ボブの研究室で1年半が過ぎた頃だった。トムは相変わらず小さないたずらを周囲に仕掛けながらも、着実に研究を進めていた。僕も英語がまあまあ通じるようになり、小鳥の聴覚測定で興味深い成果が出てきており、最初の論文がまとまりそうな段階だった。でもシンディはしばらく前に研究室を去っていた。送別会も何もなく。ボブによると、研究者としてやっていく自信がなくなってしまい、進路を考え直すということだった。米国の大学院ではよくあることだ。
向かいのゴラブ教授の研究室に、新入生が入ってきた。ゴラブ教授のラボは、ハトをオペラント条件づけして、ボタンをつつくとエサが出ることを学習させ、多様な薬物を投与して、ボタンをつつく行動がどう変容するかを調べていた。行動薬理学と言われる分野である。ゴラブ教授は私が卒論生だったころ慶応大学を訪問してきたこともあり、親しくしてもらっていた。
ゴラブ教授のところの新入生はスーザン・ブラウンと言った。米国の大学院生の20%はスーザン・ブラウンだと本人が自虐的に言っていた。頭の良さげな名前なのである。でもスーザンは、いつも少し不満そうな顔をしながら、実験用のハトを持って向かいの研究室に出入りしていた。スーザンは今の女優で言うとレイチェル・マクアダムス(きみに読む物語、アバウト・タイムなど)に似ているかわいい人だったが、基本不機嫌そうなので、軽く挨拶する程度であった。
「あの娘はいつも不幸そうだ。研究に興味が持てないに違いない。きっと近いうちに俺のラボに移籍してくるぞ」とボブは言う。ポジティブ思考な男は、僕は苦手だ。まさかと思ったが、半年後、スーザンはボブのラボに移籍してきた。スーザンは、シンディが置き去りにしてしまった研究を継ぐことになった。セキセイインコの鳴き声が、セキセイインコ自身にとってどのように聞こえるかを調べる研究である。
インコが右側のボタンを押すと、インコの鳴き声が2つ、再生される。これらが異なる音だった場合(例:キー、ピュル)、インコは左側のボタンをつつくとエサをもらえる。同じ音であった場合(例:ピュル、ピュル)、インコはそのまま2秒待たねばならない。待てずに左側のボタンをつつくと、実験箱の中は16秒間暗闇になる。ちゃんと2秒待つと再び右側のボタンを押すことができる。このように訓練すると、とても異なる2つの音だとすぐ反応するが、とても似ている音だとなかなか反応しないようになる。すぐに反応すれば2に近い数字になり、反応しなければ(2秒待てば)0になる。つまり、2秒から反応時間を引いた値がそのインコにとっても音の類似度になる。これを手がかりに、インコにとっての鳴き声地図が作れる。
なかなかよく考えられた実験である。この手法は、僕がボブのラボに入る前に、ボブとシグという名前の計量心理学者とで考え、制御プログラムは工学部の学生を雇ってFORTRANで書いた。結果は多次元尺度構成法という方法で、音の類似度に応じて鳴き声を配置した。多次元尺度構成法を簡単に言うと、たとえば世界地図から主要な都市どうしの距離を測り、距離データだけをもとにして都市の配置を再構成するような方法である。
スーザンはこの研究に非常に興味を持ち、すぐに研究室に適応した。それまでとは違い、表情が柔らかくなった。ゴラブ教授が悪いのではなく、本人の興味と研究室のテーマが合わなかっただけである。スーザンはそもそも、音声の研究をしたかったのだが、そのような研究室がすぐそばにあることを知らず、行動の研究室としてゴラブ教授のところに入ってしまったのである。
スーザンは時折バイオリンケースを抱えて来ていた。聞けば、地元のオーケストラで第一バイオリンを弾いているとのことであった。音声の研究に興味があって当然である。スーザンはインディアナ州のパデュー大学を卒業した後、生物心理学の勉強をしたくて、メリーランド大学に来たということだった。そもそも実家がメリーランドにあるということも理由のひとつであったようだ。
以上のことを知るまで、半年ほどの時間が必要だった。研究室に適応することはできても、個人的な話は特にせず、彼女にとって当面は研究とバイオリンなのだった。僕自身も、スーザンのことを少しこわいと思っていたので仕方がない。
仲良くなってきたきっかけは、スーザンが大学院生用のアパートに越してきてからである。僕はレッドスキンハウスを1年半で出て、すでにそのアパートに住んでいた。とはいえ、全部で450室もある巨大なアパートだったので、偶然会う機会もなかったのだ。ところが、ハローウィンのカボチャランタンを作ろうと、スーザンは僕に声をかけてくれた。彼女のアパートに行ってみると、すでに数人の男女がカボチャランタンを作っていた。呼ばれているのは僕だけではないとは思っていたが、少しがっかりしたことは確かだ。
ご近所さんになってからは、スーザンと僕は個人的な話も時折するようになった。僕が実験中に読んでいる本を見て、それは面白そうだから終わったら貸してくれと言う。Tom Robbinsという作家のJitterbug Perfumeという小説だった。カート・ヴォネガットと村上春樹の両方の特徴をもっているようなスタイルで、僕は好みだった。僕はもちろん急いで小説を読み、スーザンに貸した。そしてその本について語り合う会をしようということになった。このようにして、留学中の僕の、新たな喜びと悲しみが始まった。
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岡ノ谷一夫
帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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