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チャーリーさんのタコスの味――ある沖縄史

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 八重島の景気が後退しつつあったとはいえ、勝田さんのスーパーレストランはなかなか繁盛したようだ。「アメリカさんは、良いと思ったら加勢をしてくれますからね」と勝田さんは懐かしむ。
 美味しい店だ、と気に入ってくれた常連客が増えていく。やがて、彼らは仲間を連れてくる。給料日に若い兵士を連れて来て、食べられる限界まで数人で奢る姿もよく見られた。ビーチパーティや歓送迎会をするからと、まとめて軽食を持ち帰ったり配達を頼まれたりすることもあった。
 馴染みの客から名前を聞かれ、「カツタ」と答えたが聞き取れなかったらしい、「チャーリーと呼ぼう」と命名された。沖縄では横文字の名前がつくのは商売繁盛の証だ。以来、外国人にはチャーリーと名乗るようになり、1970年にふたたび店を移転した時、店名を「CHARLIE’S PLACE」と改めた。
 勝田さんの「Aサインの日々」を写した、私が一番好きな写真がこれだ。

勝田家より提供

 1965年のクリスマス、店の常連から通訳を頼まれた。地元の総合病院に入院している子供たちを慰問してプレゼントを届けたい、一緒に来てくれないか。その時の記念撮影だそうだ。後ろで若いサンタクロースが笑っている。
 基地の街には当時から、米兵たちと地元との間に温かい交流があったことが分かる。なにより、勝田さんの悠々とした面構えがいい。

筆者撮影

 米軍統治下でAサインを掲げた店にとって、Aサインはただの営業許可証ではない。もっと大きな意味を持っていた。設備や衛生面が整った店であることの品質保証であり、米軍と渡り合って店を維持してきた証明でもある。地元では特別な店と見られた。まさに勲章といっていい。
 1972年に沖縄が本土復帰するにあたって、Aサインは返還することになっていた。そこで、沖縄Aサイン連合会は、佐世保で入手した許可証を参考にして、独自の標識を発行。それまでのデザインを使用できるよう米軍に許可をもらい、四隅に陸・海・空軍と海兵隊のマークを配置して「WELCOME MILITARY PERSONNEL(軍人歓迎)」の文字を入れた。
 Aサインだった店の多くは、今もこのAサインを飾る。勝田さんもそうだ。


 カメラをぶらさげて八重島を散策した。
 おもむきのある建物などを撮影しながら歩いていて、坂道の途中でふと足が止まった。おや、なんだか見たことがあるような…。

筆者撮影

 立ち止まってしげしげ眺め、斜めから正面から何枚も撮影していると、中から訝しげな顔をした作業着の男性が出てきた。
 「あ、すみません、怪しい者ではありません」と、いかにも怪しげなセリフをとっさに口にした後、慌てて「面白い建物だと思いまして。私、この辺りに昔あったレストランについて調べているんです」と説明した。レストランと聞くや男性はきらりと目を光らせ、得意げな表情で教えてくれた。
 「ここはね、昔、Aサインのレストランだったんだ。ほら、今はアベニューにある、タコスのチャーリーさんの」 
 ほらほら、と指さされた壁には、消えかけた「Su」の文字がうっすら見えた。「スーパーレストラン」だ! コーラか何かのマークも見える。勝田家のアルバムで見せてもらった写真を思い出した。台風の多い沖縄では、看板を取り付けると危険なので、コンクリートの壁に直書きする。だから、こうして何十年後にもかつての店の痕跡が壁に残る。
 わぁ! 私が声をあげて喜ぶと、男性は中を案内してくれた。
 1970年に勝田さんのレストランが八重島から移転した後、食肉会社が倉庫として使ったそうだ。床に断熱材が施されたので30センチほど底上げされ、出入口はまるで茶室のように身を屈めないと通れない。ほどなく男性の材木店が建物を引き継ぎ、現在に至るという。
 「こっちの部屋のほうが、雰囲気が分かるでしょ。たぶん、こっちが店のフロアで、そっちが厨房だったはず」。レストランのフロアだったらしい部屋の床は、はげかけた茶色いタイル敷き。厨房らしき小部屋とトイレには、水色とピンクの陶器のタイルが貼られていた。なるほど、Aサイン店の仕様だ。

レストランのフロアに通じるトイレの入り口に「お手洗 TOiLETS」。中の壁には「WASH HANDS 手ヲ洗イマシヨウ」とペンキの文字が残っている(筆者撮影)。
住居部分だった部屋は今、作業場として使われている(筆者撮影)。

 「2軒目の店だった建物を見てきました。材木屋さんが自慢そうにしていて、そのまま今でも使われていましたよ。レストランの痕跡があちこちに残っていて。ああ、ここだったのか、って感激しました」
 翌月、勝田家を訪ねた日、私は写真をノートパソコンに取りこんで持参し、画面に次々と表示して見せながら興奮気味に報告した。勝田さんは「やぁ、まだありましたか」と穏やかに笑った。同席したお嬢さんは「一軒だけ古くて、ご近所に迷惑をかけてないといいけれど」と心配そうに言った。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

宮武実知子

みやたけみちこ 主婦・文筆業。1972年京都市生まれ。京都大学大学院博士課程単位取得退学(社会学)。日本学術振興会特別研究員(国際日本文化研究センター)などを経て、2008年沖縄移住。訳書にG・L・モッセ『英霊』などがある。「考える人」2015年夏号「ごはんが大事」特集に、本連載のベースとなった「戦後日本の縮図 タコライス」を寄稿。

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