「Jポップ」の歴史と「平成」という時代は、ほぼ重なっている。一九八八年十月一日に開局したFMラジオ局J-WAVEが、洋楽リスナー(同局は当初洋楽専門だった)の耳でも聴けるジャパンのポップ・ミュージックという意味合いで「Jポップ」というワードを使い始めたのが、今や完全に日常語になっているこの語の発祥という説が濃厚であるからだ。「昭和」が「歌謡曲」の時代だったとしたら、「平成」とは「Jポップ」の時代だったのだと言ってもいい。ここには少なくとも二つの軸がある。ひとつは先行する「歌謡曲=昭和的なるもの」との差異化、もうひとつは、この語の誕生エピソードに端的に示されている「洋楽=海外(この時点では主にイギリスやアメリカ)のポップ・ミュージック」との関係である。この二点は連関している。一言でいえば、Jポップとは日本の輸入文化の突出した現れのひとつだった、少なくとも或る時期までは。そしてそれ自体が「歌謡曲/昭和」との明確な違いとして機能していた、或る時期までは。
昭和の半分とはいえ平成だっておよそ三十年もあったわけで、それは三つのディケイドということだから、十把一絡げに「平成のJポップはこうだった」と纏めることなど出来ない。筆者はかつて「Jポップ」誕生の前後二十年ずつに及ぶ(六〇年代末~ゼロ年代末の)日本のポピュラー音楽の歴史を著したことがあるが(『ニッポンの音楽』)、そこでは繁雑さを避けるため、九〇年代を「渋谷系」と「小室哲哉」、ゼロ年代を「中田ヤスタカ」で代表させてしまった。今は平成の終わりで、かつテン年代(二〇一X年代)の終わりである。編集部からのオーダーは平成Jポップ十選ということだが、これはそう簡単ではない。単純計算でも三年に一枚しか選べない。無理である。だが無理を承知の依頼であろうから、ちょっとやってみることにする。
フリッパーズ・ギターは外せない。平成元年リリースの一枚目は全曲英語詞で、当時のイギリスのギターポップの影響をあからさまに公言していた。しかしここは一転して日本語で歌ったセカンド1.『CAMERA TALK』(90)を挙げる。周知のようにフリッパーズは三枚のアルバムを出して突然解散し、小沢健二と小山田圭吾=コーネリアスはソロになり、それぞれに長く曲がりくねった道を歩むことになる。彼らが旗頭とされた「渋谷系」とは要するに「渋谷等のレコード屋で輸入盤を買い漁ってた音楽マニアがやってみた音楽」のことだ。フリッパーズと並ぶもう一方の雄であるピチカート・ファイヴは、八〇年代半ばにデビューしメンバーチェンジを複数回経て、平成には小西康陽と野宮真貴の二人体制となり、黄金時代を迎える。アルバムは悩むが、名曲「きみみたいにきれいな女の子」を含む2.『プレイボーイ プレイガール』(98)で。ヒット曲「東京は夜の七時」を含む『オーヴァードーズ』(94)も好き。渋谷系と同時代、九〇年代=平成初期に登場したユニットでは、電気グルーヴとスチャダラパーは最重要だ。彼らはテクノとヒップホップという海外の新しい音楽フォームを日本の土壌に軽やかに、単なる摸倣とはまったく違う、いわば「終わらない日常」的なアプローチによって移植してみせた。電気はアンセム「虹」を含む3.『DRAGON』(94)を、スチャはアンセム「サマージャム’95」を含む4.『5th wheel 2 the Coach』(95)で。
小室哲哉の最盛期がどれほどすごかったか、直に体験していない者にはどうしたってピンと来ないだろう。海外のダンス・ミュージック、それもレイヴ(大規模パーティー)でかかるようなイケイケの音を絶妙に日本化させたTK(TETSUYA KOMURO)印のプロデュースものは、あの頃、というのは九〇年代後半、好き嫌いを超えて「現在」を覆い尽くしていた。当然挙げるべきは安室奈美恵の5.『SWEET 19 BLUES』(96)だが、作品としてはTK自身もメンバーのglobeのデビューアルバム『globe』(96)も捨て難い。安室が出産のために活動を休止していた一九九八年の末にデビューし、瞬く間にスターダムを駆け上ったのが、言わずと知れた宇多田ヒカルである。安室を超えるスーパーメガヒットとなった6.『First Love』(99)は、宇多田を日本のポピュラー音楽史における「最後の歌姫」にした。宇多田の半年ほど前にデビューした椎名林檎の『無罪モラトリアム』(99)は、多くの点で超時代的な作品と言える『First Love』よりも「九〇年代の終わり」が刻印されたアルバムだった。
中田ヤスタカはこしじまとしことのデュオ、CAPSULEとして一九九七年にデビューしていたが、ゼロ年代後半に大ブレイクしたPerfumeのプロデューサーとして一躍名を馳せる。Perfumeのアルバムを一枚選ぶとしたら当然7.『GAME』(08)だろう。これときゃりーぱみゅぱみゅの『ぱみゅぱみゅレボリューション』(12)によって中田は小室哲哉、モーニング娘。のつんく♂と並ぶJポップ史上に残る名プロデューサーとなった。小室と同じく中田の参照項も海外のダンス系のトレンドだが、ゼロ年代になるとスタイルとしては何でもありのEDMが主流になっている。フロア向けになり過ぎない点が中田のサウンドを「Jポップ」に留めている。
ゼロ年代の終わりの二〇〇九年、相対性理論の8.『ハイファイ新書』とサカナクション9.『シンシロ』が同月(1月)にリリースされた。音楽的には対照的と言っていい二枚のアルバムは、しかし共に「平成二十年」を表象していたと今は思える。そしてその後のテン年代、二〇一一年三月十一日があり、SNSが常態化し、「Jポップ」はさまざまな意味で拡散し、ということは薄まって、もちろん数々のニューカマーが出てきたし、愛聴盤は沢山あるのだけれども、売り上げ的にはもちろん、カルチャーとして、ここまで挙げてきた人々と同一平面上で語ることはむつかしくなってしまっている。実はあと一枚分だけ空席が残っている。必然的にそれはテン年代、すなわち平成最後のディケイドを代表する作品ということになるわけだが、そういうものはない(そしてないのは必ずしも悪いことではない)。そういうものではないが、私はtofubeatsにしたいと思う。アルバムは10.『First Album』(14)で。これに限らず、tofuの楽曲には、過ぎ去った時間、体験したことさえない時間への思慕と、海の向こうの音楽たちへの憧憬が、アイロニーを乗り越えた率直さとしぶとさで息づいている。そう、つまりそれが、平成のニッポンの音楽、すなわちJポップだった。
(「新潮」2019年5月号掲載)
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はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥