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村井さんちの生活

 先日、次男の段位審査会(剣道)につきあった。

 私は今まで、次男の部活動にあまり積極的に関わらないようにしてきた。もちろん、道具を揃えるとか道着の洗濯をするなどの支援はしてきたのだが、例えば体育館での練習や練習試合の見学などは、最低限にしてきた。保護者に対して大変オープンで風通しのよい部活なのだが、次男が親以外の大人と過ごす時間を邪魔したくなかったのだ。私は他のお母さんたちのように、機転が利くタイプでも、気が利くタイプでもない。自分が中学生だった頃のことを思い出し、部活動の場に母親が現れたら、私だったらやめてくれと思っただろうなとも考えた(帰宅部だったけど)。だから、なるべく邪魔をしないように、コソコソと隠れていたというわけだ。

 ところが今回は、コロナ禍の影響で、例年とは段位審査会の開催形態が異なり、会場までは、できる限り保護者が引率することになったと、申し訳なさそうな電話が顧問の先生からかかってきた。「行かせていただきます!」と元気よく答えたが、なんだか心が重くなった。会場に行くことが面倒くさいのではない。私は剣道について何も知らない。そんな私が息子を連れて行って、かえって足手まといにならないのだろうかと一気に心に暗雲が立ちこめたのだ。

 しかしここで救世主が現れた。普段から仲のよい、息子さんが同じ剣道部に所属するお母さんが、「一緒に行こうよ! 車、出すよ!」と声をかけてくれたのだ。「えっ、そんな…でも、ありがとう」と、私は大いに喜んで即答した。だって一人では不安だったから。ランチは私に払わせて! と、いつもの言葉を口にして、ありがたく好意に甘えることにした。

 当日の朝、彼女は8人乗りの大きな車で颯爽と現れ、大荷物を担いだ息子共々、私を会場まで連れて行ってくれた。会場に到着して、一人ではないことに安堵した。なぜかというと、まさに、右も左もわからない状態だったのだ。入り口がどこなのかも、どの会場に行けばいいのかも、さっぱり意味がわからない。このような活動に詳しい彼女がいなかったら、私と息子は、なんとなくうつむきながらウロウロするしかなかっただろう。結局、彼女とその息子さんのあとについて、私と息子はキョロキョロしつつ、会場に向かった。

 「密を避けてください! 保護者の方の入場は最後になりますので、この場から離れてください!」というアナウンスが繰り返される会場入り口に掲示板があり、どこの会場で何段の審査が行われるのか、詳しく書かれた紙が張り出されているのだが、密を避けるためか、非常に細かい区分けがされていて、さっぱりワケがわからない(たぶんわからなかったのは私だけだ)。

 息子は掲示板を素早く確認し、所定の位置まで移動していた。なんだ、自分でできるじゃん、ああ、よかったと思ったそのとき、私を連れてきてくれたお母さんの携帯が鳴った。女子部員Mさんの到着が遅れているというのだ。

 Mさんは駐車場までお母さんに送ってきてもらったが、お母さんは仕事があってそのまま戻ったらしい。ここまで一人で来ることができるかなと、とても心配になった。私だったら無理だ。多くの中学生たちが入り口付近に集まり、そろそろ入場という時になって、Mさんは息せき切って、頰を赤くして現れた。小柄な体に、道具一式が入った重そうなバッグ、竹刀、水筒を持ち、これ以上ないほど不安な表情で、困ったように私を見た。

 えっ、私!? と焦った。するとMさんは、あ、このおばさん、ダメだと思ったのだろう、大荷物を抱え直し、急いで掲示板の辺りに立った。なんとかして助けてあげねばと焦った私は彼女の後ろから、「Mさんの会場は…」と、必死になってMさんの名前を名簿のなかに探しはじめた。そこへ再び救世主が現れ、「Mさん、こっちだよ!」と彼女の手を引き、所定の場所に連れて行ってくれたのは、もちろん車を出してくれたお母さんだったというわけだ。なんだかもう、すいません…。

 観客席から段位審査を見守っていた私の目には、Mさんの姿ばかりが映っていた。実技が終わり、休憩のために観客席に戻って来たMさんは、不安そうに両手で顔を覆っていた。声をかけることができず、ただただ、「合格していてくれ」と願った。

 実技が終わり、そして筆記が終わり、合格者の発表が行われた。掲示板に張り出された名前を確認する、若い顔、顔、顔。次男は掲示板を確認すると、私の顔を観客席に探し、目があった瞬間に、静かに両手で小さな丸を作った。私は頷き、そしてMさんの姿を追った。小柄な彼女は見えない。安堵した表情の部員たちが戻り、最後にMさんも戻って来た。表情は緊張したままだった。

 見守っていたお母さんの一人が彼女に明るく声をかけた。「どうだった?」

 Mさんは静かに頷いて、「受かってました」と言った。私は突然、突拍子もない声で「良かったねええええ!」と言ってしまった。Mさんはニコッと微笑んで、静かに荷物をまとめて、お母さんが迎えに来ているという駐車場に向かって、一人、歩いていった。

義父母の介護

2024/07/18発売

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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