俺はガラ子に会うためにオーストラリアに旅立った。日本からオーストラリアは比較的近い。バヌアツからもオーストラリアは実際に近い。当時の青年海外協力隊の規則では、派遣先からは2年間の任務完了まで日本に帰ってはならない。しかし、派遣先近隣の小旅行は許可される。だから、俺たちはオーストラリアで落ち合うことにしたのだ。オーストラリアの滞在は2週間の予定であった。俺たちは、オーストラリアに在住の鳥のさえずりの研究者、リチャード・ザン氏を訪問して彼のフィールドワークを見学してから、オーストラリアの南にあるカンガルー島に行くことになっていた。だが心の中には今日子さんがいた。
ガラ子の予定と俺の予定の関係で、俺は最初の数日、オーストラリアを一人で旅した。成田からシドニーに行き、一泊してメルボルンに飛んだ。日本は肉まんがおいしい冬だったが、オーストラリアは夏だった。シドニーに降りてすぐ、ワライカワセミの声が聞こえてきて、ああ、ここはオーストラリアなんだなと思った。道路を歩いていると、道ばたにオウムの一種、キバタンの群れがいた。日本で買うと1羽50万円くらいする。一千万円分くらいいた。さすがオーストラリアだ。
俺はアラーキーこと荒木経惟氏とおそろいのフィルムカメラ、ビッグミニを持ってシドニーを散策した。気がつけば、今日子さんへのおみやげ「俺が今日子さんにいちばん見せたいと思った風景の写真」を探して散策していた。数日後にはガラ子に会う。それなのに俺の心は、ガラ子に会う準備ができていなかった。会えば大丈夫だ、きっとガラ子との時間を大切に過ごせるはずだ。
俺は海外旅行するとき、まず動物園に行く。このときも動物園に行った。日本では見れないような動物がたくさんいた。カピバラなどそもそもオーストラリアの動物ではないのだが、もともと齧歯類が好きな俺は、えらくカピバラを気に入ってしまった。カピバラの写真を撮りまくるうちに、俺のカメラケースがカピバラの島に落ちてしまった。カピバラはわらわらと寄ってきて、カメラケースを囓り始めた。そんな写真でも、今日子さんに見せたいと思い、ひたすらシャッターを押し続けた。
俺の目は俺の目ではなく、今日子さんの目になってしまった。でも時は過ぎる。シドニーからメルボルンに飛び、そこでガラ子に会った。久しぶりのガラ子であった。俺たちはメルボルン市街で一泊し、翌日は鳥のさえずりの研究者、ザン氏のいるラ・トローブ大学にバスで向かうことになっていた。
もちろん俺たちは再会を喜び、メルボルンを散策した。会えなかった8ヶ月の出来事をお互いに更新しているうち、ガラ子はアメリカ平和部隊からバヌアツに派遣されていたジョンという同僚の話をしばしば交えるようになった。俺は俺で、今日子さんという方と少し仲良くなった話をした。俺もガラ子も、お互いの仕事仲間の話を何気なくしているという雰囲気ではあった。青年海外協力隊にしても、研究者にしても、「世界を股にかけて」仕事をするのだが、実際に日常的に相手にするのはごく少数の同僚である。だから、そういう人たちの話は出てくるのは当然なのだ、と俺は思っていたし、たぶんガラ子も思っていた。
宿に入り二人きりになると、なぜかガラ子は頭痛に襲われた。かなりの頭痛なようで、ほんとにつらそうだったから、俺は非常に心配であったが、ガラ子は救急に行くまでもないと言う。そんな状態ではあまり眠れまいと俺は心配だったが、翌日薬局に行くことにして、再会の最初の夜はすぎた。朝になり、頭痛薬を買って飲むと、ガラ子は復活した。
その日はザン氏を訪問して、キンカチョウというオーストラリア固有の鳥類の研究施設およびフィールドを見学させてもらう予定であった。俺は鳥を対象に研究してきたが、野外研究というものは全くしたことがなかった。ザン氏はクイーンズランドの高原にキャンピングカーを設置し、そこからキンカチョウの観察に出かけるのだ。キャンピングカーにはザン氏の息子も研究助手として住んでいた。俺とガラ子はそこに一泊させてもらい、キンカチョウが夕方にねぐらに戻るようすと、明け方にねぐらから飛び立つ様子を観察させてもらった。俺はメリーランド時代にキンカチョウの聴覚についての論文をいくつか書いていたので、ザン氏とは研究仲間だった。初対面であったが、研究者というのは論文を通してお互いに持った敬意をもとに、すぐに友だちになれるものなのだ。
ザン氏はその頃、ちょうど本を書いていた。その本は1996年に「キンカチョウ:野外研究と実験室研究の統合」という題目で出版された。俺の論文もいくつか引用されており、俺はとても嬉しかった。ザン氏は2009年に、あのキャンピングカーに妻と娘と住み込んでキンカチョウの研究をしているところを大規模な山火事に襲われた。三人とも焼死した。息子さんだけがそのときキャンピングカーにおらず、生き残った。オーストラリアの山火事の恐ろしさを俺はそのとき知った。そして、これは当たり前のことであるが、どんなに業績を挙げた研究者であっても、自然災害は無差別に巻き込むことを学んだ。当たり前のことだが、死がどのような形で人を招くのか、誰もわからない。俺はとても悔しかった。
将来そんなことになるとも知らず、俺たちは無邪気に野外研究を楽しんだ。オーストラリア道中、このときだけは、俺の目は今日子さんの目ではなく、俺の目になっていた。ガラ子は夕方が近づくと再び口数が少なくなり、頭痛を訴えたので、俺たちは予定より早めにザン氏の研究現場を離れ、宿に戻った。その翌日は、メルボルンからアデレードに飛び、アデレードからカンガルー島に飛んで、野生動物三昧の予定だ。ガラ子の頭痛は夕方以降出てくるのでのんびり夕食を食べるわけにもいかず、俺たちは早々に眠りに就いた。
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岡ノ谷一夫
帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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