その日は岡山で少し時間があったので、十年ほど前に一度訪れた、街の中心部に行ってみることにした。岡山の街は街路が碁盤目状に整備されていて、おおまかな目印と方向をいったん飲み込むと歩きやすい。私はうろ覚えの知識を思い出しながら歩き始めた。大きなビルは増えたが、花木の植わった遊歩道のある細い川の流れも、梢の高い木々の並ぶ桃太郎大通りも以前のままである。
後で知ったのだが、その日はちょうど駅ビルのオープン初日で、中心部である表町のアーケード街は人通りも少なく、冬の雨上がりの冷たい風が吹いていた。それでも以前入ったお店は変わらず営業していて、それらをのぞきながら歩いていくと、『カニドン』があった。古風な名前の喫茶店には覚えがあるが、外観は新しく、こんなだったっけと、はかない記憶と比べてみる。それでも懐かしい気がして、細い通路を通ってお店に入った。
中に入ると小さなカウンターで注文を受けていて、やはり以前とは違う。トーストとコーヒーだけ頼んで、席まで運んでくれた女性に、お店こんなでしたっけと聞くと、昔は煉瓦造りで渋い店でしたと写真が入った大きな額をわざわざ持ってきて見せてくれた。そうそうこれです、ちょっと穴蔵みたいでと言うと、『カニドン』は祖父が大正末期に始めた店で、祖父は船乗りだったので船を意識した内装だったそうです、あの壁飾りも祖父の時代のものですと指さした先には、鋳物の帆船の壁飾りが掛かっていた。祖父の代の後、父、いとこと継いで移転したのちに閉店することになって、「でも私は○○が食べられなくなるのが嫌で」、もと店があったこの場所でお店を再開したんです。そうでしたか、それはなによりでしたとトーストを食べ始めたが、聞き取れなかった○○が気になる。それで席を立ったときに、すみません、先ほどの○○ってなんですかと改めて聞くと、笑いながら「ミル金です」とおっしゃった。
ミル金とはミルク金時の略で、練乳に砂糖を加え、味つけしたものを氷にかけたあんこつきのかき氷で、昭和初期から出しているそうだ。昭和の初めから練乳がけかき氷とはハイカラですねと驚くと、当時は氷といえば白みつとあんこがふつうでしたけど、店に来ていた岡山大学の学生に、コーヒーにつけていたミルクをかき氷にかけるとうまいから、メニューに加えるといい、と半ば強引に助言されて出し始めたところ、評判を呼んで名物になったという。私も子どもの頃から大好きで食べていますので、その味を忘れないように味を作っています。でも今は味見するくらいで、あんまり食べるとこんなになっちゃうからと両手を広げ、太った自分をジェスチャーで表して笑っている。
岡山の人は、母とよく来たんですとか、おじいちゃんに連れられて子どもの頃来ましたとか、まだやっていてよかった、昔と同じ味だと喜んでくれるおばあちゃんもいらして、そういうふうに言ってもらえると続けていてよかったなあと思います。なかには「(親族が)最期に食べたのがミル金でした」と話すお客さんもいて、私も最後の晩餐はミル金にしようと決めて、いまわの際に食べさせてくれと家族に頼んでありますというので、思わずふたりで笑ってしまった。
お店に入る前から外にあったお品書きを見て、冬でもかき氷やってるんだと気になっていたのに、トーストとコーヒーなどにせずに(もちろんそれらもおいしい)、ミル金にすればよかったと後悔する。今からもう一度座ってミル金を頼もうかと思うが、時間がない。けれどもこれでまた岡山に来るのを楽しみにする目的ができた。ミル金は一年中やっていて、夏は冷たいお茶、冬は温かいお茶をつけてくれる。「ぜひまた食べに来て下さい」と言ってもらって店を出た。
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若菜晃子
1968年神戸市生まれ。編集者。学習院大学文学部国文学科卒業後、山と溪谷社入社。『wandel』編集長、『山と溪谷』副編集長を経て独立。山や自然、旅に関する雑誌、書籍を編集、執筆。著書に『東京近郊ミニハイク』(小学館)、『東京周辺ヒルトップ散歩』(河出書房新社)、『徒歩旅行』(暮しの手帖社)、『地元菓子』『石井桃子のことば』(新潮社)、『東京甘味食堂』(本の雑誌社、講談社文庫)、『街と山のあいだ』『旅の断片』(アノニマ・スタジオ)他。『mürren』編集・発行人。3月に『岩波少年文庫のあゆみ』(岩波書店)を上梓。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 若菜晃子
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1968年神戸市生まれ。編集者。学習院大学文学部国文学科卒業後、山と溪谷社入社。『wandel』編集長、『山と溪谷』副編集長を経て独立。山や自然、旅に関する雑誌、書籍を編集、執筆。著書に『東京近郊ミニハイク』(小学館)、『東京周辺ヒルトップ散歩』(河出書房新社)、『徒歩旅行』(暮しの手帖社)、『地元菓子』『石井桃子のことば』(新潮社)、『東京甘味食堂』(本の雑誌社、講談社文庫)、『街と山のあいだ』『旅の断片』(アノニマ・スタジオ)他。『mürren』編集・発行人。3月に『岩波少年文庫のあゆみ』(岩波書店)を上梓。
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