞと誓いながら、そもそも大学教員になれないのではどうしようもない。ここは体制に丸め込まれることとしよう。俺は文学部心理学系の公募にも応募することにした。
 とある大学では、ついに助手の面接に呼んでもらうことができた。当時は今以上にコネというものが重要とされ、その大学には、知り合いの教員はいたが、コネと言えるようなものではなかった。しかし、俺の研究の話を聞けば教授たちは感涙にむせび、三顧の礼をもって俺を迎えるはずだ。俺は希望に燃えて発表準備を作った。今なら電子的なスライドで行うのであるが、当時は物理的なスライドである。スライドを1枚作るのに3000円くらいかかる。時間も最低1週間はかかる。面倒くさいが俺はスライドをそろえ、その完璧さにほくそ笑んだ。さて面接当日。研究発表は最高の出来であった。しかし、その後の質疑応答が驚愕の連続であった。日本というのはこういう国だったのか、と俺は飲めない酒を飲み、「酒と泪と男と女」を歌いながら帰路についた。そしてその日はふたたび蟻地獄の夢を見るのであった。以下、次号。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

岡ノ谷一夫

帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。

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