俺が住んでいた大学院生用のアパートの近所には、食材を買える店は何もなかった。自動車を買ったのはメリーランド大学に来て3年目で、それまでは、リュックを背負い、自動車道の端を30分ほど歩き、セブン・イレブンに買い出しに行っていた。そこがいちばん近い店であった。セブン・イレブンとはいえ、ちょっとしたスーパーマーケットとして24時間機能していた。俺はご承知の通り夜行性なので、セブン・イレブンに行くのも夜中であった。
買い出しの途中、2度ほどひどい目に遭った。1度目は、道を歩いていたら、車が脇に止まり、乗っていた学生が地図を指さしながら大学への道順を聞いてきた。俺が親切にもつたない英語で道を教えていると、突然顔に衝撃を受けた。乗っていた白人学生どもが、缶ビールを揺すっており、一気に蓋をあけて俺にぶっかけたのであった。俺はしばらく事情がわからず、車は通り過ぎていった。学生どもは大声で笑っていた。
2度目も同様なことである。道を歩いていたら突如「バリッ」と音がして背中に激痛が走った。手を当てると粘っこい液体が流れていた。「無念、これまでか」と思ったが、その液体は血ではなく生卵なのであった。白人学生数名が乗った車が、俺の脇を通り抜けざまに、奴らが俺に生卵をぶつけたのであった。奴らは「イエロー・モンキー」と叫びながら通り過ぎていった。ほんとにイエロー・モンキーなんて言われるんだなと感心しながらも、俺は怒りでうち震えており、しかし彼らが戻ってきたら怖いなと思い、黙って堪え忍んだ。
こういうのを人種差別と言うのだろうか。研究室の同僚で生粋のアメリカ人、トムにこの話をすると、馬鹿な学生は相手が誰でも同じようなことをする、気にするなと言われた。奴らが馬鹿な学生であることは明らかだが、白人に向かって同じことはするまいと思った。イエロー・モンキーと言われたからには、これらは俺が黄色人種であることを前提とした暴力であろうと思った。そう思うと、アメリカという国で生きていくことの困難さを感じた。
もう1つある。大学院生用のアパートは年限3年だったので、その後は自動車を買って通える範囲の安いアパートに住むことになった。安いとは言え、ティーチング・アシスタントの給与すべてをつぎこむ必要があり、俺は仕方なくプログラマーとしてバイトもすることになった。そのアパートには見る限り全く白人は住んでおらず、黒人しかいなかった。俺はこの黒人社会の中で同じ有色人種として受け入れてもらえると良いなと思った。
ある夜中、俺の部屋のドアが激しくノックされた。のぞき穴から見てみると、黒人女性がいた。ドアを開けずに用件を聞くと、彼女の赤子が先天性の糖尿病で、インスリンを打ったのだが、ショックを起こしている、病院に連れて行って欲しいとのことだった。俺が自動車を持っているのを知っていたのであろう。それは大変なので、俺は女性を車に乗せて病院に連れて行くことにした。赤子はショックを起こしたにしては彼女の腕の中で睡っていた。俺が運転を始めると、彼女は「母親の家に行って保険証をとって来なければならない」と言った。そのようなこともあろう。俺は彼女の指示通りの道を通り、俺のアパートよりさらに低所得者用と思われるアパートの駐車場に車を止めた。彼女は20ドル貸してくれと言う。なぜ20ドル貸さねばならぬか理解できなかったが、20ドルなら貸せないことはない。貸した。
駐車場で彼女の帰りを待ったが、なかなか帰ってこない。1時間ほどすると、俺の回りに黒人の人々が寄ってきた。なんだか叫んでいる。ボンネットに乗ってきた。困った。俺は仕方なくもう20ドル渡してボンネットから降りてもらい、たぶん詐欺にあったんだろうなと思って車を出した。警察に報告すると、それは騙されているのに気がつかないお前が悪い、命を取られなかっただけ良かったと思え、と言われた。命があったのは良かった。しかし警察の対応には怒りを覚えた。このことも、同僚のトムに話した。警察はたぶんその程度のことでは動いてくれないだろう、それはお前が黄色人種であることとは関係ない、と言った。
そのころ、スペースシャトルのチャレンジャー号が打ち上げから73秒後に爆発するという惨事が起こった。7名の乗組員全員が死亡した。この事件の報道番組を、研究室で、みんなで見ていた。テレビの中の記者が言った。「アメリカは負けない。またやるんだ」と。何に負けないのか、俺にはわからなかった。またやる前に、事故の原因を究明すべきじゃないかと思った。ところが研究室の俺以外の全員は、「アメリカは負けない、またやるんだ」と繰り返していた。俺はもうここには居られない、学位を取ったら日本に帰ろうと思った。
俺が感じたことを人種差別と言うべきではないかも知れない。アメリカ建国に関連した人種と、自分とは違うという自覚にすぎない。その自覚を持ちながら、アメリカで研究を続けるという道もあったはずだ。俺はしかし、それを選ぶことができなかった。
実際に俺が日本に帰国したのは1989年で、チャレンジャー号の事故から3年後である。その間、生粋のアメリカ人の友達ができ、生粋のアメリカ人のガールフレンドも短い間だができた。俺はそれでも、チャレンジャー号の事故に際して感じた違和感を持ち続けていた。もちろん、亡くなった乗組員の方々は気の毒だ。しかしそのような事故をもってして結束を強めるアメリカ中心にいる人々に、俺はなることは出来ないなと思った。俺が学位を取った後日本に戻ってきた理由として、たぶんこの出来事が一番大きい。卵をぶつけられたり、ビールをかけられたり、20ドルを詐欺で奪われ、もう20ドルを恐喝で奪われた。それらのことはもちろん積み重なって俺の中でくすぶり続けていた。しかし、きっかけはやはりチャレンジャー号の事故なのだ。
このような違和感を持ちながら、俺はアメリカの世話になり続け、博士号を与えてもらった。俺のような者にちゃんと教育を授けてくれたアメリカという国の寛容さに感謝をしている。しかしその寛容さが持つ力に、俺は違和感を持ったままなのである。
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岡ノ谷一夫
帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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