俺の学位論文の審査は、1989年の2月に行われた。日本では昭和が終わり平成が始まったばかりだったが、アメリカの大学院生にとってはほとんど関係のないことだった。キンカチョウという鳴禽類に属する鳥と、セキセイインコというオウム目に属する鳥の聴覚能力を測定し、それぞれに合わせて作った音響分析プログラムにそれぞれの鳴き声を通した。出てきた結果を自己組織化ネットワークというものに入力して、それぞれの鳥の聴覚特性が、それぞれの鳥の鳴き声をより詳細に分析できることを示した。これが俺の博士論文だった。今はやりの神経回路網理論(今では人工知能・AIと呼ばれることもある)を鳥の鳴き声の分析に応用した初めての論文だったと思う。どうせ先生方は神経回路網理論なんて知らないだろうから、軽くパスするだろうと、俺は油断していた。
しかし、審査会ではホドス教授がキンカチョウとセキセイインコの進化的関連性を質問してきて、俺はタジタジになった。またもホドス教授だ。俺がいい加減な系統樹を書いたところ、ホドス教授は例のごとく立腹なさり、コルバートという方が書いた「脊椎動物の進化」という大著を勉強してレポートを出すまで学位は出さないと言われた。言っておくが、この時期、キンカチョウとセキセイインコの正しい系統関係がわかっていた人間はだれもいなかった。正解のない質問であったが、それでも進化学のセンスを試すには良問だったと思う。俺は真面目に勉強し、ホドス教授の了解を得、めでたく学位(Doctor of Philosophy, Ph.D.)を取得したのであった。ホドス教授はいつも恐ろしいが、この時の勉強も俺の血肉になっている。
いろいろな理由で(うち1つは前回書いた)学位取得後は日本に戻ろうと考えていた俺は、既に上智大学のある教授に連絡を取り、研究員として受け入れてくれないか打診してあった。当時は申請書もすべて手書きで、1文字でも間違えるとすべてやり直しという素敵な世界であった。俺は5回目くらいで誤字脱字のない申請書を書くことに成功し、日本学術振興会特別研究員として上智大学の生命科学研究所に受け入れが内定していた。これは当時は2年契約で(今は3年になった)、その間に一仕事しながら次の就職を探さなければならないが、無知で楽観的な俺は、なんとかなるさと思っていた。
俺が帰国するころ、ANAがバージニア州にあるワシントン・ダレス国際空港から成田への直行便を飛ばし始めていた。すでに車を売り払っていたので、空港へはスーザンに送ってもらい、割と素っ気なくさよならした。展望台でこっちを見ているかも知れないスーザンを俺はずっと探していたが、目が悪いのか俺が悪いのか、スーザンは見つからない。たぶんそのまま帰ってしまったのだろう。
15時間ほど飛行機に乗り、成田に着いた。一歩踏み出して、俺は驚いた。空港にいたのがほとんどすべてアジア人だったからである。米国で過ごした約6年の間、これだけ均質な人間の集団を見ることはなかった。また、スーザンのおかげで俺の異性に関する美意識はすっかり洋風になっており、男女を問わずアジア人はアジア人でしかないのであった。そのアジア人たちが話していたのは日本語であり、すなわち彼らは大部分が日本人なのであった。成田で降りる者は昔も今も日本人が多いのは当たり前であろう。しかし俺には、この均質さに違和感が生じてならなかった。俺はこれから日本人として生きていかなければならないのに。
帰国してから数日の間、土地勘のある吉祥寺に安ホテルを確保しておいた。その間、不動産屋を回ってアパートを探すつもりだった。日本に着いた夜、“アジア人中毒”になった俺は、吉祥寺から井の頭通りを歩いて西荻窪・久我山方面に散歩した。留学前に住んでいたアパート「豊玉荘」を再訪しようと思ったのである。豊玉荘は依然としてそこにあった。俺はその辺りをふらふらしながら、日本での再出発をどこから始めようかと考えていたのである。すると突然警官が二人現れ、俺に職務質問した。何してるんですか、と聞かれて「センチメンタルジャーニーです」と答えた俺に、警官は不審なまなざしで身分証明書を見せろと言う。俺は「今日アメリカから帰ってきたばかりで、何もありません」と言うと、なお不審なまなざしをしながらも、「ご苦労さまです、気をつけてください」と言って去って行った。何に気をつけるのかと言えば、俺のような男に気をつけるのだろうなと漠然と思った。
翌日俺は、中央線沿線でアパート探しを始めた。念のため、このとき昭和は終わっており、平成の最初の年だった。最初に行った不動産屋で俺はすぐに挫折した。俺が部屋を探している旨を伝えると、不動産屋の親父はこう言った。「どこの国から来たんですか。うちは外国人には貸せないんですよ」。俺から見たらこの人たちがみんな「アジア人」に見えるように、この人たちから見た俺は国籍不明の「アジア人」なのだった。俺はホテルに戻り、パスポート持参で部屋探しを続けた。その時のパスポートの写真を見ると、確かに俺は不審なアジア人に見える。たぶん、日本語の発音も米国式になっていたのであろう。どうもその頃の俺は、「帰ってきた”異邦人”」なのであった。
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岡ノ谷一夫
帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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