仕事で和歌山市に行った折り、私が甘いもの好きだと知った街の人は、誰もが皆、男の人も女の人も「それなら『力餅』に行くといい」と口を揃えて言った。
『力餅』は関西で時折見かける甘味食堂のチェーンで、神戸出身の私も、幼い頃住んでいた街の駅前商店街に『力餅』があったのを覚えている。風邪をひいてお医者さんに行った帰りに、ふだんは外食しない母が私に気分転換をさせようと思ったのか、二度ほど入り、たしか力うどんを食べた。おうどんは食べたが、しかしその店に甘味があった記憶はない。『力餅』チェーンのマークは、餅つきの杵が交差した絵柄で、まさしくお餅が売りのお店だが、品揃えはまちまちで、店ごとに独自の進化を遂げているのかもしれない。
地元の人によると、昔は休日になると街の中心部は大変な人出で、東京でいえば銀座四丁目の三越に匹敵する丸正百貨店でお買い物をして、帰りに『力餅』でおだんごを買って帰るというのが一種のステイタスだったのだと言って、そこにいる皆で頷き合っている。それがこんなにさびれてしまって、今は車で簡単に大阪に行けてしまうから街に人がいなくなったと嘆いている。それでお店はどこにあるんですかと聞くと、ぶらくり丁を左に曲がってなんとかの裏にあるから、とアバウト極まりない。『力餅』への道順なんて、もう当たり前過ぎてうまく教えられないといった感じだ。そして絶対行きなさいと強く言う。しかもおだんごは夕方に行くと売り切れていることが多いから、早めに行きなさいと言う。
翌日、私は言われたとおり『力餅』に行ってみることにした。ぶらくり丁は街の中心部にあるので、そのあたりをうろつけばなんとかなるだろうと思ったら、はたしてひと気のないアーケード街でそこだけ人だかりがしていたので、すぐにわかった。
休日の朝早くというのに、開店と同時に人々が集まってきたようである。車も次々にやってきて、堂々と路上駐車してお店に入っていく。お店の左手は店頭販売コーナーになっていて、ガラス窓の向こうのスチールトレイにきなことあんころとおはぎが並んでいる。すでにもうその数は数えるほどしかない。私はぞっとして、慌ててお店の引き戸を開けて中に入った。
中で座っている人は数組で、ほっとした私は、中頃のテーブルについた。店内にかかったお品書きを見上げると、お餅の他におうどんやおそばのメニューがずらりと並んでいる。関西らしく、おこぶうどんやおかめうどんもある。子どもの頃に食べた力うどんもある。しかしともかくここは店頭の力餅を頼んでおかないと、目の前で売り切れる可能性もある。私はあんころときなこ一皿ときつねうどんを頼んだ。
ほどなくして塗りの赤いお皿にのってお餅がやってきた。街の人はしきりに「おだんご」と言うので、串だんごをイメージしていたが、いわゆるおだんごではなくお餅である。あんころは伊勢の赤福型と同じ白餅にこしあんをのせたお餅で、きなこは白餅にきなこをまぶし、中にこしあんが入っている。たっぷりした大きさで、見るからにおいしそうである。食べるとお餅がやわらかい。これもまた赤福型である。関西のお餅はいわゆるお餅らしい、もっちりと歯ごたえがあるタイプではなく、はんなりとやわらかい食感のものが多い。かといって添加物でやわらかくしているのでなく、朝生と呼ばれるつきたて餅のやわらかさである。『力餅』のお餅も然り。これは人気があるはずだ。お出かけの帰りに必ずお土産にすると話す人々の口ぶりから、もっと城下町の高級和菓子を想像していたが、ごく庶民的なおやつであった。
そして奥からはトレイにぎっしり並んだお餅が次々に出てくる。どうやら店頭になくなりかけると、どんどん作って出していくようである。夕方にはその日作る分がなくなってしまうかもしれないが、朝なら焦って頼まなくても大丈夫なのであった。観光客はしきたりがわかっていなくて、なにかとまごつくものである。
続いてやってきたきつねうどんは、揚げが刻みであるところが大阪のきつねとは違うが、おだしは関西風の薄口で、やわらかいおうどんである。
懐かしい味に感激しながら食べていると、初老の夫婦と三十代くらいの女性が入ってきて前の席に座った。そのようすから、若い女の人はお嫁さんだなと思う。遅れて夫らしき人も入ってきた。きっと車を置いてきたのだろう。小さなテーブルに大の大人が四人で座って、口々に、僕は◎◎だな、俺は××にするわ、じゃあ私は○○でと注文している。手慣れた感じで、長々とお品書きを眺めたりしない。今日は違うものを食べてみようとか、もはや考えもしないようだ。四人が四人とも、もう何十年もの間、ここのご厄介になっているといった風情である。ただ四人揃って来るのは珍しいようで、お互い遠慮がちにちぢこまって座り、少々窮屈そうである。
若夫婦はふだんは大阪に住んでいて、週末に帰ってきたのだろうか。今日はお母さんがお昼作るの面倒だからと言って、じゃあ『力餅』でも行こうかと、みんなしてやってきたのだろうか。そうして特別会話することもなく、めいめいが頼んだものを黙って食べている。店頭の力餅は、無論買って帰るのだろう。
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若菜晃子
1968年神戸市生まれ。編集者。学習院大学文学部国文学科卒業後、山と溪谷社入社。『wandel』編集長、『山と溪谷』副編集長を経て独立。山や自然、旅に関する雑誌、書籍を編集、執筆。著書に『東京近郊ミニハイク』(小学館)、『東京周辺ヒルトップ散歩』(河出書房新社)、『徒歩旅行』(暮しの手帖社)、『地元菓子』『石井桃子のことば』(新潮社)、『東京甘味食堂』(本の雑誌社、講談社文庫)、『街と山のあいだ』『旅の断片』(アノニマ・スタジオ)他。『mürren』編集・発行人。3月に『岩波少年文庫のあゆみ』(岩波書店)を上梓。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 若菜晃子
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1968年神戸市生まれ。編集者。学習院大学文学部国文学科卒業後、山と溪谷社入社。『wandel』編集長、『山と溪谷』副編集長を経て独立。山や自然、旅に関する雑誌、書籍を編集、執筆。著書に『東京近郊ミニハイク』(小学館)、『東京周辺ヒルトップ散歩』(河出書房新社)、『徒歩旅行』(暮しの手帖社)、『地元菓子』『石井桃子のことば』(新潮社)、『東京甘味食堂』(本の雑誌社、講談社文庫)、『街と山のあいだ』『旅の断片』(アノニマ・スタジオ)他。『mürren』編集・発行人。3月に『岩波少年文庫のあゆみ』(岩波書店)を上梓。
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